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2019年04月10日
森雅裕『自由なれど孤独に』(四月八日)
久しぶりの森雅裕で、久しぶりに昨日の分の記事を今日の夜になって書き始めている。自転車操業の復活である。テーマだけは午前中に決めていたけれども、書き始める時間が残されていなかった。ということで、手早く書き上げよう。目標は一時間で書き上げることである。余計なことをしなければ、30分ぐらいで書きあがるのだろうけど、PCで書いていてネットにつながっていると、あれこれやっているうちに時間が消えてしまうのである。
さて、本題のこの『自由なれど孤独に』には、森雅裕が講談社から出版した最後の小説である。刊行の日付は1996年4月3日。乱歩賞を取って講談社から最初の単行本『モーツァルトは子守唄を歌わない』が刊行されたのが、1985年のことだったから、11年で講談社との縁が切れたということになる。その間の刊行書籍は9作、文庫版を数えなかったら平均で年一冊にならないことになる。それでもファンとしては、関係が拗れていたのに、ここまでよく付き合ってくれたと感謝するしかない。
本書が講談社から刊行された事情については、本書と前後して刊行された『推理小説常習犯』の「ミステリー作家風俗事典」の「あてつけ」のところに記されている。「ワーグナーを書いた原稿なら採用してやる」とのたまう編集者もあれだけど、注文されたワーグナーを悪役にして、これでもかというぐらいいやな人物として描き出してしまう森雅裕も森雅裕である。結果として悪役ワーグナーの方が、主人公のブラームスよりも存在感を発揮している部分があるから、編集者としては満足だったのかね。
とまれ、単行本の帯には、文庫版は出ていないからわざわざ断るまでもないのだけど、「音楽ミステリー」という言葉があり、ブラームス、ワーグナー、ロスチャイルド何かの名前が並んでいる。これを見た時点で、森雅裕ファンは、森雅裕が出世作の『モーツァルトは子守唄を歌わない』の路線に戻って書いた作品ではないかと期待したはずである。過去の出来事の謎を解明するために、作曲家が探偵役としてあれこれ動き回るという筋立ては、『モーツァルトは子守唄を歌わない』の路線に近いが、主人公のタイプは傍若無人な印象も残したベートーベンよりも、『椿姫を見ませんか』の森泉音彦に近い気がする。ヒロインの強き女性に引きずり回されるところも似ている。
不満はその貴族の娘で軍人でもあるヒロインと主人公のブラームスの関係。もう一人、直接登場はしないけれども、ブラームスに思い人がいるというのは、史実どおりではあるのだろう。ただ、、昔の森雅裕だったら、また別の処理の仕方をしたのではないかと思ってしまった。作家にとっては年季の入ったファンというのは厄介なものでもあるのだろう。過去の作品と比較して、あのころのあの作品の方がよかったとかいう感想を漏らしてしまうのだから。
本書の前の作品の『鉄の花を挿すもの』もそうだけど、読んでいて作者の迷いというか、優柔不断さというかが感じられたのは確かである。いや正確には優柔不断なのは主人公のなのだが、その主人公の優柔不断さに作者の迷いが現れているように思われたのだ。視点人物がほとんど主人公のブラームスで固定されているのに、三人称で書いているのもなんだか落ち着かなかった。「ヨハネスは」というのが、ブラームスとなかなか結びつかなくて、違和感が消えなかった。ブラームスの主観の形でワーグナーの悪口を書いているわけだから、一人称の方が感情移入もしやすくて面白く読めたんじゃないかなあ。もしくは、いっそのことワーグナーの一人称で傍若無人に暴れさせるって手もあるか。
ともかく森雅裕の後期の作品には、初期の書きたいことを書きたいように書いているという爽快感が消えて、編集者や読者の顔色を伺っているような気配が感じられるものが多い。それが古手のファンにしてみればもどかしいというか残念というか。作家として成長するための試行錯誤をそのように誤解したという可能性もないとは言わないけどさ。
最後にもう一言しておけば、この作品で描かれたワーグナーだけではなく、実は森雅裕も作品の質の高さと作者の人間性が必ず一致するわけではないという実例になってしまっているのが皮肉である。ファンだからと言って森雅裕の主張をすべて信じ込むほど狂信者ではないのだ。書かれていない事実もかなりありそうだしね。本人と会いたいとは思わないけど、作品はまた読みたいなあ。うまく落とせなくてずるずる引きずったら、目標の時間を越えてしまった。
2019年4月9日23時50分。
タグ:推理小説