新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2020年04月18日
自宅監禁日記(四月十五日)
昨日政府が今後の大体の予定を発表したのは、これまでの規制の強化と緩和が突然のものが多く、対応に苦慮させられたという批判が寄せられていたからに違いない。もちろんこの計画にも野党は基準が見えないとか、遅すぎるとか批判を浴びせているが、この手の規制にしろその緩和にしろ、完璧に計画するのは不可能なのだから、批判がでてくるのは仕方がない。
一番批判されるべきは、学校をどうするのかがはっきりしないことだと思うのだが、これに関しては野党側もあまりはっきりとした意見は出していない。それは保護者が完全に二分されていて、自宅に子供がいても問題のない、つまりは仕事を休んで子守をしていても、国から補助金が出ることで経済的に問題のない親は、今学期の授業の再開をやめて9月の新学期からの再開を求めて署名活動をしているのに対して、子供を家で面倒見切れない親たちは学校を即刻再開するように求めて署名活動をしているという状況に日和見しているのだろう。政府がはっきりとした方針を示さないのも同様の理由である。
しわよせは当然現場に押し寄せることになり、授業を再開しても一クラス15人以下という制限がつくから、普段なら1回で住む授業を、2回、3回するか、先生の数を増やすかしなければならなくなる。その上、コロナウイルスを理由に登校せずに自宅で勉強する子供たちの面倒もみなければならないから、下手すると教室での授業に加えて、オンラインでの授業も継続ということになりかねない。さらに安全のために高齢の先生たちの出校は禁止されそうだから、若手の先生たちの負担は増える一方である。チェコは医師だけでなく教師も高齢化が進んでいて問題の一つになっているのだ。
それから実業系の、実際に機械なんかを使って勉強する必要のある学校では、オンラインでできることに限りがあり、学生を卒業させるために実習は必須なのだが、これも再開のめどが立っていない。再開の許可がでたとしても、マスクなどの感染防止装備を着用するという条件が課されるのは確実で、現在の需要過剰の状態では確保することは金銭的にも不可能だという学校が多い。
教育大臣はその辺は国の責任で確保するべきだと述べているが、それが実現するかどうかはわからないし、医療関係者には回せない中国製の不良品を押し付けられることになる可能性も高い。中国に対する配慮なのか難なのかあまり報道されないが、使用期限が切れたものが送られてきたとか、中国が不良在庫を高値でヨーロッパに売りつけている実態が漏れ聞こえてきている。
それ以外にも、ホテルなどの宿泊施設やレストランなどの飲食店は、ほぼ三ヶ月営業停止という事になり、一年の三分の一の収入を失うことになるわけである。これを借金をしてでも持ちこたえられるところはどのぐらいあるのだろうか。営業再開してもすぐに客が戻ってくるとも思えないし、以前と同じような形態で営業できるのかもよくわからない。レストランなんかでは人間距離を確保するために客席の間引きが必要かなんて話もあるのである。
非常事態宣言を出していながらコロナウイルス騒動を終結させるのに三ヶ月かかるというのは、どう評価するべきなのだろう。様々な規制を導入したことで減らせた被害と、経済的な損失の収支を、感情に基づいてではなく、理性にもとづいて客観的に評価しておく必要はあるはずだ。救えた命の数が多かったとしても、結果として困窮に陥って路頭に迷う人が続出するようでは、非常事態宣言を出して厳しい感染対策を行ったのは失敗だったと評価されるべきである。この辺は、チェコより日本の方が心配かな。あっちは宣言だけで規制が何やってるのか不明だしさ。
久しぶりに漫画図書館Z(今でもJコミと言いたくなる)を覗いたら、読める漫画が急に増えていて驚いた。自宅待機の人への配慮ということだろうか。そこには意外な漫画家の名前もいくつも見かけたのだが、何といっても一番の驚きだったのはあの永島慎二の作品が、しかも、一冊、二冊ではなく何冊も読めることである。寡作の漫画家だと思っていただけに、作品が何作もあることにも驚いてしまった。
1990年代の半ばに、古い文学的と言いたくなる漫画作品を集中的に読んでいた時期がある。不条理漫画なんて言い方をされることもあったと思うのだけど、その手の漫画の中で世評が高かったのはつげ義春と永島慎二の二人だったと記憶する。つげ義春の名前を挙げる人のほうが多かったかな。どちらの作品も何冊か復刊されていて読んだのだけど、個人的には難解に過ぎるというか理解しようのないところのあるつげ作品よりも、永島慎二の作品の方が好きだった。
確実に読んだと言えるのは『フーテン』と『漫画家残酷物語』の二作なのだけど、どんな内容だったかさっぱり思い出せない。それで最初に見つけたときには、なつかしさに飛びつきそうになったのだけど、読み始めることはできなかった。かつて感じることができていた感動を、今読み直して再び感じられる自信がなかったのだ。
この前再読した「マスター・キートン」のような作品なら、読みたいときに読めば面白いと思えるからいいのだけど、文学趣味の作品になると読むときの精神状態によって感じ方が違う(ような気がする)。漫画じゃなく小説でもそんな作品があって、一番顕著なのは折口信夫の『死者の書』だろうか。読み始めたら最後まで一気に読み通してしまうときと、なかなか読み進められなくてすぐにやめてしまうときがある。あるというよりはあったが正しいか。とまれその感じ方の違いは、心にゆとりがあるかどうかだと考えている。それで、引きこもり中の精神状態では、永島慎二を読み通せる自信がないのである。これもまた、大したことではないし無理やり感が強いけど、コロナウイルス対策が人間の心に悪影響を与えるという実例である。
2020年4月16日24時。
https://onemocneni-aktualne.mzcr.cz/covid-19
https://www.krajpomaha.cz/