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2017年07月05日

森雅裕『さよならは2Bの鉛筆』(七月二日)



 森雅裕が、1987年7月に中央公論社から刊行した本である。全体としては七冊目、中央公論社からの刊行一冊目である。1985年のデビューから二年で、刊行点数が七、出版社が三というのは、賞を取ってデビューした新人としては、なかなかの数字であろう。初めてこの本を読んだときには、一つ目の出版社とはすでに絶縁し、二つ目の出版社の編集者との関係も険悪なものになっていたなんて事情は知らなかったんだよなあ。

 問題は、いつこの本を手にしたかである。新人作家の何かの賞を取ったわけでもない小説のハードカバーが田舎の本屋で手に入ったとも思えないから、これも大学入学のために、東京に出てからのことであろうというところまではいいのだが、『椿姫を見ませんか』より後だったのか、前だったのか。それによって読後感が変わったと思うのだけど、今となっては思い出しようもない。
 文庫化されていることを考えると、商業的にもある程度は成功したのだろう。でなければ、中公からあれだけ本が出ることはなかったはずだし、その意味では、講談社と喧嘩別れしかけていた森雅裕の作家生命をつないだ一冊だといえそうだ。91年に出版された文庫版の解説で、半村良の弟子筋にあたる中島渉(この人選もなんでだろうと不思議だが)が、森雅裕はこの作品を契機として大きく変わったというようなことを書いて、「その変化を嬉しく受け止めている」とまで述べているが、一般の読者としては、そんな実感は持てなかった。出版された順番に読んだわけでもなかったしなあ。

 むしろ中島渉が、森雅裕がミステリー作家としてデビューしたのは、作家としては不幸なことだったのではないかと書いていたのに共感した。この解説を読んだのは、人は死ぬけどミステリーとは言えない『感傷戦士』『漂泊戦士』、完全にミステリーではない『マン島物語』、ミステリーとは言えるかもしれないけど人が死なない『あした、カルメン通りで』なんかを読んだ後のことだったから、すんなり納得できた。
 ミステリー作家だと思っていた赤川次郎が書いたSFっぽい作品や、冒険小説を推理小説だと思って手に取って、面白かったけれども何だか釈然としない気持ちになったのを思い出せば、ミステリーでデビューした森雅裕がデビュー当初からミステリーから逸脱するような作品を書いたのは、『モーツァルトは子守唄を歌わない』や『椿姫を見ませんか』で獲得した読者の多くを失いかねない行動だったのだろう。それが一部の熱狂的な読者を産んだという面はあるにしても。

 森雅裕のミステリー作家としての代表作の一つと言えるのが、この『さよならは2Bの鉛筆』である。長編小説ではなく、三本の連作中篇が収録されている。舞台は横浜の音楽高校、主人公はピアノを専攻する女子高生のハードボイルドである。本の装丁はセピア調で、レトロなイメージを作り出していた。
 田舎の管理教育に縛り上げられた拘束も厳しく、授業もびしびしに入っていた高校の卒業生としては、描き出された音楽高校の自由すぎる校風にうらやましさを感じた。大学の知り合いの話で、都会の高校は、特に私立は普通科でも結構自由だったという話を聞いて、むしろ自分の通っていた高校の方が特殊であったことを知ることにはなるんだけどね。
 主人公の鷲尾暁穂と周囲の人々の交わす、しゃれたと言うよりは辛辣な言葉を投げ合う会話には、あこがれたけれども、あれは小説の世界だから成立すると言うか、受け止めてくれる相手がいなければ、かなり恥ずかしく痛いものに終わってしまうことを実体験するに終わった。今でも必要以上に辛辣な言葉を吐いてしまうことがあるのは、この小説の影響、いや生まれつきか。辛辣な口を叩きたい人間だったから、この作品が合ったと考えたほうがよさそうだ。

 個々の作品を見ていくと、最初の「彼女はモデラート」が、三作の中では、人が殺されてその犯人を追い詰めるという一番ミステリー要素の強い作品。ダイイングメッセージが出てきて、その言葉が誰を指すのかが犯人を突き止めるヒントになるのだけど、ちょっと無理があるんじゃないかと、最初に読んだときから思った。死の間際にそんなひねった言葉で犯人(直接殺したわけじゃないけど)を名指すかなあ。得てしてダイイングメッセージというのはそんなもんなんだけどさ。
 それ以外の部分は、主人公の暁穂が、友人に犯人探しに巻き込まれていくところも、犯人があれこれ罠を仕掛けて、他の犯人候補を仕立て上げていくところも、犯人を追い詰めていくところも、見事としか言いようがない。小道具としてのモーツァルトの使い方もね。

 二つ目の「郵便カブへ伝言」は、ハードボイルド的な復讐物である。思い出してみるとこの作品にも苦学生が登場するのだった。亡くなった友人の恋人だったその苦学生のバイク乗りの死をめぐって暁穂が捨て身の復讐を企てるお話。そこに出てくる漢字で書けそうにない「タシタニ」って店名に、どこから持ってきたんだろうと思っていたら、実在のバイクのつなぎメーカの名前に点を一つ追加しただけだった。

 三話目が表題作の「さよならは2Bの鉛筆」になるのだけど、この作品に関しては、最後の謎解きに出てくる暁穂のお母さんが全てを持っていっておしまいとしか言いようがない。現代の殺人事件を解決するのではなくて、歴史の謎、それも音楽、音楽家に関する謎を解くというスタイルは、『モーツァルトは子守唄を歌わない』と、『あした、カルメン通りで』をつなぐ作品だと言えるのかもしれない。
 高校卒業後に暁穂が自衛隊に行くという部分は、ファンの力で刊行されたという『トスカのキス』の主人公に受け継がれているのだろうか。『トスカのキス』を読む前は、漫画『マスター・キートン』でキートンが大学を出てイギリス軍に入ったという話とつなげて考えることが多かった。森雅裕の作品にはもう一つ『マスター・キートン』とのつながりを感じさせるものがあるのだが、それについては当該作品について書くときに触れることにする。

 「五月香ロケーション」シリーズであれだけ書いて、『さよならは2Bの鉛筆』でこれだけしか書けないというのは、ちょっと不思議な気がする。最近筆が進まなくなっているからかなあ。
7月3日23時30分。






posted by olomoučan at 06:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 森雅裕
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