2017年08月04日
『ヨハネス・コメニウス』を読んで1(八月一日)
チェコに、特にチェコの歴史や文化に興味を持つ人にとっては待望の、チェコが生んだ知の巨人ヤン・アーモス・コメンスキーの生涯やその思想について日本語で読める概説書が講談社から出版されたことはすでに記した。しかしその本についてこれまで何も書いてこなかったのは、まだ読んでいなかったからである。読まずばなるまいなどと書いたにもかかわらず、情けない話である。
実は、読むしかないと書いておきながら、手に入れるすべがなかったのだ。日本にいればちょっと本屋にまで足を伸ばして購入することが可能でも、チェコに住んでいるとそんなこともできない。ネット上でアマゾンなんかを通しての購入は可能だろうけど、チェコまで発送してくれるのかどうか確信がない。電子書籍版を買おうと思っても、ソニーのリーダーで読めるものはない。
それで、日本に行く知人に買ってきてもらおうかなんてことを考えていたら、そんな買うに買えない事情を斟酌してくださった著者から寄贈を受けてしまった。ありがたいことである。これも役得、チェコ関係の著者と親交のあるものの特権なのである。そういえば別の著者からも著書を頂くことになっているのだった。最近もらってばかりで差し上げるものがないのが辛いなあ。酒造りの勉強でもしてみようか。
さて、この手の文章で、どこまで具体的な内容に触れるのがいいのかわからないのだが、酔郷に入りし後、本書を通読しての感想は、つながり、そして重なったというものである。
これまで日本、チェコ双方のコメンスキー研究者と、知識のないままに話をして泥縄式に知識を増やし、素人にしてはコメンスキーに関する知識は豊富だったと自負している。しかし、それらの知識は、一部を除いて、相互の関連もなくばらばらに放り出されている状態で、あるべきコメンスキー像のどこにどのように位置づければいいのかもわからないような状態だった。
それが本書を読むことで、知識と知識が結びつき、また欠けていた情報が補われることで、新たなコメンスキー像が立ち上がってきた。それは確実にこれまで知っていたコメンスキーでありながら、知らなかったコメンスキーでもある。別な言い方をすれば、これまでいくつかに分裂していたコメンスキー像が統合されたとでも言えようか。
かつて著者のコメンスキーに関する講演を聞いて、最初のうちは一つ一つばらばらなコメンスキーに関する情報が提供されているだけで関連性が見えなかったのに、最後の部分まで聞いたときには、それらの情報が一本につながり、目の前に道が開かれていくのが見えるような思いをしたことがある。本書のテーマとなっている「光」という言葉を借りるなら、その道の向こうに光が見えるような気さえしたのである。
以来、コメンスキーの著作『地上の迷宮と心の楽園』の題名について、素人解釈ではあるが、「地上の迷宮」というのは、情報が錯綜し、何を信じていいのかもわからない状態、もしくは断片的な知識、情報はあっても、そこから全体を把握できずにいる状態、つまりは情報や知識の海におぼれて苦しんでいるような状態を指し、「心の楽園」というのは、情報や知識が有機的に結びつき、統合された知識から本当の知とも言うべきもの、迷宮の出口の光へと続く道が見えてくる状態を指すのだと考えている。
本を読んだり、講演を聞いたりしたときに、無造作に取り上げられた個々の情報が、著者や講演者の手にかかり結び付けられることで、思いがけない、同時に説得力のある結論にたどりついて、魔法を見るような思いをしたことはないだろうか。著者の講演がまさにそれで、コメンスキーが目指した知のあり方というのが、これだったのではないかとまで感じたのだった。そして本書もその系譜に連なる。
正直な話、上に書いた「地上の迷宮」の解釈は、インターネット全盛の現代にこそ適用できても、コメンスキーの時代に適用できるのかなと、自分自身でも懐疑する気持ちがあった。それが、本書に当時書物の氾濫が問題になっていたというような記述があって、あながち間違いではなかったのかもしれないなどと思ってしまった。そうか、グーテンベルクの活版印刷とルターの宗教改革のことを思い出せば、コメンスキーの時代に、前時代と比べて多すぎる情報の氾濫が起こっていてそれが迷宮とも形容したくなるようなレベルに達していたとしても不思議はないのか。また一つ知識がつながったぜ。
だからコメンスキーが、教育を印刷にたとえたのも、そんな時代を反映していると同時に、教育の最初の段階として、基礎的な知識を一律に詰め込むことを意味しているのではないかと解釈する。そして、詰め込まれたことで生じた知識の迷宮の中から、出口への道を見つけ出すために、個々の知識を取捨選択し、選択したものを体系化する。その体系化を学ぶのが教育の最終的な目標、もしくは自ら学ぶことの意味ではないだろうか。
この解釈は、自分でも自分に引き付けすぎた解釈だと思う。ただ、80年代のいわゆる詰め込み教育批判に影響されて英語の学習に失敗し、文法事項をひたすら詰め込むことによってチェコ語を身につけた人間としてはそんなことを考えたくなるのである。もちろん、文法を詰め込んだ上で、日本語話者から見た自分なりのチェコ語の体系化を図ったからこそ、ここまでチェコ語が使えるようになったのだ。このチェコ語の勉強の仕方をコメンスキー的と言うことができたら、運命的で、これ以上の喜びはない。
酔郷の中で読み、猛暑に耐えながら記した以上の文章がどこまで本書の魅力を伝えられているかは心もとないのだが、献呈してくださった著者には寛恕をお願いしたいところである。
8月1日21時。
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