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2016年03月06日

チェコ語の目標(三月三日)



 昨日の記事は、読む人にはあまり意味のないものだっただろう。しかし、私にとっては書くべきことを思い出させてくれたという意味で有用な記事であった。その筆頭が、我がチェコ語におけるアイドルである。アイドルと書くとあれだから、題名は目標にしたが、会いに行ったりすることは考えず、遠くから聞いて、わあすごいと喜んでいるだけなのだからアイドルのほうがいいような気もする。

 かつて、といっても、まだ十年ほど前の話だが、アメリカのライス国務長官が、チェコに来たときには、中東欧の安全保障が専門でチェコ語もできるらしいといううわさが流れ、記者会見などでチェコ語で話してくれるのではないかという期待が巻き起こった。
 アメリカの国務長官といえば、オルブライトがチェコ語で話した記憶も新しく、今回もという期待があったのだ。オルブライトは、そもそもプラハで生まれ、ナチスの迫害を逃れて、戦後アメリカに亡命した人物なのだから、チェコ語ができて当然なのだ。真偽は確認していないが、ハベル大統領が生前、後継者の一人として擬していたという話もあったぐらいである。だから、ライス国務長官のチェコ語がどうであったか、結果についてはあえて書くまい。ずっと以前に日本の総理大臣が連れてきた本田技研のロボット、アシモのほうが評判を呼んだとだけ言っておこう。

 アメリカ人のチェコ語の研究者には、面白い人がいて、チェコ語で複数形を作る際に男性形と女性形があって、女性形を使うのは女性しかいない場合で、男性が一人でも入ってしまうと男性の複数形を使うことについて、男尊女卑的な言葉だと批判している。その論拠が、女性百人と男性名詞である蚊が一匹の場合でも、男性形を使うというものなのだが、「女性百人と蚊が一匹〜しました」なんていう状況を想定できるのだろうか。他にもプラハに一年以上も住んでいたのに、ネクタイという意味の「クラバタ」という言葉を知らずにいて、それに気づいた後で、どうしてチェコ人は「バーザンカ」というチェコ語起源の言葉を使わないんだと憤慨している人もいた。同一人物だったかもしれない。とまれ、どちらも冗談だと思いたい話ではある。
 だからアメリカ人は、という話ではなくて、アメリカ人でもこちらがびっくりするぐらいチェコ語ができる人はいる。時々チェコテレビに出て来て解説をしているアメリカ人記者のチェコ語は、一つ二つあれっと思う発音はあるけれども、非常にわかりやすくい外国人離れしたチェコ語で、自分もこのぐらい上手になりたいと思わせてくれる物であった。しかし、目標は高いほうがいい。では、誰を目標とするかというと、カンボジアの現国王陛下である。

 日本では父親のシアヌーク殿下(長いこと、この呼称が使われていたよなあ)のほうがはるかに有名であまり知名度が高くないようだが、シアヌークの息子に当たる現国王は、かつてプラハで勉強をしていたこともあって、信じられないほどにチェコ語が流暢である。歓迎の記念セレモニーで、「私は感激しております」だったか、「私のとってこの場に立てることは光栄なことであります」だったか、チェコ語であいさつを始めたとき、チェコ人は狂喜の渦に巻き込まれた。ハプスブルク家以後、王を持たないこの国に、外国からこの国の言葉、チェコ語で話せる王様がやってきたのだ。外国人排斥論者の連中も喜んだのではないかとみている。
 国王の次に話した当時の大統領バーツラフ・クラウスのしゃべり方が、いつもののらりくらりというか、のんべんだらりというか、締まりのないだらしないものだったこともあって、カンボジア国王のチェコ語のほうが綺麗なんじゃないかと思ってしまった。そして、勝手ながら我がチェコ語の目標、最近は勉強していないからアイドルとして認定させていただいたのである。この時期、この件について、各方面に吹聴して回って、顰蹙を買ってしまったかもしれない。申し訳ない。

 陛下は、1962年から十年以上プラハで勉強したが、特に当時のチェコスロバキアでの勉強を希望していたわけではないらしい。十歳になる前にプラハで勉強したいと言える子供はいないだろう。実は、社会主義的な政策を取っていたシアヌーク殿下が東欧各国の大使館に打診したところ、ちゃんと返事が返ってきたのがチェコスロバキア大使館だけだったらしい。その結果、政府からの奨学金をもらって、プラハで初等教育の段階から高等教育まで勉強し続けることになったわけだが、こういう話を聞くと、旧共産圏、東側諸国の政策というのも完全に一枚岩ではなかったのだということと、チェコスロバキアという国の懐の深さを感じさせられる。
 当初は、プラハのカンボジア大使館から学校に通っていたが、1970年に、芸術専門高校に通っていたころ、クーデターでシアヌーク殿下が失脚すると、大使館に住めなくなってしまい、最初に通っていた小学校の校長先生の家に下宿させてもらうことになったらしい。芸術大学での勉強を終えた1975年に、一か月の予定でカンボジアに一時帰国した際に、政権を握ったクメール・ルージュにとらえられ水田での強制労働に従事させられたという。芸術大学の卒業式を理由に何とかカンボジアを出る許可を取って、プラハに戻ってきたものの、北朝鮮に向かうことになり、三度、チェコに戻ってくるまでには三十年以上の月日を閲しなければならなかったのである。

 当時の記憶と、チェコ語版ウィキペディアの記載を参考に書いてみたけど、これ以上詳しいことは私には無理なので、誰かカンボジア研究者が、このあたりを研究して日本語で発表してくれるとうれしい。一度謁見の栄を賜り、チェコ語でお話させていただきたいという夢はあるけれども、自らのチェコ語を磨くためにも、夢は夢のままにしておきたい。
3月3日14時。



 恐れ多いことではあるが、陛下のご尊顔を。3月5日追記。


カンボジア 500 riels ノロドム・シハモニ国王/つばさ橋(ネアックルン橋)と絆橋(日本国旗あり) 2014年


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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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