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2019年11月28日
お蔵入り映画の日3(十一月廿六日)
承前
七本目が始まったのは午後8時。この夕食後の一番いい時間にミロシュ・フォルマンの作品を持ってきたのは、チェコテレビも視聴率を多少は意識しているということだろうか。選ばれた作品は、「火事だよ! カワイコちゃん」という邦題で日本でも公開されたらしい「Hoří, má panenko」である。この邦題については、黒田龍之助師が「センスを疑いたくなる」と『チェコ語の隙間』で評している。
1967年末に国内で公開された、この映画が後に禁止された理由は、フォルマンがアメリカに亡命したことだと思っていたのだが、チェコ語版のウィキペディアによると、亡命ではなく、クンデラと同様に合法的に出国し、アメリカに移住したということになるらしい。クンデラの場合とは違って、チェコスロバキアの国籍を剥奪されることはなかったから、以後もチェコの映画関係者と協力して仕事をすることができたし、「アマデウス」の撮影をチェコ国内で行うこともできたのだという。それでよかったのか、共産党政権、と叫びたくなるような事実を確認してしまった。
クンデラが小説を書いても、外貨稼ぎにはならないけど、フォルマンの映画のためにチェコの映画関係者が仕事をすれば、外貨で謝礼がもらえるというのも、経済的に行き詰りつつあった東側の国の国としては考慮しなければならなかったのかもしれない。その結果というわけでもないだろうけど、チェコでは今でも外国の映画撮影に多額の補助金を出してまで誘致している。外国の映画撮影隊が、チェコ国内で使うお金の十分の一が政府から補助されるんだったかな。
では、仮にフォルマンが原因ではないとするなら、禁止された理由は内容ということになるのだろうか。田舎の山村の消防士たちの都会へのあこがれと、それによって引き起こされる舞踏会でのドタバタ劇はそれほど問題になったとは思えない。問題になったとすれば、参加者がくじを引いてもらえることになっていた賞品が、会場の電気が消えるたびに盗まれて数を減らすというシーンだろうか。ここには、機会があれば盗むという共産党政権下のチェコ人の民族性が描き出されているわけだが、政府としてはそれを認めるわけにもいかなかったのかな。
でも、合法的だったとはいえ、外国に出てしまったフォルマンの存在感を消すために、作品をお蔵入りにしたと考える方が、やはり自然だろう。
八本目は、現代チェコ文学最高の作家ボフミール・フラバルの作品を、イジー・メンツルが映画化した「Skřivánci na niti」。日本でも「つながれたヒバリ」という題名で知られている。制作されたのは1969年で、関係者の前で上映された後すぐにお蔵入り決定。その内容が問題にされたようである。チェコ語が拙かったころに見ても、いいのかと言いたくなるような風刺というか、共産党関係者の悪いところをそのまま描き出したシーンが多かったから、上映禁止だったという話を聞いてすぐに納得したのを覚えている。
当時のロマ人のあり方とか、共産党員の不正を上に報告したら、上の人も一緒になって不正に加担するとか、見どころはいろいろあるのだけど、一番印象に残るのは、最後のネツカーシュ演じる若者が、視察に来た共産党の大物(役職までは覚えていない)に、何気ない質問をしたら、その場で捕まって、炭鉱送りにされたシーンである。なんで、何が問題で捕まったのかよくわからなかったんだけど、軽い、一見何の問題もない言葉であっても、共産党に悪く取られたら逮捕される理由になるという、当時の共産党政権下の現実を見事に描き出したシーンだった。
原作のフラバルと監督のメンツルという組み合わせは、チェコの映画界における黄金コンビとでもいうべき存在なのだが、ここに繊細な若者を演じさせたら右に出る者のいなかった若き日のネツカーシュが主演として加わったらもう最強で、この三人の組み合わせで「つながれたヒバリ」と「厳重に監視された列車」の二作が世に送り出されている。
この日最後の作品は「Kladivo na čarodějnice(魔女への鉄槌)」。以前にもどこかに書いたが、シュンペルク周辺で勃発した魔女狩りの様子を描いた作品である。監督はオタカル・バーブラ。この人は「ヤン・フス」や「ヤン・ジシカ」などの歴史的な人物を描いた長編映画の監督としても知られている。監督としてのキャリアを始めたのは第二次世界大戦前のことで、ヒティロバーなどの「ノバー・ブルナ」の監督たちよりも上の世代になる。
監督のバーブラは、第一共和国の時代からビロード革命後の資本主義の時代まで、そのときどきの政権と対立することなく、長期にわたって監督として作品を送り出してきた人物である。出演している役者の中にも特に共産党政権と問題を起こしたことで知られるような人物は存在しない。そうなると内容が問題だったということになる。
魔女裁判がテーマのこの映画では、魔女として認定、もしくは指名された人を捕らえて、拷問などの様々な手法で、魔女であることを自白させる様子が描き出されている。捕らえた資産家の財産を没収して、それで宴会を開いている様子も出てきたかな。それはともかく、罪もない人に言いがかりをつけて、あらゆる手段を使って自白を強要するところが、1950年代のチェコスロバキアに吹き荒れたスターリン主義を思い起こさせるというクレームがついてお蔵入りになったらしい。
この作品が禁止された事実は、スターリン主義の否定から始まって「プラハの春」に行きついた自由化を、否定し「正常化」された共産党政権が、スターリン主義に回帰したということを示しているのだろう。秘密警察の暗躍する魔女狩りの時代、つまり階級の敵を見つけてレッテルを貼りつけ弾圧する時代が戻ってきたのである。
この作品も、完成は1969年だが、「プラハの春」の自由化の中で企画が立てられ撮影も進められた考えてよさそうだ。
この最後の「魔女への鉄槌」が終わったのが、12時半ごろだっただろうか。好きな人は最初から最後まで見通したのだろうなあ。それはともかく、関係者が問題を起こすと、撮影済みの作品であってもお蔵入りにしてしまう日本のテレビ業界ってのは、共産主義政権下のチェコスロバキアにおける検閲と同じレベルの自主規制をやっているわけだ。こんな連中に報道の自由とか何とか偉そうなことを宣う資格はあるのかね。監督や出演者の人格と作品の評価は別物だとして、いくら抗議が来ようとも放送するのが報道の自由ってやつじゃないのかね。まあ、演技力よりも人気を優先して、アイドル上がりやらモデル上がりやらを起用する日本の映画やドラマにそれだけの価値があるかどうかは別問題だけどさ。
日本には、表現の自由、報道の自由が侵害されているとして騒いでいる人たちがいるようだけど、実態はメディアの側が自由を求めていないというのが正しいように見える。報道の自由があろうがなかろうが、スポンサーからの経済的な圧力やら、政治的な圧力やらがかかるのは当然のことだろう。問題はメディアの側にそれを跳ね除けるだけの気概があるかどうかだが、日本のマスコミには期待できそうもない。
2019年11月27日17時。
タグ:映画