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2016年02月01日
チェコ映画「トルハーク」に於ける爆発を利用した施肥法の蓋然性について(昔書いたもの)
この映画は、チェコ映画の最高傑作でありながら、そのあまりにチェコ的な内容のため国外では、特に日本では、ほとんど知られていないというのが実情であろう。そのため、まずこの映画について簡単に説明を加えておきたいと思う。
簡単に言えば、映画撮影の様子を描いたコメディーである。若い脚本家の書いたシリアスな脚本をもとに、頭のねじが何本か抜けているような映画監督が、ミュージカル映画を撮影するのだ。映画は冒頭のキャスティングのシーンから始まり、有名な俳優たちが次々に階段を下りてきて一つだけ台詞を言うシーンや、犬が跳ね回ってボクシングの真似事をするコミカルなシーンを挟みながら、次々に配役が決まっていく。ちなみに、この映画の中で映画を撮影するという構造は、1980年代に文学の世界で流行った「物語の入れ子型構造」とか「シアター・イン・シアター」などの文学理論と通じる面があるので、文学理論の勉強にも役に立つ映画なのである。
一方、映画内のミュージカル映画は、上から下まで白ずくめの農業技師ティハーチェク氏が、新しい農業技術を伝えるために舞台となる村を訪れるところから始まる。村を紹介するために、突如として小学校の子供たちをはじめ、村人たちが歌を歌い始める辺りがミュージカルということになるのだろうが、そのストーリーは正直理解不能である。しかし、それで構わないのだ。なぜなら、撮影シーンとミュージカル内のシーンが入れ替わり立ち替わり現れるため、そもそも最初からわかり難いし、湯水のごとく無駄に予算を使う監督のせいで、資金不足に陥り、プロデューサーも資金集めを拒否したため、途中でシナリオの大幅な改変を余儀なくされることになるからである。
もともと結婚を拒否していたはずの男寡の森林管理官を結婚させるために、存在していなかったティハーチェク氏の姉を、出会いの場を設定するために郵便配達員として登場させ、ティハーチェク氏と結婚させるために、小学校の先生は貴族のように振舞うプラハの肉屋と別れさせる(肉屋というのも実は設定の変更だったのかもしれない)。森林管理官は、三人の娘のために、花婿を狩る。そのうち、一人は文字通り鉄砲で打ち落とすのである。そして全部で五組の合同結婚式で映画内映画はハッピーエンドを迎えることになる。
映画本体の方は、野外映画館に於ける公開初日に出演者と関係者の舞台挨拶が終わった後、映画の上映が始まる。途中までは順調だったのだが、嵐に襲われ、観客は雨に濡れ、強風でスクリーンはびりびりにやぶれ、上映が終わる頃にはスクリーンの役割を果たさなくなってしまう。映画監督は、「最後が最後が」と残念そうに叫ぶのだが、観客たちにとっては嵐もまた映画の仕掛けの一つだと思われたようで、「最後の嵐もあの人たちが呼んだのかなあ」などと満足げな感想を漏らしながら野外映画館を出て帰途につくのである。
さて、この映画では、二つの爆発シーンが重要な役割を果たしている。一つは、村内の不満分子でティハーチェク氏を敵視する人物が火薬を盗み出して村の広場の建物を爆破するという、映画内映画の山場の一つとなるシーンを撮影する場面である。爆発物の準備が整った後、取材を受けて上機嫌になっていた監督が、撮影用のカメラの準備が整っていない状態で、取材陣に撮影の方法を説明するために、爆弾のスイッチを入れる合図をして見せる。当然のように、カメラが回らないままに、爆破のスイッチが押され、この撮影のために建てられた(ということになっている)広場の建物が次々に爆破され、なぜか小学校の先生と生徒たちが出てきて歌を歌いだす。この事件のせいで、深刻な予算不足に陥り、最終的にこの爆発シーンはカットされることになり、上述の通り、シナリオは大幅に改変され、ストーリーはさらに混迷を極めていくのである。
もう一つは、映画内映画の主人公であるティハーチェク氏が、新しい農法、具体的には肥料のまき方を指導するシーンである。爆発物を畑に等間隔で置いていき、その上に山のような肥料(牛糞に藁が混ざったもの)を積んでいく。そして、人びとが十分に離れたところで、爆破スイッチを入れる。轟音と共に肥料が一面に飛び散り、一部は見学していた小学生にかかる。実験は大成功ということで華麗に頭を下げるティハーチェク氏は、人々の喝采を浴びる。
これまで私は、このシーンは社会主義時代の農業政策に対する風刺、もしくはカリカチュアだと思っていた。農業体験など自宅の猫の額のような小さな庭で野菜を何度か育てたことがあるに過ぎない私には、こんな肥料のまき方が実際に役に立つとは思えなかったのだ。だから、これは馬鹿馬鹿しいことを国民に押し付ける共産党政権に対する隠れた批判なのだろうと考えていた。当時は検閲というものもあったらしいが、いかに検閲官の目をかいくぐって政府批判をするかが、文学や演劇などに携わる人たちにとっての腕の見せ所であったのは、戦前戦後の日本を考えれば想像に難くない。
ところが、先日、日本の国語教育の歴史についての授業のレポートを書くために必要だったので、昭和30年代に出版された中学生向けの国語の教科書を読んでいたところ、中谷宇吉郎氏の文章が目に入ってきた。中谷氏は、北海道大学の教授で雪の研究で有名な人である。北海道は雪が多く、雪をかぶった畑では何もできないので、春になったらできるだけ早い時期に雪を融かしてしまうことが、農家にとっては非常に重要である。しかし、降り積もった雪は白く太陽の光を反射してしまうので、日が当たっても融けにくい。そこで、雪に黒い土をかぶせて融けやすくするのだが、人の手で一か所一か所、土をかけていくのは労力がかかり過ぎる。
この問題を解決するために中谷氏たちのグループが思いついた方法が、ティハーチェク氏の肥料のまき方と同じなのである。爆発物の上に肥料ではなく、黒い土を積んで、爆発させることで土をある程度均等にまくという方法で、畑の雪が解けるのを早めようというのである。実験の結果、かなり有望なデータを取ることができ、今後は農作業の実態を考えながら実際にどのようにこの方法を活用していくのか、研究が必要だということで中谷氏の文章は終る。
考えてみれば、北海道とチェコは雪が多いと言う点では同じである。同じようなことを考えた人はチェコにもいたかもしれない。ばら撒くのが土であれ、肥料であれ、爆発物の使い方は大差ないだろうことと、知る人ぞ知る『腹ハラ時計』によれば、肥料から爆弾が作れるらしいことを考え合わせると、『トルハーク』の中に出てきたこの農法は、実際に使われていたのではないかと思われてくるのである。そして、そのように考えると、映画を見終わった観客たちの満足そうにもらす感想が一層生きてくる。すなわち、他が全てありえることだからこそ、嵐さえも映画の一部だと観衆は感じることができたのではないだろうか。そして、ある観客のもらす「我々、チェコ人ってのは、こういうのがうまいんだよね(意訳)」という言葉も、爆発物による施肥法も対象にしているのではないかと思われるのである。そうなると、監督の「最後が最後が」という言葉も、不満の表れなどではなく、実は「終わりよければすべてよし」という、世界中どこにでもありそうなことわざそのままに、最後まで計算通りだったという、してやったりの言葉だったのかもしれない。
事情があって他人の振りをして書いた文章だが、これ以上に「トルハーク」についてかけるとも思えないので、同じ映画関係の次に載せておく。もう一本「トルハーク」関係の文章があるのだが、そちらは後悔するかどうか検討中である。また、
『チェコ語の隙間』には、もっとちゃんとした「トルハーク」論があるので、興味のある方は読まれたい。「トルハーク」がきっかけでチェコ語の勉強を始めて、「トルハーク」が理解できるようになる人がいたら、私は幸せである。1月31日追記。
嘘つきの世界――戦前のチェコ映画(一月廿九日)
チェコのテレビでは、公共放送、民放を問わず、戦前のモノクロ映画がしばしば、いや頻繁に放送される。放映権料などの問題で、新しい作品を放送するよりも安上がりだとか、自局でドラマを制作する余裕がないなどの財政上の理由もあるだろうし、視聴者が見たがっているという視聴率獲得上の理由もあるのかもしれない。とまれ、古い映画が繰り返し放映されることは、われわれチェコ語を学ぶ外国人にとっては非常にありがたいことである。
それは、まずチェコ語そのものの問題である。現在の映画やドラマの登場人物が使う、標準チェコ語(この呼称にも大いに異議があるのだが今はおく)と呼ばれるチェコ語での会話は、外国人にはきれいな正しいチェコ語で話そうとしてくれるやさしい人の多いオロモウツで育った私の耳には、聞くに堪えないことも多い。それに対して戦前の映画の俳優たちのしゃべりは、まだ形が壊れていく前の美しいチェコが使われている。それに一部の例外を除いて、声も発音も聞き取りやすいので、非常に耳に心地いい。現在の俳優たちの発音が聞き取りにくいというわけではないが。
戦前の白黒映画に一番よく登場する俳優は、喜劇王とも言われるブラスタ・ブリアンである。この長身で痩身の俳優は、運動能力にも長け、サッカーでスパルタ・プラハのゴールキーパーとして、また自転車の選手としても活躍したらしい。ナチスドイツによるチェコスロバキアの解体以後は、自らの経営する劇場を守るために、ナチスへの抵抗ではなく、ナチスの監視の下で娯楽映画の撮影をする道を選び、それが戦後共産主義政権の時代における冷遇につながるのだが、これはまた別の話である。ブリアンは、ドイツ語にも堪能であったため、ナチス時代には、同じ作品のチェコ語版と、ドイツ語版を同時に撮影するという荒業もこなしていたらしい。ただ、即興の台詞が連発してブリアンの本領が発揮されるのはやはりチェコ語版なのだという。
そのブリアンと、「ほら吹きブリアン」(仮訳)で競演しているのが、もう一人の戦前の大喜劇役者オルドジフ・ノビーである。この作品でも、身の上話をさまざまにでっち上げ、ブリアン演じる男爵の隠し子、男爵夫人の結婚前の不義の子などと思われて、周囲を混乱に陥れるのだが、一体に、このノビーの演じる役は嘘つきが多い。そんな作品だけしか印象に残っていないのかもしれないが、大抵はナタシャ・ゴロバーと組んで、嘘とでたらめで混乱を引き起こすことになる。
「エバ、馬鹿ばかり」(仮訳)では、ろくに英語もできないのに、片言の英語とチェコ語を混ぜて使ってイギリスから来た伯爵のふりをするし、「クリスティアン」では、偽名を使って二重生活を送る男を演じる。どちらも嘘をついている間、他人のふりをしている間は、堂々として頼もしいのに、現実の自分に戻ると小心者の情けなさが出てくるあたりも、ノビーの役に共通している。
ノビーとゴロバーという組み合わせで忘れてならないのが「かわいらしい人」(仮訳)である。これも「トルハーク」と同じでストーリーなんてどうでもいいといえばいいのであるが、簡単にまとめると、嘘を通じて知り合い惹かれあった二人が、嘘をつき合うことで親しくなり、本当に結婚することになって、嘘はつかないと約束するというものである。わけがわからないかもしれないがそれでいい。大切なのは、この二人のほら話を楽しむことである。
二人がそれぞれ嘘やでたらめを並べ立てるシーンや、打ち合わせもなしに二人で嘘を積み上げて、有りもしない過去の出会いをでっち上げていくシーンなどを堪能している間に、気がついたら、結婚式に大量に招待状を出したのに、二人が混乱に陥れた一家の「かわいらしい人ねえ」が口癖のおばあちゃんしか来ていないという最後の場面にたどり着いてしまう。日付を間違えたのかなと言う二人に、にっこり笑って、「誰も本当だと思わなかったのよ」と言うおばあちゃんこそが、本当の「かわいらしい人」なのだろう。
この映画は、一度見始めたら途中でやめられないと言う意味では「トルハーク」と並び立ち、話を聞いてうっとりしている間に何を言っているのかわからなくなることがあるという点では、チェコ語の師匠の電話に匹敵するのである。かつて師匠が授業中にかかって来た電話に、ものすごい早口で対応するのを聞いたときには、早口でありながら一つ一つの母音、子音をそれぞれきっちり聞き取れるように完璧に発音するという職人芸に、聞きほれているうちに何を話しているのかに意識が向かず、電話が終わった師匠に、聞き取れたかと聞かれて、聞き取れたけど意味はわからなかったと答えて苦笑させることになったのだった。そういえば、もう何年も師匠のチェコ語を聞いていない。それが最近、私のチェコ語の発音が怪しい原因かもしれない。
1月29日23時
この本では、オルドジフ・ノビーのクリスティアンが取り上げられていて、ストーリーもちゃんと説明されている。でも私は、「かわいらしい人」のほうが好きだなあ。1月31日追記。