アフィリエイト広告を利用しています
<< 2024年02月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29    
検索
リンク集
最新コメント
チェコの銀行1(十二月二日) by ルイ ヴィトン 時計 レディース hウォッチ (03/20)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしやん (12/30)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしゃん (12/30)
メンチンスキ神父考再び(七月卅日) by にっしゃん (12/30)
カレル・チャペクの戯曲残り(二月朔日) by K (08/16)
最新記事
カテゴリーアーカイブ
記事ランキング
  1. 1. 『ヨハネス・コメニウス 汎知学の光』の刊行を寿ぐ(四月十日)
  2. 2. no img 『羊皮紙に眠る文字たち』『外国語の水曜日』(三月十九日)
  3. 3. no img コメンスキー――敬虔なる教育者、あるいは流浪の飲んだくれ(九月廿七日)
  4. 4. no img すべての功績はピルスナー・ウルクエルに(一月廿六日)
  5. 5. no img 「トルハーク」再び(三月廿日)
  6. 6. no img トルハーク四度(十月二日)
ファン
タグクラウド










ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

広告

posted by fanblog

2017年07月21日

シュテルンベルク2 Šternberk moravský(七月十八日)



 モラビアのシュテルンベルクは、オロモウツから20kmほど北に行ったところにある。チェスキー・シュテルンベルクとは違って、形容詞は付かずにただのシュテルンベルクと呼ばれている。ということは、こちらが最初のシュテルンベルクかと思わなくもないけれども、よくはわからない。町の紋章はボヘミアのものとほとんど同じで、シュテルンベルク星の下の山がちょっと違うぐらいである。
 この町のことを、我々外国人はつづり通りに発音して、「シュテルンベルク」と呼ぶのだが、チェコ人の中には、発音で手抜きをして「シュテンベルク」と呼ぶ人たちがいる。ブルノに「シュピルベルク」というお城もあるし、最初は別の地名だと思っていたのだが、人名だけでなく地名もあだ名のように単純化してしまうからたちが悪い。
 このモラビアのシュテルンベルクに初めて出かけたとき、シュテルンベルクと意識していたのか、シュテンベルクと意識していたのか、確証はない。廿年以上前にオロモウツで滞在していたホテルの人に、勧められた町の一つで、当時はチェコ語はできていなかったから、この町はいいぞ、お城があるぞと説明されて、耳で聞いた音を頼りに駅で切符を買って鉄道に乗り込んだのである。

 イェセニークの南の外れあたりから流れ出すシトカ川が、山間を抜けてオロモウツ周辺の平地に抜け出すところに建設されたこの町は、山の麓の緩やかな斜面に築かれている。お城は駅前から北に向かい町の中心を抜けたほとんど町の奥と言ってもいい辺りにそびえているのだが、町の側からは、その雄姿は望めない。
 壁に「hrad」という言葉と矢印が書いてあるのに従って、入り口の門のようなところを抜け向きを変えると、シュテルンベルク城が目の中に突然のように飛び込んでくる。ここからでも正面しか見えず、奥に伸びる建物や塔などは目にすることはできない。全体像を見るためには、恐らくウニチョフのほうからシュテルンベルクに向かうかつての交易路のほうから見る必要があるのだと思う。試したことがないのでわからないけど。
 背後には山がそびえ、眼下には川を見下ろす高みに建てられたゴシック様式の城は、モラビアのシュテルンベルク家の本拠地として13世紀に建設された。チェスキー・シュテルンベルクの城と同様に重要な交易路を守るという役割も果たしていたようだ。こちらの場合は、オロモウツからイェセニークの山間を抜けてポーランドに向かう交易路である。

 さて、初めてシュテルンベルクを訪れ、城の敷地内に入って、威容を見上げて感動した後、訪れたのは、ちょっとした失望だった。当時このお城は、なぜか時計の博物館となっていたのだ。こんなところまで来て、時計を見てもしょうがねえよなあと思いつつ、ガイド付きの見学ツアーに参加したのだった。チェコ語なんてさっぱりわからないから、実物を見ておおと思うしかなかった。
 中国のものと思われる古い時計があったり、家具などは残っていなかったが、展示室は城の部屋をそのまま使っていたので、壁やなんかにけっこう興味を引かれる部分があったりして、入館したことを後悔する必要はなかったけれども、ボウゾフのお城のような本来の内装に戻して歴史的な城の展示を見たいとは思った。時計なんてお城に展示する意味はないんだしさ。

 それが、十年ほど前に再訪したら、時計の博物館は独立して街中の別の建物に移転し、シュテルンベルクのお城は、改修が進みかつての家具(もしかしたらよそのお城から持ってきたものかもしれない。そんなことを言っているお城があったのだけど、どこだか記憶にないのである)を含む内装が復元されていて、見ごたえのある展示に変わっていた。17世紀末に、モラビアのこのあたりに膨大な資産を有していたリヒテンシュタイン家によって買い取られ、第二次世界大戦が終わるまで所有されていたという話だから、復元されたお城の様子も、シュテルンベルク家時代のものではなく、リヒテンシュタイン家の時代のものかもしれない。
 シュテルンベルク城も含め、リヒテンシュタイン家がチェコに有していた資産は、第二次世界大戦後にすべて没収された。リヒテンシュタイン家は、他の貴族家と同様に、ビロード革命後に資産の返却を求めたようだが、共産党政権によって没収されたのではなく、その前のベネシュ大統領令にってナチスへの協力者に対する処罰として没収されたものであるため、資産の返却はなされていない。そのおかげで、今でもチェコとリヒテンシュタインの関係はあまりいいものではないのである。

 ところで、シュテルンベルク城の上を通って、山の上に登っていく道がある。このあたりでは珍しくつづら折れっぽくなっている道で、自動車のヒルクライムのレースが行われることでも知られている。チェコ最大の自転車のステージレース、チェック・サイクリング・トゥールでも毎年周回コースに組み込まれていて、勝負どころの一つとなっている。
 自転車といえば、昔、自転車であちこち走り回っていた頃に、オロモウツからシュテルンベルクまで走ろうとしたことがある。あのときはオロモウツを出て周囲に畑しかない吹きっさらしの平地で、強烈な向かい風に見舞われて、途中で力尽きて方向転換したのだった。追い風だったら楽だったのだけど運がなかった。
 自転車ではないけど、歩いて行ったことならある。ただし、オロモウツから歩いたのではない。友人に誘われて、リーマジョフという山間の町まで鉄道で行った後、イェセニークの山の中を、シュテルンベルクの北にあるソビネツの城まで歩いかされた挙句に、ソビネツからのバスに乗り遅れて、シュテルンベルクまで歩く羽目に陥ったのだ。全部で50km以上歩いただろうか。筋肉痛だけでなく、膝を痛めてしばらく動き回れなくなったのだった。滝を見に行こうと言われて行ったけど、日本人的には滝ではなかったのも、いい思い出である。詳しいことはいずれ。
7月18日23時。


 チェスキー・シュテルンベルクの城を建設したのはディビショフ家の誰それ、モラビアのシュテルンベルク城を建設したのはシュテルンベルク家の誰それ、ということは、チェコのシュテルンベルクの方が先で、モラビアの方が後ということになる
のか。ならばなぜモラフスキー・シュテルンベルクにならなかったのかが謎である。7月20日追記。

アートフォト プラハ チェスキー・シュテルンベルク城の黄色いお部屋/ 絵画 壁掛け のあゆわら






この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/6512104

この記事へのトラックバック
プロフィール
olomoučanさんの画像
olomoučan
プロフィール


チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。