2017年09月27日
牛の話(九月廿四日)
日本語では一つの言葉でまとめて表すのに、チェコ語では、全く違ういくつかの言葉が必要になることがある。例えば、ワニや蜂は、チェコ語に対応する言葉がなく、アリゲーターやクロコダイル、ミツバチやスズメバチなど個別の種類を表す言葉を使わなければならないのである。他に例を挙げろと言われても困るのだけど、特に蜂に関しては、日本語ではわかっていても、あえてミツバチと言わないことが多いので最初は苦労させられた。
普通の動物でもオスとメスと子供をそれぞれ別の言葉をで表すのだが、猫のように「コツォウル」「コチカ」「コチェ」など共通する要素があればまだしも、同じ動物のことを指しているとは思えないものも多い。鶏を表す「コホウト」「スレピツェ」「クジェ」なんて、肉にしてしまえば全部「クジェ」の肉だというものだと思っていたら、「コホウト」「スレピツェ」を使う料理があったりするから困りものである。
そんな困りものの中でも、困るのが牛(馬も困るけど話の都合上取り上げない)である。牛肉という場合には「ホビェジー」と言っておけばいいから、いや子牛の「テレツィー」もあるけど、そんなに大変ではない。生きている牛の場合に、「ビーク」「クラーバ」「ブール」「テレ」「スコット」「ヤロベツ」などあって、「テレ」が子牛という以外、はっきりとは区別は覚えていない。「クラーバ」は女性の悪口に使うから、牝牛かな。
そうなのである。チェコ語では牛を表す言葉が、悪口として使われることが多いのである。「テレ」もちょっと頭の回転が悪いというか、もたもたしているような人に対する悪口(それほど悪意が強いというものでもなさそうだけど)になるが、何と言っても一番よく使われるのは、「ブール」である。もう悪口だとも、本来の形が「ブール」だとも意識されていないのではないかと思われるぐらい、特に若い世代によって濫用されている。
二人称単数の人称代名詞と組み合わせた「ティ・ボレ」は、本来恐らく「馬鹿野郎」的な使い方をされていたはずだが、今では驚いたときに口からこぼれる言葉になってしまっている。失敗したりまずい状況に追い込まれたりしたら、キリスト教的な「イェジシュ・マリア」を使うけど、どちらかというといい意味で驚かされたときに「ティ・ボレ」を使っているように見える。自分では「イェジシュ・マリア」は使うけれども、「ティ・ボレ」は使えないので断言はできないのだけど。
以前、まだチェコ鉄道が使っている電車の車両がおんぼろばかりでペンドリーノなんて影も形もなかったころに、ウィーンに出かけたことがある。ブジェツラフでチェコ鉄道のボロボロの薄汚れた車両が使われた急行を降り、オーストリア鉄道の普通列車に乗り換えようとしてみたら、もうチェコ側とは雲泥の差の新しい車両が使われた二階建ての電車だった。当時チェコにも二階建ての車両自体はあった。あったけれどもいつ車両の外側を掃除したのだろうと言いたくなるぐらい汚れに汚れていて、二階の部分に座っても窓から外の景色が見えるような代物ではなかった。
そんなオーストリアの電車に驚いて、日本のものと比べたら驚くほどでもなかったのだが、チェコの鉄道に慣れ始めていためにはヨーロッパにもこんな電車があるのだと驚きだったので、うちのにこんなきれいな電車をチェコ語でなんていえばいいのか尋ねたところ、帰ってきた答えが「ティ・ボレ・ブラク」であった。うーん、それでいいのか。驚きの電車、驚くべき電車なんて意味なんだろうけど、今の若者言葉で言うと「やべえ」電車なんてことになるのかな。やっぱ自分じゃ使えんな。
そして、「ティ」がなくなった「ボレ」だけでも使われるのだけど、こちらはもうほとんど会話の際の間投詞化していて意味などそこにはない。若い人や、年配の人でも工場で働いてるおっちゃんとかあんまり品がよくない言葉を使う人たちが自分たち同士で話すときに濫用していて、聞こえてきた話が全く理解できないことがある。だって、ひどいときには単語一つ使うごとに「ボレ」が入るんだよ、「ボレ」しか聴き取れなくなってしまう。
驚いたのは、というか、この普段は使われているけれども、それについて話題になることはあまりない「ボレ」が、一躍時の言葉になったのは、十年近く前だっただろうか。サッカーの一部リーグのネット中継がきっかけだった。当時はチェコテレビとサッカー協会の共同プロジェクトで、テレビで中継される試合も含めて、全試合ネット上で無料で視聴できるようになっていた。
確かテレビで放送されたスラビアの試合だったと思うのだが、チェコテレビのアナウンサーは、正確さではアイスホッケーのザールバに負けるけれども、表現の豊かさでは余人の追随を許さないヤロミール・ボサーク師匠で、解説者がおじいさんという感じのターボルスキーだった。この二人がハーフタイムの休憩時間に話している様子が音声だけネット中継で流れたのだ。
その二人の会話の中に、特にボサーク師匠の発言に「ボレ」がひんぱんに登場して、チェコ中を驚かせたのである。正確には覚えていないけれども、「グド・ボレ・ナヒスタル・ボレ・タコボウ・スムロウブ・ボレ? カレル・ボレ・ヤロリーム・ボレ」とか何とか。文の意味はわからなくてよろしい。大事なのは「ボレ・ボレ」言っていることである。
普段は中継の初めに「ズドラビーム・バーム・フシェム・ファニンカーム・ア・ファノウシュクーム・フォドバレ(サッカーファンの皆さんに挨拶申し上げます)」なんて言葉を使っているボサーク師匠が「ボレ」を使っているのだから自分も使うべきかと一瞬考えてしまったぐらいである。頭の中で、ボサーク師匠の「ボレ」を使った文を自分が行っているのを想像して、あまりの似合わなさに使えなかったのは、今にして思えば幸いだった。
さて、チェコ語を勉強していて、若い男の子同士の会話が聴いても理解できないと思っている人は、「ボレ」を抜いてつなげてみると理解できるようになるかもしれない。それはともかく、チェコ語の会話に最もひんぱんに登場する動物は、牛、牛の中でも「ブール」の5格である「ボレ」だということは、統計など取らなくても確実だと断言できる。本来の意味は失われているけど。
「ティ・ボレ」も、ただの「ボレ」も、チェコ人動詞の会話を理解するためには、知っていた方がいい言葉ではあるけれども、自分では使わないほうがいい言葉でもある。受けを取る必要がある時に使う手もなくはないけど、リスクの方が大きいかなあ。それならまだ、「クリストバ・ノホ」と言った方がいいような気がする。相手によっては「ティ・ボレ」と返されそうだけど。
自転車操業はまだまだ続きそうである。
2017年9月26日23時。
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