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2017年07月19日

オロモウツの戦い(七月十六日)



 1241年にオロモウツ近郊で起こった戦いのことを聞いたことがある人はいるだろうか。東方から押し寄せ、キリスト教徒の軍隊を粉砕しヨーロッパを恐怖に陥れたモンゴルの遠征軍を、ボヘミア、モラビアの諸侯の軍隊が、オロモウツの近くで打ち破り、モンゴル軍をモラビアから撃退することに成功したというのである。

 チンギス・ハンの孫に当たるバトゥを総司令官とするモンゴルのヨーロッパ遠征軍は、ロシア、ウクライナの地にあったキエフ公国を滅ぼし、ポーランドに侵入する。そして、1240年4月にシレジアの都市レグニツァ(ドイツ名リーグニッツ)郊外のワールシュタットにおいて、キリスト教世界を守るべく結集したポーランド、ドイツ諸侯の連合軍を打ち破った。
 このときモンゴル軍は、バトゥの本隊から分かれた別働隊でバトゥの従兄弟のバイダルに率いられており、ポーランド=ドイツ連合軍を率いたのは、ポーランドのピアスト王家の血を引いた下シュレジエンの侯爵インドジフ(もしくはハインリッヒ)だった。キリスト教世界の守護者たる神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ二世は、ローマ教皇との抗争に忙しく、モンゴル軍との戦いを呼びかけるだけで実質的には何もしなかったに等しい。

 下シュレジエン侯インドジフの妻の兄(弟かも)であったボヘミア王バーツラフ一世は、4万人の軍を率いて救援に駆けつけようとしていたが、間に合わなかったという。レグニツァから南下してきたモンゴル軍の一部隊と、現在ではポーランド領となっているクラツコで会戦し打ち破ることに成功した。その後、モンゴル軍がザクセンの都市マイセンを目指していることを知ったバーツラフ一世は軍隊を率いてマイセンへと向かう。
 しかし、マイセンを襲ったモンゴル軍は、クラツコの場合と同様に、単なる一部隊に過ぎなかった。バイダルの率いる別働隊は、オパバを破壊してモラビアに侵入していた。モラビアに侵攻したモンゴル軍がボヘミア、モラビアの諸侯からなる軍隊と激突したのが、オロモウツだったのだ。

 バーツラフ一世は、ボヘミア、モラビア軍の主力を率いてドイツに向かっており、モンゴル軍との戦いでモラビアを守り、オロモウツの要塞を守るために派遣された約8000人の軍隊を率いたのは、チェコの代表的貴族の一つモラビアのシュテルンベルク家のヤロスラフであった。もともと城塞都市のオロモウツに籠城して、陥落を防ぐために派遣された軍隊を率いて、ヤロスラフは、籠城戦ではなく果敢にも野戦を挑んだ。そして、見事モンゴル軍に勝利したというのである。
 その結果、バーツラフ一世は、援軍を送っただけで実際には戦闘に参加していないにもかかわらず、「モンゴル人を打ち破りし王」という呼び名を獲得したと言われている。部下達の功績とはいえ、モンゴル軍の主力部隊に勝利するというポーランドにも、ドイツにも、ハンガリーにもできなかったことを達成したのだから、国王が国際的に称賛されるのも当然だと言えるのかもしれない。

 ところで、モンゴル軍が、ヨーロッパで戦争に負けて撃退されたという話は聞いたことがないぞという方、その意見は正しい。上に書いた話は、チェコの一部の年代記に記されている出来事であるが、この戦いが実際に起こったという証拠はどこにもないらしい。
 そもそも、軍隊の指揮者とされるシュテルンベルク家のヤロスラフの実在が疑わしい。シュテルンベルク家は後にモラビアとボヘミアの二系統に別れ、モラビアのシュテルンベルク家は、16世紀には断絶してしまうのだが、17世紀にプラハのある修道院の墓地に置かれていたヤロスラフの墓を、ボヘミアのシュテルンベルク家が獲得した修道院の地下墓地に移設しようとして、棺を掘り出したところ、中には何も入っておらず、仕方なくオロモウツの戦いでの功績の記された墓碑だけを移設することになったらしい。

 結局、バイダルの別働隊がモラビアを離れハンガリーを攻略中だったバトゥの本隊に合流したのは、モラビアで敗戦したからではなく、やはりモンゴル帝国第二代皇帝のオゴデイ・ハンの死を知ったことによるのだろう。フス派による戦争の技法の革新が行なわれる前のボヘミア、モラビア軍が、モンゴル軍に勝てたとは思えない。

 さて、そこで疑問となるのは、誰がオロモウツの戦いなる架空のモンゴル軍に対する勝利をでっち上げたかである。バーツラフ一世が王の権威を上げるためにでっち上げたのだろうか、それとも、シュテルンベルク家だろうか。いや、民族覚醒の時代に過去の年代記が書き換えられた可能性もあるか。ヨーロッパで唯一モンゴル軍の侵攻を自力で撃退した民族がチェコ人であるなんてのは、偏狭な民族主義者には好まれそうな言説である。

 ハプスブルク家のオーストリアからの独立を企てる民族主義者でありながら、チェコ民族が他民族よりも歴史も古く優れているはずだという無駄な自民族至上主義とは無縁だったからこそ、マサリク大統領はチェコスロバキアを独立させることに成功したのだろうとまとめてみたけど、取ってつけた感は拭えないなあ。
7月16日23時。






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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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