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2023年02月15日
黒板博士のプラハ滞在記1
諸戸博士のモラビア・シレジア紀行に続いて、歴史学者の黒板勝美氏が世界周遊旅行の途中でプラハに立ち寄った際の記録を紹介する。『西遊二年欧米文明記』(1911年刊)については、すでにここで簡単に紹介したが、今回は記事を引用しながら、解説を加えてみる。黒板博士がこの世界旅行に旅立たれたのは1908年で、翌年に帰国しているから、諸戸博士のモラビア旅行よりも早いのだが、活字になったのは同年だし、モラビア在住の日本人としてはプラハを後回しにするのは当然なので、この順番となった。例によって表記は読みやすく新かなに改めてある。
ドレスデンから南の方索遜瑞西(ゼツクスシユワイツ)の勝景を過ぎて墺国の境に入り、やがてボヘミヤの首都プラーハに到れば、まず物寂びた古建築が目につく。その過去の湿っぽい空気に何となく床しい心地がする。しかも清きモルダウ河は絵の如き川中島を横えてプラーハの全市を紆余索回して居るのに、余は京都に遊んで鴨川のあたりにあるのではないかと夢のように疑わるる。
索遜瑞西(ゼツクスシユワイツ) チェコ語のサスケー・シュビツァルスコ、つまりザクセンのスイスと呼ばれる地域のこと。国境を越えてチェコ側のチェコのスイスと呼ばれる地域に続いている。エルベ(ラベ)川の右岸で、チェコ側にもドイツ側にも奇岩のそびえる景勝地が多いらしい。昨年の夏この辺りで森林火災が起こった際に、外国のメディアの中には、チェコとドイツとスイスで火事が起こったと報道したところもあったらしい。
川中島 ブルタバ川右岸の新市街と、左岸のマラー・ストラナとその南のスミーホフ地区の間に浮かぶ三つの島であろうか。
一千四百二十四年のフッシット戦争にも、有名なる三十年戦争にも、墺太利王位継承戦争にも、第二シレシヤ戦争にも、はた一千八百六十六年の普墺戦争にも、このプラーハは包囲せられ、陥落せられた修羅場となった。北独逸と南独逸の政治的兵略的要衝に当って、いつも戦陣の衢となって居る。そして嘗ては皇帝カール四世の下に最も繁華を極めたこの市も何時となく、古色蒼然たる都府となって仕舞ったが、その政治的兵略的の要地たるに至っては、今も昔とかわらぬ。のみならず、その市民が主としてスラーブ人の一派チェヒ族たるがために、墺国に於ける反独逸思想の最も盛なるところで、社会的運動の中堅たる観がある。
フッシット戦争 フス戦争。普通は宗教改革者ヤン・フスの処刑(1415)を契機に起こったフス派の反乱全体(1419〜1436)のことを言うが、黒板博士が、なぜ1424年という年号を使ったのかは不明。
三十年戦争 この戦争のきっかけとなったのが、1618年にプラハの王宮で起こった窓外投擲事件で、最初の大きな軍事的衝突が、1620年のビーラー・ホラの戦いだと言われる。
墺太利王位継承戦争 オーストリア継承戦争中にプラハが包囲され陥落したのは一回目が1741年のことで、二回目がオーストリア継承戦争の一部をなす第二次シレジア戦争中の1744年のことである。どちらも、オーストリア軍によって、短期間で解放されている。継承戦争自体はその後も1748まで継続した。
皇帝カール四世 言わずと知れたルクセンブルク家の神聖ローマ帝国皇帝のカレル4世。ボヘミア王としてはカレル1世なのだが、チェコでもチェコの君主として取り上げる場合でも、慣例的にカレル4世と呼ばれている。ちなみに最近即位した英国王は、即位までは、チェコ語でも「チャールズ」皇太子と呼ばれていたが、即位したとたんに「カレル」三世と名前の呼び方が変わってしまった。
人種の軋轢なるものは長い歴史といえどまた如何ともすることが出来ぬ例証をこの都に示して居る。宗教の力も猶お之を和ぐることが六ヶしい事実を証明して居るのはこのプラーハである。しかもその歴史はますます軋轢の度を増さしむることがある。その宗教は更にその反目を劇しくすることがある。プラーハの現状は之を説明して居るのではあるまいか。
人種の相違は従って言語の相違である。言語の相違が、もし根底に於て国民の親密一致を阻害するものならば、その間に起る誤解から延ひて反目、軋轢となりて現今のプラーハを二分したのである。全市人口の五分一を有する独逸人がその四倍の人口を有するチェヒ人と対抗し得るは政治的関係と商業的勢力に存する。一方は多数を以て他を圧せんとし、一方は勢力を以て他に対して居る。プラーハには到るところ言語人種の相異れるより生じた結果を見ることが出来るのである。
彼等はただ社交上に軋轢して交通するも好まぬという有様ばかりでなく、互に他の言語を了解しながら、自ら語ることを欲せぬ。独逸人の開けるカフェーにはチェヒ人の遊ぶものなく、チェヒ人の商店には独逸人の顧客を有することは出来ぬ。独逸語の大学とチェヒ語の大学と相対する。劇場も同様相分れて、一方に独逸の歌劇を興行すれば、一方にはボヘミヤの国民劇で喝采を博するのである。チェヒ人が毎年独逸人を諷したお祭り騒ぎをやるなどということを聞いたが、そんなデモンストレーションは必ずしもお祭り騒ぎばかりではないように思う。これは人種や言語が容易に同化し難い最も有力な一例として、余は非常に興味を感じぜざるを得なかつた。それに国民の自覚というものがこの問題と結合すれば、その解決がますます困難なるを想わしめたのである。プラーハの博物館や美術館では予想通りの結果を得なかったけれど、この現状を観て余はプラーハに遊んだ甲斐があったと思った。そしてその風光の明媚なるに於て、はた歴史的の都府たるに於て、宗教的の市たるに於て、このプラーハに遊んだことを更に喜ぶのであった。
このあたりは特に解説することもないのだが、黒板博士の観察眼が優れているだけではなく、案内人に人を得たのであろう。言葉の違いは、ある程度耳で聞いてわかるにしても、見ただけで人種の違い宗教の違いが見て取れるとわけではない。名前や名字もそれだけでは、チェコ系か、ドイツ系なのか判別できないことも多いし、この20世紀初頭はよくわからないが、以前は必要に応じてチェコ名とドイツ名を使い分けている人もいたらしいし、本来ドイツ語話者として育った人がチェコ人意識に目覚めて、チェコ語を使い始めるなんてこともあったようだ。
むしろ興味を引くのは、黒板博士は、なぜ人種問題、言語問題、宗教問題と、「国民の自覚」(言い換えれば国民意識とか民族意識となるだろうか)の結びつきに興味を抱いていたかで、当時の日本が日清、日露戦争の勝利に浮かれて、海外進出を進めていたのと関係するなどと妄想してしまう。恐らく、多くの日本人が海外領土を手に入れることを単純に喜んでいた時代に、黒板博士は現実に多民族、多言語、多宗教の雑居するプラハの現実を見て、日本の今後に思いを馳せていたのだろうか。
もう一つ気になるのは、プラハの博物館や美術館にどんなことを期待していたのかだけど、流石にこれまでは憶測のしようもない。現在ではあちこちにいろいろな博物館、美術館が存在するプラハだけど、当時どのぐらいあったのかも、わからない。全くなかったということはないと思うけど、展示内容がいまいちだったのかな。
本来一年ほど前に準備してあったものだが、すっかり忘れていた。今回多少手を入れて掲載。