新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2021年04月22日
大正十一年のチェコスロバキアの政党(四月十九日)
国会図書館オンラインで、チェコについての古い記述を探していたら、一般向けに刊行したのか、関係省庁にだけ配布したのかは知らないが、外務省が行った各国の政治状況の調査結果をまとめた本が見つかった。『各国の政党』と題された本は、大正十二年(1923)付けで刊行されているが、実際に調査が行われたのは、前年の大正十一年である。
調査を担当したのは外務省の欧米局で、ヨーロッパだけでなく、南北アメリカ諸国も含めて、アイウエオ順に配列されているようである。その第十四編として「チエコ、スロヴアキア」国が挙げられている。ここに記されているのは、大正十一年四月時点のチェコスロバキアにおける政党の状況のようである。ちなみに次の第十五編は「智利國」で、恐らくはチリであろう。この時代政府の公文書では、漢字で表記される国名は「」に入れず、漢字の決まっていないカタカナの国名は「」に入れて、その後に「國」をつけるというルールがあるようである。
まず、概要として、チェコスロバキア国内の政党が、「チエク」系、ドイツ系、ハンガリー系に分けることができ、それぞれ、八党、七党、二党存在することが記されている、政党間の対立は、おもにチェコ系とドイツ系の民族の対立に基づくものが多く、民族を超えて協力し合う例は、同様の政党名で同様の政策を掲げていてもほとんどないという。例外として共産党が、チェコ系とドイツ系で提携していたらしい。国名は「チエコ」なのに、政党の系統を示すときには「チエク」となっているのが不思議である。
次にチェコ系の政党の説明として、全八党の議席を合わせると、下院の議員総数二百八十五のうち二百三という絶対的多数になり、これまでの内閣も全てチェコ系の政党が与党となっていたことが語られる。調査時点の内閣も、チェコ系の社会民主党と国民民主党の連立内閣だった。社会民主党は、建国直後から存在した政党で、百年の時を経て、現在は解党の危機を迎えているのである。
ついでドイツ系の説明としては、全七党で下院に八十二名の議席を有していることが記される。以前はドイツ系の政党が主義主張を越えて、共同でチェコ系の政党に反対することが多かったが、最近は、単に政府に反対するのは経済上の不利益もあるということで、チェコ系の政党に接近する傾向があると説明されている。建国から三年ちょっとで、ドイツ系の政党が軟化をし始めていたということだろうか。
ハンガリー系については、二党で下院に十議席を有することが記され、その勢力基盤がスロバキアの南部のハンガリー人居住地帯にあること、大抵は政府の政策に反対することが付け加えられているぐらいである。
最後に結論として、最初の議会選挙(1920年4月)から二年ほどしかたっていないから、全系統あわせて十七の政党が分立して混沌とした状況を作り出していると断じる。政権の運用に当たっては、チェコ系の政党の領袖株を集めて結成された「五人委員会」の役割が大きいとする。これはチェコ語で言うところの「Pětka」かな。
内閣についても、現在の内閣が、五代目の内閣で、いずれも短命の政権に終わっていることが指摘されている。独立直後のクラマーシュ内閣、第一次、第二次トゥサル内閣、チェルニー内閣を経て、ベネシュ内閣が五代目であることが記される。この中で最長は一年数ヶ月もったというチェルニー内閣である。人名表記にもあれこれ言いたいことはあるけれども、割愛する。
付録として、「致須國」の政党一覧が付されているのだが、チェコスロバキアが略して「致須國」と書かれているのには驚いた。どこかで見かけた「致国」という表記は、外務省のこの表記が元になっていたようである。今度は「須國」でスロバキアを指している例を探してみよう。
議席数や政党の主張などの細かいことは置いておいて、政党名だけを挙げてみると、チェコ系としては、社会民主党、農民党、「加特力」党、国民社会党、国民民主党、実業党、進歩社会党、共産党が並んでいる。ただ、「加特力」党がわからない。最初「加持力」と読み間違えていて、加持祈祷をする政党で、宗教系の政党かと思ったのだが、当たらずとも遠からずで、おそらく「カトリック」党と読ませるのであろう。党首が「シユラーメツク」で、これはシュラーメクのことだから、人民党である。つまり今のキリスト教民主同盟=人民党の前身である。このころはカトリック党と名乗っていたのか。
ドイツ系は、ドイツ社会民主党、ドイツ農民党、ドイツ国民党、ドイツ基督社会党、ドイツ自由民主党、ドイツ社会党、ドイツ共産党の七つで、ハンガリー系が、マジャール社会民主党、マジャール農民党の二つとなっているから、社会民主党と農民党は三つの系統すべてに存在していたことになる。ヨーロッパ的社会民主主義なんてことを、現在の社会民主党の人たちは唱えるわけだけれども、旧態依然と見るべきか、ヨーロッパのほうが百年前から本質的には変わっていないと見るべきか。農民党がなくなった分ぐらいは変わったかな。
付録の2はベネシュ政権の閣僚名簿で、それぞれの簡単な経歴も記されている。大臣の名称で気になるのは、まず法制統一大臣。これはオーストリア領だったチェコとハンガリー領だったスロバキアとで法制に違いがあったのを統一する必要があったということだろうか。それとは別にスロバキア大臣というポストもある。それから、郵電食料大臣というのもあまり見かけるものではないけど、建国直後のチェコスロバキアは、食糧不足で飢餓に陥りかけたという話も聞くから、郵便と電話を担当する大臣に食料の確保や配布なども担当させたと考えておこう。
この書物、興味深いものではあるのだが、いかんせん時代を反映して、漢字カタカナ交じりで表記されている上に、句読点がないという非常に読みにくいものになっていて、細かいところまでは読みたくない。細かく見ればあれこれ書けることはまだありそうだけど、これでお仕舞い。
2021年4月20日24時30分。
2021年04月17日
国会図書館からメールがきた(四月十四日)
国会図書館の利用者登録をして、遠隔複写の申し込みをしたのは、四月七日のことだった。ちなみにお願いしたのは、雑誌記事四本。一つは「チェツコ・スロバキヤ大統領マサリツク閣下より日本の少年へ」という講談社の雑誌「少年倶楽部」(1931年7月号)に載った記事。この記事の存在を知ったときには気づかなかったが、たった1ページ分しかないようだ。それでも、どんなことが書かれているのかは気になる。
二つ目は「教育報知」(第28号、1886年6月)という雑誌の編集部がボヘミアで行われた博覧会に出たときの報告記事。「ヘ育報知墺國ボヘミア小學ヘ育博覽會に出づ」と題されているので、オーストリア内のボヘミア地方という認識があったことは読み取れるが、「小学校教育博覧会」でどんな展示があったのだろうか。会場がどこだったのかも気になる。現在なら国際的な展示会というとブルノといいたくなるのだが、ブルノはモラビアである。常識的に考えるとプラハなのだろうけど、会場がプラハなら、ボヘミアではなくプラハと書きそうである。
三つ目は、「大日本山林会報」(第184号、1898年4月)の「「ベーメン」國「シエレバッハ」市樂器製造用木材」という記事。林業には全く興味はないが、「シエレバッハ」が現在のどのチェコの町のことなのか、確認できていないのが悔しいので、記事を読んで確定したいと考えたのである。この、地名に「」をつける表記の仕方は、外務省のベルサイユ条約の翻訳なんかでも使用されていたが、政府の公文書のやり方だったのだろうか。そうすると大日本山林会も政府系の組織だったのかな。
最後は、なぜか俳句雑誌に発表されたチャペクの作品「影」である。「層雲」(第349号、1940年3月)に掲載されているが、訳者も含めてオンラインカタログではさっぱり何もわからないという代物である。読んだからといって、チェコ語の原典が判別できるとは限らないけど、知り合いに聞いてみれば知っている人もいるかもしれない。俳誌に掲載された事情も書かれていると嬉しいのだけどね。
他にも読んでみたいものはいくつもあるのだが、最初のお試しということで、4つだけにしておいた。到着までにかかる時間とか、値段とか、支払いの方法なんかを確認した上で、今後も継続してどんどん利用するか、本当に必要なものだけにするかを決めなければならない。そこまで真面目に考えているわけではないけど、どの程度使えるかがわからないと気楽に利用もできないのである。
それで、国会図書館オンラインの「お知らせ」のところに、「遠隔複写製品の発送遅延について」というのがあって、申し込みから発送までに十日から二週間ほどかかると書かれていたから、発送されるのは四月廿日以降だろうと考えていたら、一週間もたたない十三日発送したというメールが届いた。件のお知らせは去年の十月に出されたものだから、状況が改善されたのかもしれない。
個人的には、チェコに来て長いということもあって、申し込みからら二週間で発送されるなら十分に早いと思うのだが、日本だと不満を述べる人が多いのだろうか。とまれ値段の高くなるEMSは選ばなかったので、普通の航空便で発送されたはずである。となると、一週間ぐらいで到着するだろうか。念のために日本の郵便局のHPで確認すると、表の中にチェコがなかった。ハンガリーとオーストリアが七日になっているから、チェコも同じぐらいだと考えておこう。
ということは、廿日ごろには配達されるということである。依頼を出してからほぼ二週間、チェコから日本にお願いをしていることを考えると、ものすごく早いじゃないか。PDFで送ってくれたら、いや戦前のものは雑誌でもインターネット公開してくれたら、もっと早いのにと思わなくはないけれども、著作権法上不可能なんだったら仕方がない。到着したらまた中身の確認をして発見があったら紹介しよう。
2021年4月15日18時30分。
2021年04月04日
これはプラハかベルギーか(四月朔日)
国会図書館オンラインで、古いチェコ関係の記述を探して遊んでいたら、『建築写真類聚』という本に突き当たった。写真集、もしくは図版集というべきもので、解説はもちろん、刊行の事情を説明した前書きも後書きも、場合によっては目次、奥付さえなく、写真と図版が簡潔なキャプションつきで並んでいるだけという書物である。
編集は建築写真類聚刊行会で、出版社は建築関係の本を多く手がけていたと見られる洪洋社。第一期の第一冊が、大正9年というから、1920年に刊行され、以後巻をついで、1943年の第十一期まで刊行が続いたようである。各巻には、例えば最初の巻の「玄関」のように、テーマが設定され、それに沿った写真が類従されている。
その第一期の第13冊が、「劇場建築」の写真が収められた巻となっていて、そこにあれ? と言いたくなるキャプションの着いた図版が3枚あるのだ。順番に、「チェッチ国立劇場配景(白国プラグ)」「チェッチ国立劇場配景(白国プラグ)」「チェッチ国立劇場観覧席(白国プラグ)」で、その次には「独逸劇場配景図(白国プラグ)」というのもある。
さて、問題は「白国プラグ」という表記である。「白国」というと普通は、「白耳義」と表記されたベルギーのことを指す。「プラグ」と表記しうる町がベルギーにあるのかも疑問であるし、「チェッチ国立劇場」と訳せる劇場があるのかもわからない。
逆に「プラグ」をプラハのことだと考えると、「チェッチ」は、普通は英語の発音にあわせて「チェック」と読まれるものを、誤って「チェッチ」と読んだものと考えることができる。昔、たしか川原泉の漫画で、本来「アーク」と発音される英語の言葉を、「アーチ」と読むものだと思い込んでいて、作中に使用した後、英和辞典で発音を確認して愕然としたなんてことが描かれていたのを思い出す。「Czech」の最後の「ch」を「チ」と読んでしまったのかな。
ただし、当時のチェコスロバキア、もしくはボヘミアを「白」という漢字で代表させた例は、発見できない。官報などでもすべてベルギーを指している。チェコスロバキアの略称として「致国」というのは見かけたことがあるけれども、これも一般的に使われていたものではないようだ。
幸いなことにこの写真集はインターネット公開されているので、収められた写真を見ると、「チェッチ国立劇場」は、プラハの国民劇場の外観に似ているように思われる。念のためにセズナムの地図で国民劇場を探して現在の写真を表示させて見たら、間違いなく同じものだった。現在では日本では国民劇場という呼称が定着してしまっているが、当時は国立劇場と訳す人もいたのだなあとちょっと感心してしまった。
それなら、もう一つの「独逸劇場」に相当するものも、プラハにあるはずである。20世紀初頭に存在した劇場だということから、あたりをつけた最初の候補、駅の近くの国立歌劇場が、大当たりだった。劇場の歴史を確認すると、もともとは、プラハ市内のドイツ系の住民たちが建てたのがこの劇場だった。それで「独逸劇場」と呼ばれていたのである。
念のために収録された写真の国ごとの配列を確認すると、フランスのパリから始まり、イギリスを経てロシアに向かい、その後、ドイツ、オーストリア、ハンガリーを経て、「白国」と並んでいる。「白国」のあとは、スイス、オランダと続いているから、この写真集における「白国」はベルギーではなく、チェコスロバキアのことだと考えてよさそうだ。ベルギーならオランダの前後に入るはずだしさ。いや、普通に誤記、誤植と考えるのが自然か。
それにしても、こちらが想定していない表記が使われていると発見するのは難しいなあ。チェコスロバキアのカタカナ表記に関しては、入念に探してきたつもりだけど、見落としもまだ結構ありそうだ。
2021年4月2日24時30分。
2021年04月03日
国会図書館オンライン利用者登録(三月卅一日)
国会図書館オンラインの検索機能には、あれこれお世話になっているのだが、「遠隔複写」を申し込むことも可能になっている。これまでも、存在は知っていたけど、どうしても必要なときには、日本にいる知り合いにお願いをして、職場近くの図書館に所蔵されている本や雑誌のコピーをお願いしてきた。都合よく所蔵図書館の近くに、連絡を取り合っている知り合いがいない場合は諦めていた。専門的に、研究しているというわけではなく個人的な趣味で読んでみたいと思っているだけだしさ。
それが、現状では国会図書館ですら入館制限をして予約制で、普段よりも少ない人しか入れないようになっているようだ。他の公共図書館や、大学の図書館などでも入館制限や営業の停止などがなされているだろうことは想像に難くない。日本はヒステリックに大声で叫ぶ意見のほうが、非論理的であっても通りやすいという変な国だし、知り合いにそんな状況の中図書館に足を運んでもらうのは申し訳ない。自分が日本に行ったとしても、国会図書館に入れるとは限らないようだ。
ということで、遠隔複写サービスを試してみることにした。国外からの以来も受け付けているようだし、支払いにクレジットカードも使えるようである。国外の研究者向けのサービスでもあることを考えると、書かれていないけど外国発行のクレジットカードにも対応していると考えていいのかな。その辺の細かい情報が少ないのはやはりお役所仕事というところか。大切なのは複写に対応してくれることだから、文句は言うまい。
その前に、利用者登録が必要だった。日本語至上主義者としては、ユーザー登録ではなく、利用者登録になっているところに、国会図書館のプライドが垣間見える気がして好ましい。入館にはさらに登録利用者カードの発行が必要になるようだが、こちらが日本に行けるめどは立っていない。行きたいかと言われると、答に窮してしまうのだが、いずれは銀行の手続きなどで行かねばなるまいとは思っている。
登録方法は、特に目新しいところもなく、メールアドレスを登録したら本登録用のアドレスが送られてきて、必要事項を入力するだけだった。外国の電話番号でも問題なく入力できたのはありがたかった。電話番号の入力を必須にしておきながら、日本の電話番号にしか対応していないところがあるけれども、実家の電話番号が使えなくなったらどうしようと不安になってしまう。
登録して、ログインして利用者情報のページをみたら、外国の住所を登録したのに居住国が日本になっていた。チェコに変更。問題なく変更できて、すぐに変更されたという連絡のメールが届いた。郵便番号のところにチェコの郵便番号を入れることもできたのだが、〒の後ろに5桁の郵便番号が並んで、その後に住所がつくという表記はチェコのものとは違うから、どうしようか考えているところである。
さて、一体何の複写をたのもうか。郵送料がかかることを考えると、いくつかまとめてお願いしたいところである。とはいえ、最初は使えるかどうかの確認だから、細かいことは考えなくてもいいような気もする。そうしたら、気になる本や雑誌を登録しておける機能があった。著作権はきれているはずなのに、インターネット公開されていない雑誌のチェコに関する記事や全集に納められている原典のわからない翻訳などを登録しておくことにしよう。
そういえば、マサリク大統領から日本の子供たちへのメッセージなんてのがあったなあ。どういう経緯で日本の雑誌がマサリク大統領に原稿を依頼したのかも気になるし、まず、これから依頼してみようか。いや、俳句雑誌に載っているらしいチャペクの翻訳も読んでみたいし、もう少し考えてからにしよう。
2021年4月1日24時30分。
タグ:国会図書館
2020年12月31日
リーダー四号機投入(十二月廿八日)
ソニーが、鳴り物入りで電子書籍専用の端末「リーダー」を日本市場に投入したのは2010年ごろのことだっただろうか。リーダーストアとかいう名称の電子書籍販売サイトでソフトの販売は継続しているかもしれないが、ハードウェアの生産販売からは手を引いてい久しい。製品としての完成度はともかく、電子書籍専用の端末、つまりは本の代用品であることを考えると、音楽が聴けたり辞書が引けたりという無駄な機能の付いた不満の残るものだったので、このままでは本物の読書家からは見放されるだろうと思ってい。さらに後継機では通信機能を付けるという悪い方向への進化を遂げており、生産停止も遠くないと考え、あわてて確保に走り、合計四台所有するに至ったのである。
もし自分が今も日本にいて、古本屋などで自由に本が買える環境にいたとしたら、買ったとしても一台だけだっただろう。四台も買ったのは、国外に住んでいて紙の本を買うのに多大なる労力と送料と言う無駄金がかかる環境にいるからなのである。それを考えると、国外に住んで日本語の本に飢えている人たち向けの特別販売でもやればある程度売り上げを上乗せできただろうと思うのだけどねえ。日本の知り合いに手を回して何台も確保しようとする人間なんて、そんなにたくさんいるとは思えないけど、外国で普通に買うことができたら買っていたという人は多いに違いない。
とまれ、なんとか確保した四台のうち、最も酷使された一号機は、早々に調子がおかしくなり、まともに電源が入らなくなって、何年か前にお蔵入りさせたのだった。二号機も一時ちょっと作動が怪しくなって長持ちしないかなと不安だったのだが、その後持ち直して、普通に読むだけなら問題なく使えている。問題は一度の充電で読める量が、一号機導入時と比べるとかなり少ないことだが、充電にかかかる時間もなぜか短いので仕方がないとあきらめている。
一号機が不調を訴えるようになってから導入した三号機は、二号機以上に使用する機会が多かったのか、充電池の劣化が激しい。稼働時間が短くなっただけなら頻繁に充電すればいいというのであきらめも付くのだが、充電にかかる時間は変わらないというのが困りものである。その結果、下手をすれば三号機で読んでいる時間よりも、充電のためにUSBケーブルに綱いている時間のほうが長いという困ったことになっていた。
ということで、三号機の負担を減らすためにも、四号機の導入を決めた。購入以来、十年近くたっているし、使用していなくても劣化が始まる可能性がないとは言えない。二号機、三号機が使えなくなった後に、使おうとしたら使えなかったなんて事態は避けたいし、仮に多少劣化していたとしても、今ならまったく使えないところまではいっていないだろう。
パッケージを開けてマニュアルを、もう四回目だから読む必要はないとそのまま捨ててしまったのだが、PCにUSBケーブルでつないでもなかなか充電中にならずちょっと不安になる。思い返してみると、最初の充電だけは始まるまでに長い時間がかかったような気もする。電源ボタンを押すとか、リセットボタンを押すとかした記憶もあるけれども、放置していたら、充電が始まってほっと一安心である。
外付けのハードディスクから、再読に値する小説をリーダーにコピーしていく。この辺りはマニュアルを完全に無視しているのだけれども、経験からどのフォルダにコピーすればいいかはわかっている。わかっていたはずなのだが、充電が終わって起動させてPDFファイルを開けてみたら、変なことになっていた。二号機、三号機では普通に画面全体に表示されるのだが、縮小されて右側と下側に余白ができている。以前もこんなことがあったような気もするけれども、どのように解消できたか思い出せない。
表示サイズを切り替えるボタンを押して、ページモードから、余白カット、ページ全表示に変えてみるけれども、表示は変わらない。オプションから画面の回転を選んで表示の向きを変えて元に戻すとあら不思議、なぜか画面全体に表示されるようになっていた。一冊目を読み終わって二冊目を表示させたときに気づいたのだが、画面を回転させて元に戻すだけでは何も変わらず、その前にページ全表示に変えておく必要があるのだった。面倒ではあるけれども、大切なのは読めることなので、このまま読み続けることにした。
四号機を使い始めて感動したのは、充電池の持ちのよさである。いや、二号機も三号機も最初は同じぐらい連続して使えていたはずなのだが、最近の持ちの悪さに慣れてしまっていて、2000ページ近く読んでも電池の残量表示がまったく減らなかったときには、一回の充電で一万ページ近く読めたのだと、リーダーを初めて使ったときの感動を思い出してしまった。ソニーの計算では一万ページ以上読めるようなことが書かれていたけれども、あれはカタログスペックという奴で、実際に一度の充電で読めるの8000から10000ページぐらいだった。
その後、四号機の電池が切れたあと、二号機を使ってみたら、300ページちょっとで、残量表示のめもりが一つ減った。これだと一回の充電で読めるのは1500から2000ページぐらいということになりそうである。十年近くの使用の果てに、ここまで充電池が劣化したということか。こういうのを見ると、現在地球温暖化の救世主のようにみなされている電気自動車も充電池の劣化ですぐに実用に値しなくなるんじゃないかと考えてしまう。劣化した充電池の処理も、環境汚染につながらないようにするのは大変だろうしさ。
とまれ、今後は四号機をメインに、二号機、三号機を補助的に使っていくことになろう。これからさらに十年というのは難しいかもしれないけど、数年は実用に耐える範囲で充電池が持ってほしいものである。そして、その頃までには、また電子書籍の夜明けがやってきて、リーダー以上に読書に特化した端末が発売、できれば日本のメーカーから発売されないかなあなんてことを考えてしまう。大きさも重さも文庫サイズで、見開きで読めるようになっていたら、多少高くても買うぞ。一台じゃなくて、最低四台は買うぞ。
2020年12月29日23時。
2020年11月13日
チェコスロバキア軍団日本へ(十一月十日)
非常事態宣言が続いて、特に書くべきことも起こらない、同じような日々の繰り返しに、ネタを探すのも大変なので、国会図書館シリーズを継続する。第一次世界大戦末期にチェコスロバキア軍団の救援を名目に日本がシベリア出兵を行ったことはよく知られているが、当時は、現在の日本のマスコミでチェコのことが取り上げられる以上に、雑誌や本などでチェコスロバキア軍団に関することが、取り上げられていたようだ。そのことについてはチェコスロバキアの国名表示に関する文章の中で触れておいた。
今回は、それらのチェコスロバキア軍団に関する文章にどのようなことが書かれているのかを見ることにする。残念ながら雑誌の記事は国会図書館でデジタル化されたものでも、インターネット上では公開されていないので、単行本扱いの本の中から選ぶしかない。今回の武漢風邪騒ぎで図書館が閉鎖された結果、オンラインで蔵書を読めるようにとかコピーできるようになんて話しも出ているが、その前にせめて戦前の分だけでも、雑誌の記事の公開を始めてほしいものである。特に廃刊になってしまった雑誌であれば、著作権など配慮のしようもないと思うのだけど。
現在、国会図書館のオンライン検索で確認でき、かつデジタルライブラリーでインタネット公開されている本の中で、チェコスロバキア軍団について書かれている最も古い本は、藤井直喜という台湾在住の人が書いた『出征軍隊慰問の急務https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958433』という本である。奥付によると著作者と発行者を兼ねているので自費出版なのだろうか。ただ印刷を担当したのは、当時台湾一の新聞だった台湾日日新報社である。発行日は、チェコスロバキア独立直後の1918年11月3日となっている。
著者についてもよくわからないが、よくわからないのはそれだけではない、題名からは戦場への慰問活動の重要さを解いた啓蒙書のように見えるのだが、中身を見ると日本軍のシベリア出兵のことを描いたドキュメントのようにも見える。最悪なのは、目次に並んでいる節の題名と、本文中の節の題名が一致していないところがあることである。例えば、目次には「チエツク軍負傷兵来る」という節が56頁にあることになっているが、その頁にあるのは「西伯利戦の花と謳はれた少年勇士チエ君」という文章である。
「チエ君」というのは「チエニーク君」のことで、チェコスロバキア軍団の負傷兵20人が東京駅に到着して、聖路加病院に入ったことが記されるから間違いではないのだろうけど。チェコと日本の交流の歴史を知るものにとっては、チェコ系アメリカ人のレーモンドが設計に関った聖路加病院にチェコ人の負傷兵が入院したのには。思わずおーっと言いたくなる。もちろん、これは偶然ではなく、当時の日本で外国人の患者を受け入れられる病院がどれだけあったかを考えると、必然なのであろう。
外国人を受け入れる病院とは言っても、言葉の問題はあったようで、全員「ボヘミア語の外話さぬので生れが同族のストロング商会のフランゼル夫人」が通訳などで面倒を見ていたようである。ストロング商会も詳しいことはわからないが、当時の日本にたくさんあった外資系の商社のひとつで、時期を考えるとドイツ系ではなくアメリカ系の会社だろうか。件のレーモンドも最初はアメリカ系の建築事務所で働いていたわけだし。
左の腕と右の脚を失った「ドルチエレツク君」も含めて、チェコ軍団の負傷兵たちは、元気がよく、「フランゼル夫人」を介して、市内観光の希望を伝えている。ただ戦地から引き上げてきたばかりで、外出するのに服がないから、着るものがほしいという希望もあったようだ。残念なのは、この市内観光が実現したのかどうか記されないことで、一体にこの本、細切れな記載が、あまり関連なく並んでいる感があってわかりにくい。チェコ軍団が日本のどこに到着したのかも書かれていないし。
引用っぽい文章も多いので、資料集を意図して編集したのかもしれないけど。ぱらぱらとめくった限りでは、このほかにも、ウラジオストックの病院の関係者が、チェコ人負傷兵の我慢強いのに感心していたり、チェコ軍団側から日本政府に贈られた謝辞が載せられていたりする。
国会図書館には著者本人の寄贈によって納められたようだが、気になるのは当時どのぐらい印刷されて、どのぐらいに人に読まれたかである。奥付には検印もないし、定価も書かれていないから、無料で配布したという可能性もなくはないのか。最初にこの本の中身をさっと見たときには、著者は医者かなと思ったのだけど、今となってはどうしてそう思ったのかさえ思い出せない。
2020年11月11日22時。
2020年11月11日
建国前のチェコについて(十一月八日)
ちょっと前に、チェコの童話が翻訳掲載された『五色童話集』にチェコスロバキアの紹介が書かれていて珍しくいいことが書かれていると書いたのだが、第一次世界大戦前後のチェコスロバキア、もしくはチェコについて、どんなことが日本の書物で読めたのか、国会図書館のデジタルライブラリーで本文を読むことが出来るものの中からいくつか紹介してみよう。
先ず最初は、あの大隈重信が会長を務め、編集顧問に新渡戸稲造や上田萬年が名前を連ねている大日本文明協会が、編集刊行した『墺地利匈牙利』(1916)である。題名の通りオーストリア=ハンガリー帝国について書かれた本なのだが、「ボヘミアと他の地方」という章が立てられている。地理的な概説書かと思ったら、歴史について書かれていてびっくりした。
面白いのは、英語で「ボヘミア人といへば習俗を蔑視して、放恣な芸術的生活を送る人といふ意味となつてゐるが、実際のボヘミア人は決してさうではない」とボヘミア人の弁護をしてくれているところである。またイギリスの「ウェールス親王」の、「標語」となっている「我は事へる」という言葉と、「三本の羽の飾」は、1346年のクレシーの戦いにフランス王を助けて参戦していた「ボヘミアの盲目王」のものを採ったというエピソードも記されている。これはカレル4世の父親でルクセンブルク朝の最初のボヘミア王ヤンのことであろうか。
とまれ、この本で特筆すべきは、プシェミスル王朝の伝説を収録している点である。本文では「プレムシル朝」と書かれているけれども、伝説のチェコ人の祖であるチェフの子、クロクが登場し、その死後、三人の娘のうち一番下で「気性の勇ましい、男のやうに力優れたリブッサ」が父の後を継いだが、臣民から女性であることで君主としては敬遠されたため夫を選ばなければならなくなり、選ばれたのが農夫の「プレムシル」でボヘミアの君主になったというのである。
リブシェが男勝りだとか、女性君主を臣下が望まなかったとか、こちらが抱いているイメージとは微妙に違うのだが、リブシェの伝説について書かれているのは間違いない。プラオテツ・チェフの話しが出てこないのは、リブシェの伝説に比べると面白みがないと思われたのか、王朝の開始には関係ないと思われたのか。
その後、「オトカル」王の話がつづられるが、ハプスブルク家のルドルフと対立したことが書かれているから、プシェミスル・オタカル2世のことであろう。その子のバーツラフ二世も、「ウェンツェスラウス」として登場し、その「太子」が父の後、王位についたが「虚弱淫佚」で、その死とともにプシェミスル朝は男系で断絶したとされる。この太子がバーツラフ三世のことなのは明らかなだけに、オロモウツで暗殺されたことが書かれていないのが残念でならない。
他にも「カロロ四世」「ジョアン・フス」「ポデブラドのジョルジ」などどこかで見たような名前が登場し、歴史的な事件も、1618年のプラハ城で起こった窓外放出事件について、『プラーグ物語』という小冊子を引用する形で紹介している。窓から放り出すのが当時の裏切り者の処刑方法だったなんてことが書いてあったような気がする。因みに現場となったプラハ城のあるフラッチャニは「フラドカニ」と書かれている。
ボヘミアに続いてモラビアについても書かれているが、歴史的なことについては「一〇二九年以来ボヘミアと一体になって、運命を共にして来てゐる」と書かれるぐらいである。興味深いのはモラビアの住民のことを、「スラヴ族」で「スロヴァク人、又はモラヴィア人」としている点で、これはチェコスロバキア独立運動のチェコスロバキア人の主張に関係があるのだろうか。それとも、スロバーツコ地方が英語だとモラビアのスロバキア的な扱いをされるのと関係するのか。「ボヘミア人」のことを「チェッヒ人」と記すところもあるから、民族名に関しては混乱が見られることも指摘しておく。
スロバキアに関しては、ハンガリーの地理を説明する部分でタトラ山脈などが登場するが、スロバキアとしては立項されていない。山民として「スロヴァク族」は出てくるけれども、詳しくは取り上げられていない。独立まではこの程度の扱いだったということだろう。
2020年11月8日23時。
2020年11月10日
黒板勝美の「プラーハ」(十一月七日)
国会図書館のオンライン検索で、「チェコ」や「プラハ」の古い用例を探して遊んでいたときのこと、どこかで見覚えのある名前が目に飛び込んできた。黒板勝美という人が書いた『西遊二年欧米文明記』(文会堂書店)という1911年に刊行された書物に、「百塔の古都プラーハ」という章があるというのである。
この著者の名前、どこかで見たことがあると考えて、東大の史料編纂所の関係者じゃなかったかと思い出す。ということは、日本史が専門の歴史学者のはずだけど、ヨーロッパに出かけたのだろうか。「ジャパンナレッジ」で確認すると、『国史大辞典』には、日本史の研究者としての業績しか書かれていないが、他の『日本国語大辞典』などには、エスペラントの日本への紹介者の一人であることが記されていた。
明治時代の人なので、日本史を研究しながらも同時にヨーロッパへの目配りを忘れなかったということなのか。念のためにウィキペディアを見たら、「1908年から2年間、私費で学術研究のために欧米各国に出張し」たと書かれていた。その間に「ドレスデンで開催された第四回世界エスペラント大会」に参加したことも記されている。
ドレスデンからプラハならそれほど離れていないから、ついでに足を伸ばしたということであろうか。ということで、本の中身を見てみると、明治41年2月に横浜の港を出発して、ハワイを経由して、アメリカの「桑港」というから、サンフランシスコに向かって以来、欧米諸国を巡り、エジプトにまで足を伸ばしている。
プラハが登場するのは全80章の真ん中ちょっとすぎの45章で、ドレスデンから南下してプラハに入ったことが記されている。その第一印象は「物寂びた古建築が目につく」というものだった。そしてプラハを流れる「モルダウ河」の様子に、「京都に遊んで鴨川のあたりにあるのではないか」という感想を漏らしている。
プラハが何度も戦争の舞台になったことを記すのだが、「フッシット戦争」という表記を用いているのが目に付く。それからチェコ人のことを、「チェヒ族」と、チェコ語の「Čech(チェコ人)」に由来すると言われても不思議のない表記を使っているのにも驚かされた。エスペラント関係者の中にはチェコ人もいたはずだから、そんなチェコ人から教えられたのかもしれない。
プラハにおけるチェコ系とドイツ系の対立についても、「一方は多数を以て他を圧せんとし、一方は勢力を以て他に対して居る」と評して、その実例をいくつか挙げている。「互に他の言語を了解しなから、自ら語ることを欲せぬ」とか、「独逸語の大学とチェヒ語の大学と相対する」とか、日本人の碩学の眼に映った当時のプラハの様子が読める。プラハでの滞在自体は博物館や美術館が期待外れだったらしいが、民族対立の現状を見られただけでも、プラハを訪れた甲斐があったという。
いくつかのプラハ市内の教会や、地名が登場するのだが、こちらがプラハの名所に詳しくないこともあって、どこを指しているのかわからないというのもあった。「カール橋」「ワレンスタイン」は問題ないけど、「ヨハン・ネポミュク」は「ヤン・ネポムツキー」、「フラッヂン」はプラハ城のある「フラッチャニ」のことだろうかと推測する。教会の名前はお手上げだけどさ。
残念ながらプラハ以外のチェコの町についての記述はなく、次の章はハンガリーのブダペストに飛んでしまう。こちらもまた、オーストリア=ハンガリー帝国内での民族問題という観点から興味を引かれての訪問のようである。
それにしても、学生時代からお世話になり続けている『国史大系』や『大日本古記録』の編纂を主導した黒板勝美氏がプラハを訪問した記録を残しており、それをオロモウツで読むというのは、何とも不思議なことである。オロモウツまでは来られていないのが残念である。
2020年11月7日23時
2020年10月30日
戦前のマサリク大統領(十月廿七日)
戦前に刊行された単行本としてのマサリク大統領の伝記は、国会図書館で確認できる限り昨日紹介した二冊だけだが、国会図書館のオンライン検索で、当時の一般的な表記である「マサリツク」で検索すると、意外なほど多くのマサリク大統領に関する雑誌の記事や、単行本に収められた文章などが出てくる。残念なのは、インターネット公開されているのは、そのうちの一部の単行本だけで、大半はデジタル化はされているものの、チェコからは中身を確認できないことである。
最古の確認できる記事は、「マサリックヘ授ノ露國革命評――(一九一七年六月五日倫敦「タイムス」所載)」(人名に付された「」は省略)というもので、外務省政務局が編集発行していた「外事彙報」第9号に掲載されている。この号の発行日が目録に記載されていないため正確なことは不明だが、おそらく原典の発表された1917年中には出されたのではないかと思われる。
共産主義やロシア革命に批判的な立場を取っていたことが、日本の外務省の注意を引いたのかもしれない。これが、日本のシベリア出兵につながったなんて考えると話はできすぎなのだが、どうだろう。シベリアで活動中だったチェコ軍団への援助と帰国の支援の交渉のために、マサリク大統領が日本を訪れたのは1918年のことである。
その後第一次世界大戦終戦直後のベルサイユ講和会議の期間中に、チェコ軍団や新独立国チェコスロバキアとのかかわりでマサリク大統領に関する記事もいくつか雑誌に登場する。写真を表紙に使った「新公論」の1918年の9月号や、独立宣言とマサリク大統領の書いた「チェック・スロヴァック民族」の翻訳を載せた「外交時報」の同年11月15日号などである。この二つの記事の存在についてはすでに紹介した。
人物伝としては、これも紹介済みだが、橋口西彦 編『ヴェルサイユ講和会議列国代表の各名士』(一橋閣、1919)がある。イギリスのロイド・ジョージやアメリカのウィルソン、日本の西園寺公望など全部で20人の世界中の有力政治家に混じって、マサリク大統領についての章が立てられているのである。ポーランドやハンガリーなどのドイツとソ連の間の中東欧の新規、もしくは再独立国の多かった地域からは他には誰も取り上げられていないことを考えると、評価の高さが見えてくる。
1920年代になると、戦後の世界情勢を解説する書物の中で、チェコスロバキアを取り上げるなかで、マサリク大統領にもふれるようなタイプのものと、現代の偉人伝、もしくは立志伝的な記事が増えるように見える。
前者としては、1923年に実業之日本社から刊行された井上秀子『婦人の眼に映じたる世界の新潮流』(「チエツク・スロワキアの部」が立てられ「新建國チエツク・スロワキア」と「マサリツク大統領」という二本の文章が収録)や、1927年に政治教育協会から「政治ライブラリー」の第一巻として刊行された『欧米政界の新潮流』(「チエツコ・スロヴアキア國」という章に、「新興のチエツコ共和國」「マサリツク大統領とベネーシユ外相」「チエツコ・スロヴアキア國の國民的運動とソコル團」が収録)などがあげられる。
後者としては、「日本及日本人」の1926年12月15日号に掲載された鷺城學人「マサリツク博士――人物評論」や、1928年に中西書房から刊行された早坂二郎『歴史を創る人々』に収められた「チエツクの建國者マサリツク」、大阪で刊行されていた雑誌「公民講座」第43号(1928年)に発表された新井誠夫「【偉人の面影】致國獨立の偉人 終身大統領マサリツク」などが挙げられる。最後の例はチェコスロバキアを「致國」と表記している点でも興味深い。
他にも共産主義とのかかわりでマサリク大統領を取り上げたものなどもあるが、他のどれよりも読んでみたいと思うのが「チェツコ・スロバキヤ大統領マサリツク閣下より日本の少年へ」という「少年倶樂部」の1931年7月号に掲載された記事である。出版社は大日本雄辯會講談社。どういう伝手でマサリク大統領まで話を持っていったのかは知らないが、この会社、本当にたまにいい仕事するんだよなあ。国会図書館が雑誌も古いものはオンラインで公開してくれるようになると最高なのだけど。
こうしてみると、マサリク大統領は日本では、現在よりも、1920年代から30年代にかけての方が、有名だったようである。考えてみれば大戦間期のチェコスロバキアは、世界有数の工業国だったわけだから、その国の建国の父とされる人物が注目を集めたのは当然だったのかもしれない。
ところで、最近は見かけなくなった「マサリツク」、もしくは「マサリック」という表記は、1980年代ぐらいまでは使用されていたようである。
2020年10月28日20時。
2020年10月29日
マサリク大統領伝記(十月廿六日)
職場でオンライン会議の合間のポッカリ開いた時間に、例の国会図書館のオンライン目録で遊んでいたら、マサリク大統領の伝記を発見してしまった。書名は『トーマス・マサリツク』、著者は岡田忠一、出版社は金星堂、刊行年は昭和5年、つまり1930年である。幸い国会図書館のインターネット公開の対象になっているので、全文PDF化して手に入れた。デジタルコレクションへのリンクはここ。
このマサリクの伝記は、「世界巨人叢書」という一瞬目を疑うような叢書の第三編として刊行されているが、この叢書は三冊で終了している。ちなみに第一編は『蒋介石』、第二編は『ロイド・ヂヨージ』というラインナップになっている。出版社の金星堂は、1924年にチャペクの『ロボツト』(鈴木善太郎訳)を刊行した出版社で、ウィキペディアによればチェコスロバキアの独立と同じ1918年の創業。戦前は文芸出版に力を入れていたが、現在は語学教科書の刊行で知られているらしい。
さて、この『トーマス・マサリツク』には、当時の駐日チェコスロバキア公使のK.ハラという人の英文の序文とその日本語訳が掲げられている。その後にある著者本人の序文によれば、金星堂の社主のマサリクの伝記を刊行しようという意図を公使に伝えたところ、大喜びで、さまざまな資料を提供してくれたらしい。中にはチェコ語のものを英訳してくれたものもあるという。著者自身はチェコ語は「うんともすんとも判らぬ」と書いている。
序文には他にも日本通のポーランド人の仲介でチェコスロバキア関係者と友誼を結ぶようになったことが書かれ、特に建築家たちと親交が深かったようで、「レモンド」(レーモンド)、「ファーレンシユタイン」(フォイエルシュタイン)という日本で活躍したチェコ系の建築家の名前が挙がっている。それどころか、フォイエルシュタインの担当した「舞台装置」の写真をまとめて『ファーレンシユタインの舞台建築』という本まで自費出版してしまったという。残念ながら国会図書館の目録では発見できなかった。チェコの外務省が数十部買い上げたという記述もあるから、日本のチェコ大使館に今でも所蔵されている可能性もある。
建築家二人は、誰だか同定できたのだが、もう一人序文に固有名詞で登場するシモンという画家が見つけられなかった。シモンというと普通は名前を思い浮かべるのだが、チェコ語の場合には、本来名前として使われるものが、名字としても使われることが多いので、どちらか確定はしにくい。建築家とは違って、チェコの画家には詳しくないのが一番の問題か。
本の内容は、建国後10年ちょっとで日本ではまだそれほど知られていなかったであろうチェコスロバキアという国についての概説から始まる。チェコスロバキアについて知らなければ、マサリク大統領を知ったことにはならないという著者の判断は正しい。地理的な情報から、産業、文化などについて簡潔にまとめられているが、歴史的な記述が紙数の関係でなされていないのが残念である。
序文でもそうだったが、気になるのは「チエツコスロバツキア」という想定よりも「ツ」が一つ多い表記と、しばしば、「チエツコ国」「チエツコ共和国」などと後半のスロバキアを省略した表記が登場することである。やはり「チエツコスロバツキア」というのは、繰り返し何度も使用するには長すぎるのだろう。
本編とも言うべきマサリク大統領の伝記は、「ホドニン」(ホドニーン)で生まれたところから、第一次世界大戦後に独立を達成して、1918年12月に大統領として帰国しプラハで民衆の歓声に迎えられるところまでが描かれている。著者は「結語」で大統領就任後の政策などについても書くべきだがこれも紙数の関係で出来なかったと記しているが、未だその任にあったマサリク大統領の伝記を、大統領就任の時点で終わらせるのは正しいと思う。刊行当時、79歳で大統領として三期目を務めているところであった。
本の発行日は昭和5年1月20日、二ヶ月ほど刊行を遅らせればマサリク大統領の80歳の誕生日ということになったのだが、金星堂では、世界巨人叢書の続編を計画していたようで、巻末の目録に、第四編として、トルコの『ケマルパシャ』と、ドイツの『ヒンデンブルク』が近刊予定として掲げられている。この二冊は刊行されなかったようで、国会図書館のオンライン目録では存在を確認できない。
マサリク大統領の伝記の単行本としては、昭和10年に日本社の刊行していた「偉人伝記文庫」の第45号として『マサリツク』が出ている。残念ながらインタネット公開には至っていないので読むことはできない。「偉人伝記文庫」の国会図書館の目録で確認できる最終巻は80巻で、すべて著者は中川重、刊行年は昭和10年というとんでもないシリーズである。
2020年10月27日20時。