2018年05月02日
道長の和歌2(四月廿九日)
承前
そして、晶子によれば、この歌を誤解して後世に大きな影響を与えたのは、江戸時代の儒学を学んだ歴史家たちらしい。それを今でも信じている人が道長を悪く言うのだとお冠である。その儒学的な解釈の出所としては『大日本史』が挙げられている。
『大日本史』については、史料大成版の『小右記』の改題で矢野太郎も触れている。それによれば、『大日本史』には実資はこの歌を憎んで、詭弁を弄して返歌をしなかったと書かれているようである。それが、時代とともに、歌を憎んで日記に記録したなんて解釈になっていったのだろう。『小右記』を読む限り、詭弁を弄したとしても、歌が詠めなかったからであって、道長の歌を憎んだからではないと思うけどなあ。
それはともかく、この歌を評価するのにこれだけの背景では中途半端なので、もう少し広く当時の道長に関する状況を見てみよう。政治的には、この年の二月には前年の十二月に就任した太政大臣を辞任しているから、当時の道長は、息子の摂政頼通を通して権力、もしくは政権に対する大きな影響力を持っていたが、官職には就いていなかった。太政大臣も孫に当たる後一条天皇の元服の儀式のために就任したというから、前年の三月に摂政の地位を頼通に譲って以来、政治的に責任のある立場にはなかったと言ってもいい。
それよりも大事なのは、道長の健康状態である。『小右記』や『御堂関白記』にはこちらが驚くほどの頻度で道長が病気になったという記事が現れるが、二年前の長和五年五月十一日の『小右記』の記事から、道長は糖尿病に苦しんでいたと推測されているから、慢性的に病気の状態でよくなったり悪くなったりを繰り返していたのだろう。「此の世をば」の歌が読まれた宴席の翌日の十月十七日の記事にも、道長が最近目が見えないと愚痴をこぼしたことが記されている。
病気に苦しむ日々の中で、十月十六日の出来事は、久しぶりに病気を忘れて喜べる出来事だったに違いない。そんな喜びが爆発したのが「この世をば」の歌だったのではないかと思えてくる。ここは道長が実資に事前に準備した歌じゃないと言っているのを信じてそんな解釈をしておきたい。
そうすると、人によっては傲慢の象徴と取りかねない「この世をば我が世とぞ思ふ」の部分も、一家三后のもたらすこれからのことではなく、今現在の酒宴の中で感じたものであって、病気がぶり返せばそんなものは吹き飛ばされるに決まっている。となれば、「望月の欠けたることもなしと思へば」も現状に対する認識ではなく、この喜びの瞬間が続いてくれればという願望が現れたものだと思えてくる。病気になる前の過去を振り返っての言葉と解釈してもいいけど、いつまで戻れば道長が本当に健康だった時代になるのかよくわからない。
つまり、「この世をば」の歌は、道長の栄華や権力の象徴としてだけではなく、病苦にさいなまれる引退した老政治家が、病苦をを忘れさせてくれるような嬉しい出来事に、喜びのあまり詠んだ歌だとしても解釈できるのである。どちらの解釈が正しいかなんてことはどうでもいいことで、むしろ問題は、政治家としての道長をあまり評価しない人が、この歌に道長の傲慢さを読み取ろうとする傾向のあることである。こんな酔狂の果ての和歌を通して歴史上の人物を評価するのは、いかがなものかと思われてしまう。
では、道長自身がこの歌をどのように扱っているかというと、『小右記』にしか記録されていないと言われることからもわかるように、道長の日記『御堂関白記』には、この日の立后、その後の酒宴の記事はあるけれども、歌を詠んだというだけで、歌自体は記録されていないのである。道長は実資と違ってこまごまとしたことは日記に書かないのだが、この日の記事は道長にしては長々と書かれており、道長が書こうと思えば書くことはできたはずである。
道長は和歌は日記に書かないのかというとそんなこともなく、四首の和歌が確認できる。そうすると、「誇りたる歌」とは言ったものの、道長にとってはそれほど重要な意味を持つ歌にはならなかったとも考えられる。酔っぱらっていて忘れてしまったとか、後で実資あたりに聞いて書き入れようと思っていたけど聞くのを忘れたとか、あれこれ想像もできるけれども、酔いがさめて改めて読んでみたら大した歌には思えなくなったから日記に書くのもやめたというのが一番ありそうである。だから、歌集にも取られることなく、ただ記録魔の実資の日記にだけ残されたと。
だったら、与謝野晶子の高評価やら、これまでグダグダ書いてきた歌の解釈はどうなるんだってことにもなるけれども、和歌などの文学作品は世に出た時点で、作者の手を離れ文学的な評価は読者の物になるのだと答えておく。あくまでも文学的な評価であって、歴史的な評価ではない。そんな和歌を一首を元に歴史像を作り出そうってのが無茶だといえば無茶なのである。
2018年30日24時。
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