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2016年12月04日

ジャパンナレッジ入会(十二月一日)



 十一月の晦日にクレジットカードを受け取って、剣術の演武を見に出かけて帰宅した後、早速ジャパンナレッジに申し込もうかと思ったのだが、やはり一度別件でこのクレジットカードが本当に使えるのかどうかを確認しておこうと思いなおした。

 特に買わなければならないものもないし、日本のサイトでないと試す意味がないので、実験台となったのは、例によってパピレスである。パピレスに普段はしないログインをして、ポイントの購入画面に進んで、しばらく悩む。ポイントの購入さえすればいいのだから、本来は一番下の100ポイント分購入して、108円(いつ税率上がったんだ?)支払えばいいのだろうけど、わざわざ100円分購入するのも馬鹿らしい。それに3000ポイント以上になると、ボーナスが付くようだ。
 結局、一番高額な10000ポイント購入で、10800円支払って、ボーナスポイントを合わせて10500ポイントを手に入れることにした。最近、ポイントが減ってきたので購入を避けていたのだけど、増えたら、また新しい本を探してみよう。これが、以前警戒していたクレジットカードの罠なんだよな。うん。

 前回は決済画面でカードの情報を入力して送信したところで、このカードは使えませんというメッセージが出たのだが、今回は、携帯電話が音を立てて驚いた。インターネットバンキングの自分の口座にログインするときや、さまざまな手続きをするときに必ず必要になるコードがSMSで送られてきたのだ。クレジットカードで手続きをするときまで、必要だとは思わなかった。
 その後は、何の問題もなく支払いが済んで、今までの苦労は何だったのだろうと言いたくなるほどだった。この手軽さ、お金を払っているという実感のなさは危険である。ウェブマネーを使っていたころは、常に残高が表示されるので、それをにらみながら使っていたから浪費のしようはなかったけれども、クレジットカードでストッパーになりそうなのは、自分が設定した利用限度額だけである。それも支払いの際には見えないので、あまり役に立ちそうにない。いやあ、限度額を10000コルナにしておいてよかった。
 パピレスでの実験が済んで、さあ次はジャパンナレッジだと思ったのだが、すでに夜も遅かったので、翌日に回すことにした。急いでも仕方がないし、登録してすぐに使ってしまうと、睡眠不足に拍車がかかってしまう。

 さて、その翌日なのだが、ジャパンナレッジの手続きも、本当にあっけなく済んでしまった。これまで試したときには、いろいろ不都合が出て、クレジットカードの登録画面にまでたどり着くのが一苦労だったのに、一回でそこまでたどり着いた。ありがたいのは、国外、日本以外の居住地を選べることで、チェコの住所と電話番号で登録することができた。住んでいない日本の住所、親は住んでいるけどさ、を使うのにはいつもそこはかとない罪悪感を感じてきたのだ。
 ちなみに申し込んだのはJKパーソナル+Rで、一年分まとめて年会費を払うことを選択した。月払いよりは、二か月分ほど安くなるようだったし、クレジットカードで使用した金額の支払いが手動なので、回数は少ないほうがいいのだ。毎月だと忘れる月が出そうだけど、一年に一回なら忘れないだろう、多分。+Rにしたのは、もちろん『国史大辞典』と『古事類苑』を使うためである。

 それで、支払の画面まで進んで、クレジットカードの情報を入力しようとしたときに、パピレスでは携帯にSMSでコードが入ったことを思い出した。携帯を確認すると電源が切れそうになっていたので、慌ててアダプターにつないで充電状態にした。SMSが届いてバッテリーが切れるなんてことになったらシャレにならない。
 クレジットカードの情報を入力して、エンターを押して携帯をにSMSが届くのを待っていたら、SMSが届くことなく、手続きが終わっていた。よくわかんねえぜ。この違いは、パピレスとジャパンナレッジの違いということでいいのだろうか。ちょっと不安であった。

 登録完了のメールが届くのを待って、満を持してログインする。『新日本古典文学全集』や、『東洋文庫』など目を通しておきたいものがいくつもあるのだけど、時間がないので、さわりだけ、いくつかの本の本文を表示させたり、いくつかの言葉を検索したりしてみた。『東洋文庫』が調子が悪いのか、本文ページが表示できなかったし、具体的な使い方は何もわかっていないので、これから時間をかけて、あれこれ試してみなければならない。とりあえず現時点での不満は、『新日本古典文学全集』のページの表示に、東京大学史料編纂所の『小右記』の画像表示よりも長い時間がかかることだ。もう少し早くなってほしい。
 ログイン中に気づいたのが、二日前の記事の末尾に貼りつけた「お友達紹介キャンペーン」だった。気づいていれば、友人に連絡をして紹介させたのに……。いや、でもあいつはジャパンナレッジを使っているのではなくて、あいつの会社でジャパンナレッジの仕事をしているのだったか。そうすると紹介は無理だったかもしれない。どっちにしても、すでに入会してお金も払ってしまったのだから後の祭りである。

 このジャパンナレッジについては、実際にある程度使ったらまた一文まとめようと思う。使うために導入したのだが、それがネタになるのであれば一石二鳥である。
 ただ、不安が一つ。クレジットカードで支払った金額の処理をしようと思って、インターネットバンキングで自分の口座にログインしたのだけど、支払いができなかった。支払いができていないということではないよな、多分。
 パピレスやジャパンナレッジからカード会社に請求が行って、カード会社から銀行、銀行から口座にというプロセスを経るから、即日処理されるわけではないと考えておこう。でも、使った分はすぐに払ってしまいたいぞ。実は、すでに、支払いを自動にしなかったことを後悔し始めているのであった。
12月2日16時30分。



 もし、ジャパンナレッジに入会したくなったら、こちらからどうぞ。12月3日追記。
 http://japanknowledge.com/camp/mgm/?km=1104867



posted by olomoučan at 07:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2016年12月02日

ジャパンナレッジその後(十一月廿九日)



 六月の終わりに、ついにジャパンナレッジに入会するぞと決意して、登録手続きをしたのだけど、カードの問題でうまくいかなかったという話を書いた。その後、新しくなったキャッシュカードについているデビットカードで試したのだが、やはりうまくいかなかった。友人にすがるのも申し訳ないので、クレジットカードを作ることにした。

 チェコの銀行ではČSOBという銀行に口座を持っている。この銀行は正式名称をチェコスロバキア商業銀行といい、名前の通りにチェコとスロバキアで活動している銀行であるが、外資の買収を受けて現在ではベルギーのKBC銀行とかいうのの子会社になっている。
 もともと、チェコでビザの延長の申請をする際に求められる残高証明をチェコ語で出してもらうために、日本からお金を移すために作った口座である。アルバイトのように時々やっていた通訳の仕事の報酬はそっちに入るようになっていたけれども、本業の給料は手渡しでもらっていたので、キャッシュカードでお金をおろすこともほとんどなく、クレジットカードなんか作ろうとは思ったこともなかった。

 自分の口座でクレジットカードを作るために何が必要かを調べてみたら、給料の平均の額を証明する書類が必要だという。ただし、給料の銀行振り込みの実績が三か月以上あれば、最近の三か月の数字から平均値を出すので不要であると書かれていた。ちょうど本業でも手渡しは以後はできないと言われて、銀行振り込みに切り替えたところだったので、ちょうどいいと言えばちょうどよかった。書類出してもらうの面倒くさいし。
 それで、三か月の実績も積んだであろう十一月の初めに、口座を持っているオロモウツのドルニー広場の支店に足を運んだ。以前、自分の口座にお金を振り込もうとして、身分証明書にパスポートを出したら、登録されているものと違うといわれて、登録をしなおしてからお金を振り込む破目になったことがある。こっちにきたときに使っていたパスポートの有効期限が切れて、新しいパスポートになっていたのを銀行には届けていなかったのだ。
 他にも今回、チェコでとった現住所を登録していなかったので、それを登録したり、給料が振込みになったことで口座の種類を変えたり、クレジットカードの申し込みだけのつもりが、いくつも登録すべきことが出てきて、何枚も何枚も書類に記入することになってしまった。

 基本的にこちらでも、サインを求められたら漢字で署名しているのだが、一度この銀行で新字と、旧字のどちらを使うかを間違えて、振込みの申請用紙が、署名が違っていると判断されて戻ってきたことがある。こっちに来た当初は、新字を使うのと、旧字を使うのと使い分けるというバカなことをしていたのだ。そして、銀行では新字の署名を登録したのに、振込みの書類に旧字で署名してしまったというわけだ。それにしても、この銀行の署名のチェックする人、優秀である。
 それはさておき、カードの申し込みをして、それでおしまいではなく、審査が通ったら改めて銀行に出向いて書類に署名しなければならないらしい。翌週にまた銀行に出かけて、何の書類だっただろうか、カードの発行を申請する書類だったのかな、にサインしてきた。
 そして、昨日カードが銀行の支店に届いたという連絡があったので、仕事の少ない水曜日にでも取りに行くつもりである。そうすれば、ジャパンナレッジへの入会ができるはずである。その前にパピレスで試してみるかもしれない。

 そう言えば、クレジットカードで使ったお金は、手動で自分の銀行の口座から払い込まなければならないらしい。自動で処理するようにもできるけれども、それをすると月々の手数料が増えるといわれた。クレジットカードを頻繁に使うようなら、手数料などが無料になるパターンもあるらしいけれども、基本的にジャパンナレッジの年会費を払うの以外には使うつもりはない。
 だからといって毎回銀行まで出向いて手続きをするのも厄介である。ということで銀行の人に勧められてインターネットバンキングにも申し込んでしまった。まだ一度もログインしていないんだけど、使い方がわかりやすいことを期待しておこう。
 日本の銀行のインターネットバンキングも登録してあるけれども、年に一回ぐらいしかログインしないからなあ。クレジットカードを使ったら、ログインする習慣を付けなければならないということだ。面倒だと思うようだったら、自動で処理するように設定を変えてもらうことにする。
11月29日23時。



 本日ジャパンナレッジに入会したのだけど、手続きが済んでから気づいたお友達紹介キャンペーン。友人に紹介させればよかったぜ。もし、我がブログで、ジャパンナレッジに入会しようと思った人がいたら、こちらから手続きをすると結構お徳になるらしい。年間契約だと20パーセント引き。入会手続きをすることばかり考えていて、キャンペーンなんて全く気にもしていなかった。12月1日追記。

http://japanknowledge.com/camp/mgm/?km=1104867
posted by olomoučan at 08:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2016年10月23日

師に逆らうわけではないけど2――「秋葉原」をめぐる問題(十月廿日)



「秋葉原」が「あきはばら」なのか、「あきばはら」なのかについては、大学時代の国語学の授業で話に出てきた記憶がある。日本語の新しい言葉の作り方の原則に、は行転呼音とも絡めてなかなか面白い話を聞いたのだが、具体的な内容が思い出せない。もしかしたら、これから書くことは、その授業で聞いたことが、ほとんどそのままになっているかもしれない。
 さて、各種辞書にも、秋葉原は、かつては「あきばはら」と読まれていたということが書いてあり、本来誤読であった「あきはばら」がそれにとってかわったというのだけれども、誤読、誤記がどんなものでも定着して正しいものにとってかわるわけではないことを考えると、この「あきはばら」が定着した理由を知りたいと思ってしまう。正確な場所は記憶していないが、役人が勝手に読み間違えた地名を登録したことに反対して、住民が裁判を起こしたなんてことも聞いたことがあるから、地名の問題はデリケートであるはずである。

 ただ、国語学を多少かじった人間の目から見ると、「あきはばら」でも「あきばはら」でも、どちらも落ち着かないというか、ケチをつけてしまいたくなる読み方なのだが、これについては後述する。まずは、日本語に於ける連濁という現象から話を始めよう。
 連濁というのは、二つの言葉(漢字の場合もある)をつなげて一つの言葉を作るときに、後ろに来る言葉の語頭の清音が濁音化する現象で、日本語ではよく見られる。ただし、どんな言葉でも連濁を起こすというわけではなく、起こしやすいものと起こしにくいものがあるようである。例としては、会社を挙げておこう。自動車と会社を併せると自動車会社になるわけである。

 今年の春にチェコに来られた方の名字が「井ノ口」で、「いのくち」「いのぐち」、どちらもありうる読み方なので、恥を忍んで聞いてみた。そうしたら、かつては「いのぐち」のほうを使っていたが、ある国語学者の話を聞いて「いのくち」に変えたのだと言う。それは日本語の原則として、「口」が前の言葉に直接するときには、「ぐち」と濁るが、「の」を入れるのは連濁を避けるためなのだから、井ノ口は「いのくち」と清音で読むほうが国語学的見地からは正しいという話である。固有名詞なのでどう読んでも間違いということはないのだが、国語学の原則から言えばその通りで、また「の」を書き加えずとも、井口で「いのくち」と読むことも可能なのである。
 この「の」を入れた場合には連濁しないというのには、川の名前を思い出せばいい。日本中のほとんどの川は、「○○川」と書いて、「がわ」と読むが、紀ノ川、江の川は、「かわ」である。例外的に形容詞的な漢字を使った大川は、「おおかわ」と「の」は入っていなくても清音で読むか。
 それから島も同様で、島の名称は原則として「○○じま」となる。ただし「の」ではなく、「が」を間に入れた場合には、佐渡島、鬼ヶ島のように、清音で読むことになる。

 ここで秋葉原に戻ろう。この地名は本来三つの言葉からできている。「秋」「葉」「原」である。まず秋と葉を組み合わせて「秋葉」という言葉ができたとき、日本語の原則から考えれば、読み方は「の」を入れて「あきのは」、入れずに「あきば」である。ここまでは問題ない。次は「秋葉」に「原」を付けるわけだが、連濁を起こして「あきばばら」というのは、いかにも語呂が悪いし言いにくい。となれば、高天原、青木ヶ原の例に習って、秋葉原で「あきばがはら」と読むのが、日本語としては最も自然な読み方であろう。
 それが青木ヶ原とは違い、高天原と同様に、「ヶ」などの「が」とよむ文字を間に入れずに「秋葉原」と書かれ続けたために、読む際に「あきばはら」と読むようになってしまったのだと考えることができる。

 では、「あきはばら」という誤読が受け入れられて定着した理由と考えてみると、今度はは行転呼音に行きつく。語末に原の字が、助詞を介さずに付く人名や地名を考えると、「わら」若しくは「ばら」と読むものが多いことに気づく。松原、塩原は、濁って「ばら」と読むし、藤原、在原、佐土原などは、ハ行転呼を起こして「わら」と読むのである。
 歴史的カナ遣いが使われていた時代、語中のハ行音は、ワ行で読まれていた。ならば、「あきばはら」というひらがな表記は、「あきばわら」と読まれる危険性をはらんでいる。それよりは、「まつばら」などの例に習って、「ばら」と読みたいという心理が働いたとしても、おかしくはなかろう。そしてその場合、「あきばばら」が、「ば」の連続で使いにくい以上、「あきはばら」と読んでしまうのはある意味必然であった。もちろんこちらも「あきわばら」と読まれる可能性がなかったわけではなかろうが、「原」が「わら」と読まれる例のほうが、「葉」が「わ」と読まれる例よりもはるかに多いので……。なんてことを、秋葉原に関しては考えてしまうのである。

 ついでに言えば、ハ行転呼音は語頭には発生しないので、「あきばはら」と読んだ場合には、「あきば」+「はら」で二語のように認識していることになり、「あきはばら」と読んだ場合には、「あき」+「はばら」という分離を意識していることになる。だから、本来は「あきばはら」だったのだ。
 というのが、国語学の先生の話だっただろうか。しかし、一度思いつくと、どうしても「あきばがはら」というのが存在したような気がしてならないのである。もちろんそんな呼称があった証拠はないし、実証しようという気もない。ただあれこれ言葉をいじくりまわして、さまざまな可能性を考えて楽しむのみである。

 だから、いずれは、もうひとつの山茶花についても、何とかしたいと、あれこれ考えているのだが、現時点ではこっちも一筋縄ではいきそうにない。「さんざか」が「さざんか」になったというだけの、単純な変化ではなさそうな気がする。
10月21日18時30分。


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2016年10月13日

『太陽の世界』18巻(十月十日)



 日本では、東京オリンピックの開幕式を記念して休日であるこの日、チェコでは休日なんてこともなく、今日も今日とて仕事である。今年のチェコは九月の前半が夏並みの暑さだったのだが、ここ最近、急速に気温が下がって、朝など吐く息が白くなり、気温もマイナスに近づく日が増えている。こんな気候じゃこの時期にオリンピックはできんよなと考えて、次回の東京オリンピックを思い出す。夏のくそ暑いさなかに、台風に襲われる可能性の高い時期に東京でオリンピック? 誰が考えたのだろうか。悲劇が起こらないことを願っておこう。64年と同じで秋にやれよ、秋に。時期の都合で参加できないなんて競技は外せばいいだけなんだからさ。

 そんなわけのわからないことを考えていたら、日本から帰ってきた知り合いが、お土産だといって本を一冊くれた。その本を見て、驚きのあまり叫び声を上げるのを禁じえなかった。何せ、1990年代半ばから古本屋を回れるだけ回って、神田の古本市に足を伸ばしても、どんなに手を尽くしても発見することのできなかった本だったのだ。当時はインターネットなんて使っている人はいたけれども、電話すら引かないひねくれものだったので、コンピューターはあっても使えなかったし、ネット上で販売をやっている古本屋なんてほとんどなかったはずだ。
 その長年の念願がかなって手に入れることができたのが、表題の半村良の小説『太陽の世界』の第18巻だった。刊行された最終巻であるこの18巻でも、巻末の目録には、「全八十巻」と書かれており、1989年の時点では、執筆の中断はしても、後に再開する気だったのかもしれない。何せこの作家、連載に行き詰って中断し、十年以上たってから完結させた作品がいくつもあるのだ。『太陽の世界』も書下ろしではなく、角川書店のゲラ取り雑誌『野生時代』に一挙掲載したものを、単行本にし、その後文庫にするという形で刊行されていたし。
 文庫化された第一巻から第十四巻までは、どこかの古本屋でまとめて販売していたのを購入した。その店にあるのは、かなり前から知っていたが、あらすじに出てくる「ラ・ムー」という言葉から、伝説のムー大陸に関するオカルトじみた話なのかと敬遠していたのだ。しかし、半村良の作品をめぼしいものは一通り読んでしまえば、この希代の物語作家が単なるオカルト趣味の作品を書くわけがないのは明白で、満を持して購入に踏み切ったのだった。値段は正確には覚えていないが、絶版になって久しく、定価で買うより高かったのではなかったか。

 最初の争いを嫌い、道具の使用を穢れとして制限するアム族の設定からして秀逸で、安住の地を求めて旅を続ける途中で、モアイと呼ばれるイースター島のモアイ像を思わせる集団と合流し、苦難の果てに大陸の南東の果ての「ラ・ムー」にたどり着くまでが、最初の物語である。そして、時に舞台をアム族の外に移し、中心となる人物を変えながら、物語は拡大を続ける。
 残された神話や伝説などの資料から再現した物語と言う体裁をとっているため、神話に語られなかった英雄のその後は物語にも現れないことが多い。細かく書き込んで長く書こうと思えばいくらでも書けるはずだが、それよりもアム族とモアイが、大陸の南東の端から少しずつ勢力を拡大していくさまを何世代にも亘って描くことを選んだのだろう。
 文体的にもさまざまな実験があって面白いのだけど、特筆すべきは、アム族の、いや大陸の共通の言葉を作り出して、その中でもアム族の言葉の使い方が独特だという説明がなされるところだろうか。多くはルビで処理される言葉が、どこまで細かく設定されているのかはわからないが、その人造言語を使って言語学的な考察がなされたり、日本語との関連性が見え隠れしたりするのは、その部分だけを読んでも十分以上に刺激的だった。
 文庫版の最終巻にあたる14巻では、アム族の影ともいえるデギル(=悪魔)の二代目に当たるトマにかかわる物語が完結し、誘拐された双子の王子の片割れという謎を残しながらも、切りのいいところで終わっているので、そこから先が読めないのは残念だったが、終わり方としてこれはこれでいいのかという気持ちもあった。

 以後の四巻は、ハードカバーでしか出ていないということで、販売された冊数も少なそうなので、見つけるのは難しいかと思っていたら、ある日行きつけの古本屋の屋外の野ざらしの本棚に入れられた百円コーナーで15巻から17巻までの三冊を発見した。カバーも帯も何もなく、野ざらしで薄汚れていたけれども、思わず購入してしまった。この古本屋がどこにあったのかを、必死に思い出そうとしているのだが、全く思い出せない。小田急線沿いだったか、東急の田園都市線だったか。とまれ、以後、前にもましてその古本屋に通うようになったのだが、18巻は発見することはできなかった。
 15巻からは、新たな中心人物カゲルが、アム族の国の外側にあるマテロの国から外に移動するのに従って、物語の舞台も西に、そして北に移動していく。ネプトと呼ばれる通商を専らにする海洋民族との出会いが、この部分の中心で、カゲルは好むと好まざるとにかかわらずネプトに取り込まれ、そして誘拐されてデギルの手下に育てられ、長河と呼ばれる大河流域諸国を占領しようと企てたアム族の王子との対決を余儀なくされる。その戦いに勝利して、戦争によって疲弊した周辺諸国をまとめて王に即位する。

 カゲルの物語は、前半のハラトの王となったローロの物語と同じく、ラ・ムーの外に出たアム族が異民族の王になるまでを描いた物語である。言わばアム族が外に広がっていく、拡大する物語でもある。17巻は拡大が完結したところで終わったので、次はかつてのトマのように、ローロの息子のコルのように、外からラ・ムーに向かう人物が登場する内に向かう物語が続くのだろうと考えていた。
 実際に18巻を読んだら予想通りだったのだけど、カゲル王の領域からラ・ムーに向かう少年の物語は、一巻で終わるはずがなく、長河の流域から海に出て、これからというところで、こちらも予想通りに終わってしまう。返す返すも続きが書かれなかったことが残念でならない。栗本薫の『グイン・サーガ』は、他の作家たちによって書き継がれているが、どうなのだろう。この『太陽の世界』は、誰が書き継いだとしても、かつてのファンたちを満足させることはできないのではないだろうか。残された我々読者としては、繰り返し繰り返し読み返して、物語がどこに向かおうとしていたのかを、想像するのみである。

 いや、でも、もらった本はカバーも帯も挟み込まれた広告まで残っている美本だったのだけど、どこでいくらで購入したのだろうか。ちょっと怖くて聞けていないのである。
10月11日16時30分。


posted by olomoučan at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2016年10月06日

高千穂遙(十月三日)



 生まれて初めて作家のファンであることを意識し公言したのは、『クラッシャージョウ』の作者高千穂遙についてだったと思う。田舎の品揃えの悪い本屋で手に入るのは、今はなきソノラマ文庫の『クラッシャージョウ』シリーズと、ハヤカワ文庫の『ダーティペア』シリーズぐらいだったが、この作家から濫読の道に入ったことは、我が読書の幅を広げてくれた。
 最初に読んだ『クラッシャージョウ』は、いわゆるスペースオペラで、特にこむずかしい科学理論やSF理論なんか気にせずに楽しく読める作品である。以前、いずれかの巻の発売当時のSFマガジンの書評で、ご都合主義に過ぎるみたいな批判を見かけたが、無意味な批判である。
 娯楽小説は、いや一体に小説というものは、多かれ少なかれご都合主義的な偶然に支えられているのだ。問題は、ご都合主義的な展開の結果、作品が面白くなったのか、ご都合主義過ぎて興ざめでつまらなくなったのかという点にある。その点、『クラッシャージョウ』は、少なくとも中高生にとっては最高に面白かった。

 その後、『クラッシャージョウ』の外伝と『ダーティペア』の作品で、同じ事件を両者の側から書き分ける、しかも三人称と一人称で書き分け、どちらも十分以上に面白い作品に仕上げるという荒業を見せてくれた。片方を読んでしまったから、もう片方の作品がネタバレでつまらなくなるということも、片方しか読んでいないから話がよくわからないということもなく、両方読むとさらに面白くなるという魔法のような作品であった、というとほめ過ぎかもしれないが、他のどの作家にこんなことができるだろうかと考えてしまう。
 『ダーティペア』の作品の解説に、確か野阿梓だったと思うが、高千穂遙は通俗的であると、文学では本来否定的な意味で使われることの多い「通俗的」という言葉を使って絶賛していたのを覚えている。このあたりは半村良が自分の作品を文学なんかではないといって誇っていたのと通じるものを感じる。SFに文学的真実なんぞ求める気はないし、面白すぎるという言葉が批判になっていた純文学の本を読むのをやめたのも、高千穂遙のすごさを再発見したのがきっかけになっているような気もする。

 欠点がないかというとそんなこともなく、ちょっと自分の趣味に入れ込み過ぎて趣味丸出しの小説を書くのはどうなんだろうと思わなくもない。大半は面白いからいいのだけど、ときどき、えっって言いたくなるような描写が登場することがあるんだよなあ。
 ヒロイック・ファンタジーの『美獣』や、古代ギリシャ・ローマ的な世界を舞台にした『黄金のアポロ』なんかに、筋肉の名前が出てくるのは、かなり違和感があった。日本語で言われてもカタカナで書かれても知らんし。『美獣』はともかく、結局『黄金のアポロ』は、SFでプロレスを書くための作品だったんだろうなあ。まあ、作品としては、ラジオドラマも含めて楽しませてもらったから、文句はないのだけど。

 オートバイに凝っていた時期には、『夏・風・ライダー』という正統派のバイク小説を書いている。鈴鹿の四時間耐久を舞台にしたこの作品は、森雅裕の『マン島物語』と並んで、我が二大バイク小説である。バイクレースを題材にした小説は他にもあれこれ読んだけど、この二冊に勝るものはないと断言しておく。
 ただ、高千穂遙、『狼たちの曠野』なんてのも書いてるんだよ。神殿に祈りをささげると、バイクが出現するなんて話、よくぞ出版できたと思う。作中には執筆当時のバイクが、ホンダもヤマハもみんな実名で登場するし、その事実の衝撃の大きさに、話の内容をほとんど覚えていないほどである。この本を喜々として読んでしまった以上、異世界に転生しようが、転生した世界がゲーム世界であろうが、異世界の設定が意味不明であろうが、小説として読んで面白いストーリーになっていれば、どんなものでも読めてしまうのである。

 他にも中国拳法に入れ込んで、『ドラゴン・カンフー』『魔道神話』シリーズや、『神拳李酔龍』シリーズなんか書いてしまう。『神拳李酔竜』は、『ダーティペア』と同じ世界を舞台にしたスペースオペラで、宇宙で「ロミオとジュリエット」をやってしまうような、いい意味でとんでもない作品で大好きだし、『魔道神話』はインド神話に目を向けるきっかけにもなったから、いいんだけどね。あれ、裏社会で行われる格闘技の賭け試合を描いたシリーズもあったなあ。巻ごとに主人公が変わって、いつまで続くのか、次はどんな格闘技が中心になるのか楽しみにしていたら、三冊目でかなり強引な終わり方をしたんだよな、確か。あれはちょっと残念だった。
 最近は自転車にのめりこんで、自転車小説を書いているみたいだけど、こちらにはまだ手を出していない。日本に行った知人に買ってこさせるほどではないしね。それにしても、実益を兼ねた趣味という点で、高千穂遙に勝る作家はいるのだろうか。

 半村良のような多作の作家と比べると作品数はそれほど多くないが、日本にいる間に発売された作品については、一部を除いて、すべて購入して読んだ。数年前に一時帰国した際には、ハヤカワ文庫に移籍した『クラッシャージョウ』の新作を発見して狂喜して購入しちゃったし、今でもついつい読んでしまう作家である。今後も機会さえあれば読み続けるのだろう。
 では、一番好きな高千穂遙の作品はと問われたら、やはり出会いの作品である『クラッシャージョウ』になるのかな。いや『神拳李酔竜』のあの独特の味も捨てがたいんだよなあ。いずれにしても、高千穂遙は、私にとってSFの、SFの中でも特にスペースオペラの作家なのだ。
10月4日16時30分。


 これは未読。10月5日追記。

ヒルクライマー [ 高千穂遙 ]




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2016年10月01日

宮本常一(九月廿八日)



 民俗学という学問については、高校のころから知っていた。ただ、知っていたのは、アカデミックであることに無駄にこだわりすぎた感のある柳田國男と、どこか神秘主義的なところのある折口信夫だけだった。
 柳田國男の方言周圏論を始めて知ったときには感動したけど、あまり当てはまる言葉がないことを知ってがっかりした。90年代に入って大阪のテレビ局の調査を基にした『全国バカアホ分布考』を読むまで、使えない理論だと思っていたのだ。折口については、昭和天皇の崩御に際して話題になった、天皇の即位後の大嘗祭に登場するらしい「まどこおふすま」とかいうものについての論文を読んだのを覚えている。折口の難解な学説は嫌いではないのだよ。ただよくわからないことが多いだけで。最初に読んだ折口の作品は論文ではなくて小説『死者の書』だったけど、これも高校生には難解に過ぎたなあ。

 大学でもさして状況は変わらず柳田や折口の著作は読んだが、それ以外の民俗学者については、意識の外にあった。民俗学的なものを取り入れて論文を書く文学者や歴史学者の論文は読んだけど。だから、宮本常一の存在について知ったのは、比較的遅く九十年代も半ばに入ってからだ。当時一世を風靡していた網野義彦の著作、いや対談集か何かで名前が挙がっていたのだ。
 機会があったら著作を読んでみたいと思っていたら民俗学を大学で専攻した知人が、二冊持っているからと言って『忘れられた日本人』を譲ってくれた。一読してそれまで民俗学に対して抱いていた印象が変わった。それまでに読んでいた民俗学の論文に常に感じていた不満というか、これではないという感じがまったくなく、一息に時間を忘れて読み通してしまったのだった。

 解説などによると収録されたなかでは「土佐源氏」が評判も高かったようだが、一番印象に残ったのは、対馬の村で行なわれる寄り合いの話だった。議長役以外の出席者は必要に応じて出て行ったり戻ってきたりしながら延延続く寄り合いでは、それぞれの議題について、出席者全員が納得するまで話し合いが繰り返される。効率を追い求める近代化の中で失われていった日本の姿は、日本人自身が考えている以上に民主的であった。
 当時から、民主主義というものが、議論は所詮アリバイに過ぎず、結局は数の暴力に過ぎないのではないかという疑念を抱いていただけに、この本に描き出された寄り合いの姿は刺激的だった。もちろんこれが日本人の会議好きや悪名高き日本の会議の長さの源流だとか考えることも可能だろう。

 しかし、「民主主義の敵」などという言葉を使うことで、馬脚を表し始めた現在のヨーロッパの民主主義を相対化するためにも、もう一度この日本的な民主主義の表れ方は見直されてもいいはずだ。さまざまな意見が存在することを前提とし、その多様性を尊重するのが民主主義であることを考えると、相容れない主張をするからと言って敵対する政治グループを、民主制の枠内で活動している政治グループを「民主主義の敵」とか「民主主義のほうかいにつながる」などと言って批判するのは、それこそ民主主義の理念に対する裏切りである。
 もし、本当に極右などという言葉で規定される政党や政治集団の考え方が間違っているというのなら、議論で説得する必要がある。極右の連中は議論ができないという意味で他の追随を許さないところがあるが、それは連中が感情だけで物を言うからで、それに対して「民主主義の敵」などと感情的な非難をしてしまえば、自ら同じレベルに落ちていくことになる。そうなるともう水掛け論にしかならずに、第三者としてはどちらにも賛成の仕様がないと言うしかなくなるのである。

 閑話休題。
 宮本常一に話を戻すと、90年代の半ばにブームとなった高級文庫、既に絶版になって手に入りにくくなった学術書や、それに順ずる書物の中から、名著の評判が高く再刊に値するものを中心として刊行する文庫のレーベルが、いくつかの出版社で立ち上げられた。老舗とも言うべき講談社学術文庫も含めて、筑摩学芸文庫、平凡社ライブラリーなどで刊行される書物は新書よりも専門性が高く、部数が少ないせいか、文庫本とは思えない値段が付くことも多かったのだが、親本よりは廉価であることが多かったので、収集癖のある読書家にはありがたかった。
 たしか、筑摩学術文庫で三分冊で刊行されたのが『日本文化の形成』で、晩年に研究の集大成としてまとめられたこの本の内容もなかなか刺激的だった。全てにもろ手を挙げて賛成というわけにはいかなかったけれども、碩学の経験に裏打ちされた日本文化論の説得力は、他のものとは一線を画していたのは間違いない。
 それから『日本残酷物語』が平凡社ライブラリーから刊行されたのも90年代の後半だっただろうか。これは全てが宮本常一の作品というわけではないけれども、編集委員として中心的な役割を果たしたようだ。こちらは『忘れられた日本人』に近いスタイルの、事実によって、少なくとも証言者が信じている事実に語らせるという手法がとられており、かつてあった日本の姿が実感を持って迫ってくる。

 今でも、外国にいて、真に日本的な物とは何なのだろうと考えさせられるときに、真っ先に思い浮かぶのは、柳田でも折口でもなく、宮本恒一の著書なのである。しばしば読み返して、良くも悪くもこれが日本なのだ、いや、日本だったのだと再確認する。柳田が外国から取り入れた民俗学を、本当の意味で土着化させた宮本恒一の著作は、外国にいる日本人、とくに外国で日本、日本語について教えている人にこそ読まれてほしいものである。
9月30日16時。


 ふう。久しぶりに迷走しちまったぜい。その原因は、学術文庫で刊行されていた宮本常一の本を忘れていたこと。この本も読んだと思うんだけど……。9月30日追記。



民俗学の旅 [ 宮本常一 ]


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2016年09月22日

小説家になろう、もしくは小説を読もう(九月十九日)



 どちらから入っても同じ小説の山にたどり着くので、どっちでもいいのだろうけど、読者でしかないという立場から言えば、読んでいるのは小説を読もうの小説だと言ったほうがいいのかもしれない。とまれ、正確な数など意識したくもないほどの膨大な数の小説のようなものの中から、読める小説を探し出すのはなかなか大変である。

 当時から書籍化されたという小説も結構あったけれども、書籍化されているからといって、またどういう基準で作成されたものかもわからないランキングというものの上位にあるからといって、面白いとは、いや自分に合うとは限らなかった。結局、あらすじなどを頼りに面白そうなものを地道に探していくしかなかったのである。
 もちろん、あらすじは面白そうデあっても、本編が必ず面白いというわけではなく、最初の部分は読めても、途中から読めなくなる作品も多かった。あらすじからして意味不明で読む気にならなかったものや、第一話を開いた時点で、内容ではなく文章や、表記のあまりのひどさに、読むのをやめてしまったものもかなりの数にのぼる。どこかで、私という意味で使われていた「妾」という漢字に、「めかけ」という読み仮名が付けられていたときには、我が目を疑った。真面目に辞書引いたんだろうけど、辞書引かなきゃ読めないような漢字は使わないほうがいいって教訓だな。

 最近は、小説家になろうで小説を描いている人たちの中にも、なろうテンプレなどと言って、同工異曲の作品が氾濫していることを批判している人たちもいる。そのせいでオリジナリティのある良作が埋没しているなんて話も出てくるわけだけど、そこまで目くじらを立てる必要はなかろう。ありきたりのテーマで、ありきたりのストーリーであったとしても、文章がしっかりしていて、読んでそれなりに面白いと思えれば、無料で読んで、ダウンロードまでさせてもらえるのだから文句はない。問題は、テンプレであれ、なかれ、そんな作品を探すのが大変なところにある。

 そうは言っても、あれこれ読み続けているうちに苦手なジャンルというか、設定が出てくる。あるゲームを舞台にした小説を、あらすじに惹かれて読んでみたときには、これまで読んだことがなかったので、新鮮味があったのか非常に面白く感じられた。それで、他のものにも手を出したのだけど……。最初に読んだ作品に登場するゲームでは、レベルだとか、何とかのパラメーターだとか、この手の作品に付きもの数字を伴うデータがあまり重視されていなかったのに対して、続いて読んだ小説の多くは、先に進むほど数字の羅列が増えていき、それと同時に読む意欲もうせていった。小説を読むのは文章、ひいてはストーリーを読みたいのであって、わけのわからない単語と数字の羅列を読むなら経済ニュースでも読んでいたほうがましである。
 その手のデータを無視して読めそうなものもなくはなかったが、一部の例外を除いてゲーム関係の小説は、こちらの目的にそぐわないことが判明した。繰り返し読む気にならないのである。一度さらっと流し読みしてしまえば十分で、繰り返し熟読しようという気になれないものを、わざわざダウンロードしてまでリーダーで読む必要はない。

 ファンタジー小説は、高校時代から栗本薫の『グイン・サーガ』や、高千穂遙の『美獣』なんかを読んできたし、大学時代には『ベルガリアード物語』で翻訳物のファンタジーにも目覚めたから、ジャンル自体に抵抗はない。転生とか転移とかだって、高千穂遙の『異世界の勇士』、半村良の『戦国自衛隊』、光瀬龍のジュブナイルなんかからの発展形だと思えば忌避する理由もない。
 だけど、ゲーム小説的なレベルがどうこうというものは、苦手。ゲームの中の世界に入り込んだなんて設定も、悪くはないんだけど、ゲーム的は世界ばかりだと飽きるし、数字の羅列には耐えられない。主人公が特別な能力を持っているのも、主人公だからいいや。いいけど程度が甚だしすぎると興ざめしてしまう。ギャグやコメディだと割り切って書いてあればまだいい。でも、異世界モノのギャグやコメディは読むのが辛い。
 転生者が現代知識を生かして、あれこれ文明化を図るのもよくあるパターンだけど、何でそんなの知っているんだという違和感と、違う世界で同じものはないはずなのに何でそんなに簡単に成功してしまうのかという疑問を感じてしまうと、先を読むのが辛くなる。現代知識であれこれやるのはいいけど、試行錯誤をしてほしいのだよ。そればっかり書いているとストーリーは進まなくなるだろうけど、そういう部分が全くないと、ストーリーが単調になってしまう。

 恋愛小説も嫌いじゃないのは以前も書いた通りだが、そこに異世界とか、転生とか、余計な要素が入ってくると、途端につらくなる。恋愛がメインの話は、やはり現代を舞台にしてほしいものだ。ファンタジー小説に恋愛の要素があるとか、推理小説の味付けに恋愛の要素があるとかいうのは、うまく処理されていれば全く問題ないのだけど。

 小説には作者の願望が現れるなんて話もあって、自分が好きなもの、思い入れのあるものをうまく取り入れている作品は、魅力的になる。これもやりすぎるとただの薀蓄たれになるので、加減が大切のだけど。作者の願望ということで言えば、異世界に行っても、普通に言葉通じてしまったり、言葉が通じる魔法があったりするなんてのは、外国語学習に苦しんでいる人が多い証拠だろうか。言葉が通じなくて苦しむ主人公というのがいてもいいような気がする。でも、異世界モノでそれをやると、新しい言語を作り出さなければいけないのか。それは難しいなあ。
 好き嫌いの激しい読者で、ちょっと読んではやめ、読んではやめを繰り返しているうちに、いくつかの愛読していると言える小説を発見することができ、PDFにしてリーダーで読書を堪能している。数はそれほど多くないとは言え、そんな作品に出会えただけでも、小説家になろう、もしくは小説を読もうには存在意義がある。もちろん、我が愛読作品が、他の人にとっても面白いということは、必ずしもないだろうが、個々の読者がそれぞれに好きな作品を見つけることができれば、それで十分なはずである。
9月21日15時。



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2016年09月21日

オンライン小説(九月十八日)



 ダウンロードしてきた出版社から刊行された古い小説を読むのに飽きたとき、次に立ち現れたのがいわゆるネット小説だった。それまでも存在は知っていたけれども、PC上で読むのがつからったのと、どうせたいした物はないだろうという思い込みから深入りはしていなかった。
 正確にどこでどのように発見したのかは覚えていないが、森雅裕の新作が連載されているページを発見して狂喜したこともある。ただ、どこが話の始まりかつかみきれなかったのと、画面が黒地で読みにくかったのが不満だった。とりあえず小説が掲載されている部分だけを指定してコピーし、ワードに貼りつけて、テキスト形式で保存することで、テキスト化を図ったのだけど、ものすごく手間がかかってあまり繰り返したいとは思わなかった。ブラウザ上で表示させたページをテキストで保存するという手も使ったのだけど、これも処理が厄介だった。
 ネット上には、アマチュア向けのさまざまな小説投稿サイトがあり、自分のホームページやブログで自作の小説を発表している人たちもたくさんいた。小説家が自作を発表しているのもあったかな。出版社が発売している小説の一部だけ公開しているものもあったし、電子書籍販売店のパピレスもウッピーとかいう投稿サイトを始めていた。その中には読む甲斐のある傑作もないわけではないのだろうけど、玉石混交というか、大半は石で、苦労してテキスト化してまで読みたいと思うようなものではなかった。

 それにも懲りずにあれこれ探していたら、こんなページを発見してしまった。似合わないのは十分以上にわかっちゃいるんだけど、この手の恋愛小説というかラブコメというか、嫌いじゃないんだよ。いや正直に言えば、結構好きなのだよ。SF作家でもある久美沙織の『丘の家のミッキー』も途中までとは言え読んでしまったし、集英社のコバルト文庫などの女の子向けのレーベルから出されている小説もかなり読んだ。少女マンガ買うより恥ずかしくて、人から借りて読むことが多かったのだけど。
 この手のジャンルのマンガだったらみず谷なおきの名前は思い出せるけれども、一般にこの手の作品は、印象に残りにくいのか、マンガであれ小説であれ、何を読んだのか、どんなストーリーだったのか思い出すのが難しい。娯楽のための読書なんて、しょせん読んでいる間、面白さを感じて幸せでいられればそれで十分なのだ。

 閑話休題
 このページで小説を発表している九曜という人は、プロの作家ではないようだったけど、ちょっと読んでみたらなかなか面白くて続きが読みたくなった。ただ、ブラウザ上では文字が小さすぎて目が痛くなりそうだったし、テキスト化も面倒くさい。それで、「小説家になろう版はこちら」と書かれている部分を押してみた。そしたら完全に別のページに飛んで、文字が少し大きく表示も見やすいものに変わっていた。これがいわば小説家になろうとの本格的な出会いであったのだけど、そんなに大事になるとは、いや大事というほどのこともないけど、考えていなかった。
 とまれ、ページの下のほうに、「TXTダウンロード」というのがあって、一話ごとにテキストファイルでダウンロードできるようになっていた。最初の作品は、えっちらおっちら一つづつダウンロードして、ワードで開いてコピーして一つのファイルにまとめるという作業を経てPDF化して読んでみた。途中でテキストファイルを結合するためのフリーソフトを発見したので、二作品目からはかなり楽になった。

 作品自体について言えば、初期の作品はちょっと突飛な設定によりかかり過ぎかなという気もするけれども、十分以上に読むに堪えるし、自分が出版社のヤングアダルト向けのレーベルの編集者だったら、出版の企画を出してしまうだろうと思うぐらいには完成度は高い。もちろん、ところどころ「ん?」と言いたくなる部分はないわけではないけど、それは市販される作家の作品でも同じこと。
 恐らく長編の最新作である『その女、小悪魔につき――。』が現時点でのこの人の作品の完成形なのだろう。男女それぞれの側からの一人称の語りで恋愛に至るまでの駆け引きを描き、語り手がすべてを語っているわけではないということをうまく使って作品に深みを出している。後に何かの賞を取って出版されるに至ったと聞いたときには、至極当然のことだと感じた。いや、そのときまで出版されていなかったことは見る目のある編集者がいないということなのだとまで思った。出版された単行本のほうは、こちらから買えるわけもないのだが、表紙などのイラストがちょっと邪魔で買えたとしても買ったかどうかわからない。この作品は文字で読んで想像力を働かせるだけで十分で、イメージを壊すイラストは不要である。

 今考えると、最初にちゃんと読んだ小説家になろうの小説がこの人の作品だったことは、幸せだった。ネット小説だとか、なろう小説だとか、あれこれよくわからないレッテルが張られることの多いこの手の作品だけれども、この人の文章は非常にきれいで読みやすく、普通の小説と同じで、昔から小説を読み継いできた人間にも抵抗なく読めるものだった。だからちょっと読んで、小説の体をなしていない作品の海の中から、読める読書の喜びを感じられる作品を探し続けるモチベーションとなっていて、今でも読みたい作品を発見できないときには、しばしば読み返してしまうのである。
9月19日23時。



 この作品、イラストで売るようなものじゃないと思うんだけどなあ。9月20日追記。


その女、小悪魔につきー。 [ 九曜 ]


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2016年09月20日

違法? 合法? ダウンロード(九月十七日)



 青空文庫で興味の持てそうな作家の作品を探すのに疲れたころ、ネット上に大量の書籍やマンガのデータが存在することを知った。それは、ソニーのリーダーや、シャープのガラパゴスが発売されて電子書籍の夜明けなどというトチ狂ったマスコミの命名した時代の、影の部分として報道されたいわゆる自炊と呼ばれる行為が行き着く先の著作権侵害として、報道されることが多かったように記憶する。実際には、それ以前から行なわれていたが、一部を除いて大きな問題としては捉えられていなかったようだ。
 この事実を知ったとき、ものすごく悩んだ。読みたくても読めない本が、ネット上に存在していて無料でダウンロードできるというのは、本が、新しい本が読みたくてたまらない人間にとっては、非常に魅力的で抵抗するのが難しかった。しかし、アルバイトとは言え出版社で仕事をしていたこともある人間としては、著作権の意味は重々わかっているし、無制限に好きなものをダウンロードするというのには抵抗があった。

 それで、最初は日本からチェコに持ってきた本やマンガを、リーダーでも読めるようにするために活用することにした。自分でスキャンする代わりに、スキャン済みのものを入手するという言い訳である。最初に探したのは、同じものを何冊も購入した森雅裕の作品なのだけど、需要がないのか発見できなかった。マンガではコミックス版と文庫版を両方購入した『夢見る惑星』と『ワン・ゼロ』、『動物のお医者さん』、小説では『百億の昼と千億の夜』あたりをどこかで見つけてダウンロードし、フリーソフトを使って、PDF化し、SDディスクに放り込んで、リーダーで読めるようにした。本当は本体に淹れたかったのだけど、画像起源のPDFはファイルのサイズが大きくなるため、2ギガしかない本体のディスクに入れると、他の本が入らなくなるのだった。
 こちらに持ってきた本だけで飽き足らなくなるのは当然のことで、日本にいるときに購入したけれどもこちらには持ってこなかったものに対象が広がり、『マスター・キートン』や『パイナップル・アーミー』、田中芳樹のSF作品なんかに手を出してしまった。そして、絶版になっていて入手不能な作品なら、著作権者の害にはならないだろうと、古い昔借りて読んだ記憶のある作品、読みたいと思いながら入手できなかった作品にも手を出すようになった。

 自分で設けた規制はあるものの、次第に緩和してしまって、有名無実になりそうな状態に、危機感とそこはかとない罪悪感を感じていたころ、大量のテキストファイルを集めたものを発見してしまい、発作的にダウンロードしてしまった。解凍してその数の多さに、唖然とし、このままではいけないとこの手のファイルのダウンロードは、きっぱりやめることにした。テキストファイルをすべて読むだけでも何年もかかりそうだったし。
 もちろん、ダウンロードしたテキストファイルは、まったく興味も持てない読もうとも思わない作品が多かったけれども、昔読んで存在すら忘れていた、おそらく絶版になって久しく古本屋でも入手が難しそうななつかしい作品もあり、そんな作品からPDF化して読み始めた。最初は面白そうなものは全部読もうと考えていたのだが、途中で飽きてしまって、大半はPDF化もせずに放置してしまっている。

 こういうダウンロードが違法だとか、違法なのはダウンロードではなくてアップロードだとか、あれこれ議論が行なわれていたが、こちらで入手可能で、お金を払ってでも読みたかった本については、電子書籍を購入して読んでいたし、ダウンロードしたのは日本にいたら電子書籍は買わなかっただろうから古本屋でしか入手できなかったに違いない古い作品がほとんどなので、出版社にも著作権者にも損害は発生していないと思う。
 出版社が売るのを諦めて絶版にしてしまった作品については、せめて古本屋価格で海外でも電子書籍が手に入るようにしてほしかった。そうすれば出所の怪しい、安全面でも不安のあるファイルを探してダウンロードするなんて必要はなかったのだから。マンガの違法ファイルのネット上での流通を阻止しようと立ち上げられたJコミの理念には、もろ手を挙げて賛成する。当初の公式のPDFフィルを無料で配布するという方針が変更になったのと、ダウンロードできたPDFファイルが高精度でサイズが大き過ぎてリーダでは読みづらいという難点はあるけれども、どこかの会社が同じようなことを小説でもやってくれないかと切実に願ってしまう。

 考えてみると、リーダーストアなどの電子書籍販売サイトは、青空文庫のテキストファイルを無料で配布するなどという姑息な手を使わず、出版社が文庫版でも絶版にしてしまったような作品を、無料、もしくは一冊50円とか、100円などの廉価で提供できるように出版社、著作権者と交渉するべきだったのだ。出版社にしてみれば既に元を取った作品から、在庫の心配もなくある程度の収入が発生するのだから、交渉の仕方次第では、何とかなったのではないかと思う。それがうまくやれていれば、古い世代の読書家を電子書籍にひきつけることもできたはずだし、新しい世代の読書家が存在すれば、古い作品に惹きつけることができたはずである。
9月18日23時。


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2016年09月19日

青空文庫(九月十六日)



 ソニーのリーダーを購入して、以前購入してPCで読んでいた電子書籍をリーダーで読む読みやすさには十分以上に満足したのだが、せいぜい数十冊しか所有しておらず、また購入のためのウェブマネーも無尽蔵にあるわけではない。ということで、リーダーで読めるもの、リーダーで読みたいものを、探し始めた。

 最初に思いついたのが、以前から存在は知っていたが、PC上で読む気にはなれなかった青空文庫である。このプロジェクトには賞賛の言葉しかないのだが、けちをつけるとすれば、ソニーのリーダーストアなどの電子書籍販売店で、書籍数を水増しするのに使われていたことだろうか。無料の書籍があるというので、特別フェアで無料で提供しているのかと見に行ったら、青空文庫に収録されたものをPDF化したものしかなかったのは、詐欺としか言いようがない。もちろん、これは青空文庫の罪ではなくて、販売店側の問題なのだけど、パピレスなどの既存の販売店ではそんな詐欺まがいの事はしていなかったのだ。やはりソニーは本を売るべき会社ではなかった。他のハードの販売促進のために立ち上げられたとしか思えない電子書籍の販売店も似たようなものだったけど。
 青空文庫に収録された作品をリーダーで読むのなら、何もリーダーストアで手に入れる必要などどこにもないのだ。膨大な作品群の中から気に入ったもの、気に入りそうなものをダウンロードして、テキストファイルからPDFファイルを作成してくれるフリーソフトを使えばいい。中でもChainLPというソフトは、優れもので、ページサイズをソニーのリーダーの画面の大きさに適正化することもできる。

 いわゆる文学作品を読む気にはなれなかったので、娯楽小説を探していたら、古い江戸時代を舞台にした「捕物帳」系統の作品が結構あったので、これから始めることにした。最初に手を付けたのは岡本綺堂の『半七捕物帳』。問題はテキストファイルが、本単位でははく、一話ごとになっていたことで、短編一つ読むたびに、本を閉じて開いてというのはしたくなかったので、いくつかの話をまとめて一つのファイルにする必要があった。当時はまだ、テキスト結合ソフトなんてものは知らなかったので、ワードで開いてコピーすることで何とかしていたけど、時間がかかって大変だった。
 当時は、各短編ごとに改ページを入れるなんて青空文庫のコードを知らなかったので、改行を増やすことで対応していたし、PDFに表示される文字の大きさも、無駄に大きいものを使っていたから、今読み直したら、PDFを作り直したくなるだろう。そもそも文字が大きすぎる文庫本というのは、ページ数を増やして定価を上げようという出版社の思惑が見えて嫌いなのだ。それが自作するPDFにも反映されてしまうわけだ。

 今、青空文庫のページをのぞいて、誰のどの作品をPDF化したか、一つ一つ思い出そうとしたのだけど、ぜんぜん駄目だった。冒険小説とか探偵小説なんかの戦前の薫り高いものを探した記憶はあるのだが。PDF化したものは古いPCのハードディスクの中だから、確認も再読も簡単にはできない。この辺の整理のできなさが、我ながらいやになる。本来なら作成したPDFは、どこかにまとめて保存して重複などが起きないようにするべきなのだろうけど、どこに保存したかも覚えていないものも多いからなあ。
 考えてみれば、日本で紙の書籍を読んでいたころも似たようなものだったのだ。持っていたような気がしても、どこに置いたかわからなくなってしまった本を、二冊、三冊購入してしまったという経験は一度や二度ではない。特に本棚に入りきらず段ボール箱に詰めて押入れに放り込んでしまった本やマンガの数々は、古本屋に売り払ったのだろうと誤解して、読みたくなったときに再度購入してしまうことが多かった。

 青空文庫の活動について言えば、近年の目に余る過剰なまでの著作権ビジネスに対抗する意味でも、活動を拡大し、著作権の延長を、少なくとも日本国内では認めさせないようにがんばってほしいと思う。著作から、本人が収入を得るのは当然で、その著作活動の被害を受けた家族、子孫が恩恵を被るのもある程度までは当然のことであろう。ただ、その著作権を売買して、著作者本人とは何の関係もないような企業が保有している著作権に関して、これ以上延長するというのは納得がいかない。著作権の延長を主張するのであれば、同時に著作権の売買を禁止するぐらいのことはしないと、バランスが取れない。

 今回の確認で、野村胡堂の銭形平次を発見したから、数年ぶりに青空文庫の作品を読んでみようか。時代劇としての銭形平次は、好みに合わなかったのかあんまり見た記憶はないけれども、小説で読むとなれば話は別である。国枝史郎とか久生十蘭、林不忘なんかの名前だけは知っていて読んだことのない戦前の作家のSFにつながる作品群にもやはり気を惹かれる。以前はどれを読むか悩んでいる間に読むのを忘れてしまったので、今回は適当に選ぶことにする。
9月18日14時。


 以前、電子辞書にまで青空文庫の作品が収録されていたのには驚かされた。青空文庫がオープンな誰がどのように使用してもかまわないことを謳っていることは知っているけれども、濫用も甚だしいのではないか。これも企業の側の問題なのだろうけど。9月18日追記。
posted by olomoučan at 07:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係
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