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2017年11月23日

ヤナ・ノボトナーを悼む(十一月廿日)



 仕事が終わってうちに帰ったら、うちのに、「ノボトナーが亡くなったらしいけど、知ってる?」と聞かれてびっくりした。
「それって、ヤナ・ノボトナー?」
「うん。テニス選手の」
「ウィンブルドンで優勝したんだっけ?」
 1998年のウィンブルドンの女子シングルスで優勝したヤナ・ノボトナーが19日の日曜日に亡くなった。享年49歳。癌で長きにわたって闘病を続けていたらしい。今年のウィンブルドンのころに、テレビに出ていたときには、そんなそぶりは全く見せていなかったのだけど……。

 テレビ番組では、キャリアを振り返って、ウィンブルドンでのシングルス優勝に匹敵するものとして、1997年のWTAツアーの最終戦で優勝したことを挙げていた。特に女子では唯一の5セットマッチに勝っての優勝だっただけに喜びもひとしおだったようだ。
 他にも同じチェコ人のヘレナ・スコバーと組んだダブルスでは、シングルス以上の成績を収め、ブランドスラムで12回もの優勝を遂げたのに加えて、ビロード革命前のソウルオリンピックと、革命後のアトランタオリンピックで銀メダルを獲得している。アトランタではシングルスでも銅メダルだったかな。

 世界ランキングの最上位はシングルスで2位、ダブルスでは当然1位である。このシングルスでもダブルスでも世界ランキングの上位に入っていたノボトナーは、最近シングルスで上位にいる選手がダブルスに出場しないのを残念だと語っていたが、チェコにはルツィエ・シャファージョバーがいる。クビトバーとプリーシュコバーが、シングルスのランキングが上がるとともにダブルスはフェドカップぐらいしか出場しなくなったのに対して、シャファージョバーは一昨年シングルスで1けたの順位に入った後もダブルスでの出場を続けている。そして、シングルスは不調で順位を大きく落としてしまったけど、ダブルスでランキング1位の座に就いたのだった。
 ノボトナー自身もチェコスロバキアチームのメンバーとしてフェドカップで優勝した経験があるが、チェコの、このチーム戦での強さというのは、シングルスだけでなく、ダブルスにも力を入れるトップ選手の存在にあるのだろう。今年はダメだったけど、来年はまたチェコのチームがフェドカップで優勝してくれることを願おう。

 ところで、ヤナ・ノボトナーというと、チェコでは、ウィンブルドンで優勝したときのことよりも、初めて決勝に進出して負けてしまった1993年のほうが語り草になっている。あのときは第三セットで、あと少しで勝てるところまで、優勝候補のグラフを追い詰めたのだけど、優勝を意識したせいか突然プレーが崩れて逆転負けを喫した。そして、表彰式で英国王室の女性に声をかけられると、縋りつくように泣き崩れてしまったのだ。
 このとき、「大丈夫、いつか勝てるはず」とかなんとか、励ましの言葉をかけられて、それまで必死にこらえていたのが、こらえきれなくなったらしい。このとき励まされた通りに三回目の決勝で優勝を遂げ、翌年には引退してしまうのだから、ノボトナーの選手としてのキャリアは劇的である。その中でも、一番のドラマが1993年のウィンブルドンで、今見返しても感動のシーンである。

 チェコ、チェコスロバキアの女子テニスの歴史的に言うと、70年代はアメリカに亡命してしまったマルティナ・ナブラーティロバーの時代である。ナブラーティロバーが亡命してアメリカの選手として無敵を誇った80年代は、チェコスロバキアはマンドリーコバーの時代だったと言える。そのマンドリーコバーも80年代の後半に入ってオーストラリアに亡命してしまうのだが(レンドルもそうだけど、80年代末のビロード革命の直前に国を出た選手たちが亡命扱いになっているのかどうかいまいちよくわからない)、その後を継ぐように台頭してきたのがノボトナーだったのである。ビロード革命後マンドリーコバーは、ノボトナーのコーチになっているし。
 90年代のノボトナーの時代の後、2000年代の低迷の時期を経て、2010年ごろからは黄金期と言ってもいい時代に入っている。2011年にペトラ・クビトバーが、ノボトナー以来10年ちょっとのときを経て、ウィンブルドンに優勝し、2017年にはノボトナーも届かなかった世界ランキング1位に、カロリーナ・プリーシュコバーが就いた。クビトバーは2014年にもウィンブルドンに勝っているし、シャファージョバーなどグランドスラムのダブルスの優勝者も何人か誕生している。ノボトナーが最近指導し始めていたという若手の選手にも期待したいんだけどね……。

 このニュースの前日には、長らくチェコの男子テニスを支えてきたラデク・シュテパーネクが引退を発表した。理由はハンドボールのイーハと同じで、怪我とリハビリの繰り返しに耐えられなくなったというものだった。シュテパーネクは、時に過剰なまでのサービス精神を発揮し批判も受けたデビスカップでの活躍が特に記憶に残る。
 ノボトナーといい、シュテパーネクといい寂しいことである。クビトバーやプリーシュコバー、ベルディフたちが、一日でも長く現役を続け一つでも多く試合を見せてくれることを祈って、収拾がつかなくなったこの稿をお仕舞にする。
2017年11月21日24時。









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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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