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2016年04月19日
政治家の日本語(四月十六日)
作家の丸谷才一氏が書いた日本語に関する本の中に、「総理大臣の日本語」と題する一節があって、当時の総理大臣田中角栄氏の著作『列島改造論』を俎上にあげていた。確か、こんな空疎な文章を一国の首相が書くのかと批判し、いわゆる角栄節が感じられないから、実は本人が書いたのではなくゴーストライターがいるんじゃないかというのが、主な内容だった。文学者ならぬ身には、書かれた文章を読んで評価するなんてことはできそうもない。
さて、最近、日本の安倍首相の発言を、テレビのニュースで見る、正確には聞く機会が何度かあった。衝撃的だったのは、内容ではなく、ちゃんと聞き取れないことだった。何を発言しているかは、チェコ語の字幕があるから問題ないのだが、同時に耳に入ってくる日本語が、何を言っているのか理解できなかった。日本人が出てくるニュースを見る意味の一つは、チェコ語の字幕と耳で聞く日本語を比べてチェコ語の学習に役立てるところにあると言うのに、まったく使えなかった。
一般の人がインタビューを受けて、しどろもどろな答を返したり、記者会見でしゃべるのになれていない人の発言が、声が小さすぎて聞き取れなかったりというのはしかたがない面がある。しかし、しゃべることが仕事の一部である政治家の言葉が聞き取れるレベルにないというのは、ちょっと勘弁してほしい。正直な話、チェコの元外務大臣であるシュバルツェンベルク氏のチェコ語と同レベルで聞けなかった。シュバルツェンベルク氏の母語はドイツ語であるし、チェコ人たちには聞き取れるらしいのである。
それでか、と納得したのが、日本のテレビの画面のうるささだ。ニュースなどでも誰かの発言が流れると、必ず字幕、それともテロップっていうのかな、が入る。明瞭なしゃべり方で字幕なんかなくてもいいような発言であっても、文字が画面に浮かび上がるのである。チェコテレビだと、チェコ語の発言は、電話などを通じての聞き取りにくい場合にだけ、字幕が入るのだけど。そうか、聞き取りにくい発言にだけ、字幕をつけたら、この人の日本語は聞き取りにくいとテレビ局が判断したことになって、字幕を付けられた政治家から批判されることになる。だから、誰彼かまわず字幕をつけてしまうというわけか。それが広まって、バラエティ番組あたりで乱用するようになって、見るにたえない画面が生まれたと言うことなのだろう。テレビの、しかも即興性を尊ぶはずのバラエティー番組で文字を乱用するのは、テレビの存在意義を否定するようなものだと思うのだが、どうせ見ないからどうでもいいか。
確かに、過去には「言語明瞭意味不明瞭」などと批判された首相もいたし、あの人の話も決して明瞭に聞き取れるものではなかったような気がする。安倍首相に限らず、日本の政治家のコメントがチェコのニュースで流れると、何を言っているのかわからないことも多い。声が小さいからではなく、発音が不明瞭で耳に届かないのだ。政治家、少なくとも大臣や、首相となって、国を代表して発言する人たちには、見た目よりも、しゃべり方に気を使ってほしい。大きな声で勢いよくしゃべっていれば伝わるというものではない。特に今回のような自然災害が起こったときには、しゃべり方一つで、人々を落ち着かせることも、不安を感じさせることもできる。
それで思い出したのが、東日本大震災のときの枝野氏である。地震直後の政府を代表してあれこれ自分でもわかっていないことを発表していたときの姿ではなく、その後のラジオ番組での枝野氏の話し方は素晴らしかった。発音、滑舌、間の取り方など玄人はだしで、近年レベルの低下の著しいNHKの一部のアナウンサーなどより聞きやすいぐらいだった。震災直後の話しぶりから考えると、おそらく話し方の訓練をして番組に臨んだのだろう。落ち着いた語り口で、聞く人にわかりやすく伝えようとする姿には、感心させられた。
将来は、枝野氏のような、きれいな日本語で聞きやすい話し方のできる人に、世界に向けて日本を発信するような立場に立ってほしいものである。政治的にどんな主張をしているのか、どの政党にいるのかなんてことはどうでもいい。顔で政治家を選ぶなんて見た目重視の投票をする人もいるし、耳への響きで選ぶ人がいてもいいじゃないか。90年代中盤以降、どの政党が政権をとっても、目くそ鼻くその差異しかないことを、証明してしまったのが日本の政治なのだから。国外在住の身では選挙権を行使する機会もなく、何を言っても無責任な発言になってしまうのだけど。
4月17日15時30分。