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2017年04月17日

サーモの国−−適当チェコ史(四月十四日)



 チェコの歴史というと、たいていは始祖チェフの伝説から始まる。チェフとレフの兄弟が率いる集団がそれぞれチェコ人とポーランド人になったというのだけど、ポーランド人も同じような伝説を信じているのだろうか。
 東のほうから移動してきたチェフとその仲間達は、中央ボヘミアにあるジープ山のふもとに約束の地を見つけ、そこで移動をやめて定住を始めた。そのチェフの何世代か後の子孫にリブシェがいて、リブシェが畑を耕していたプシェミスル・オラーチを自らの夫として選んだことで、後のボヘミア王家のプシェミスル家が誕生するというのが、伝説の概要である。

 その伝説を除いて考古学的な話から歴史を語ると、現在のチェコの領域に最初に住んでいたのは、ケルト人の諸部族で、そのうちのひとつボイイ族の名前からボヘミアというチェコの西半分をさす地名が誕生したことを知っている人は多いだろう。ケルト人が西に去った後、ゲルマン人が現れ、古代ローマ帝国とゲルマン人居住地の境界地域となる。オロモウツがシーザーによって建設されたという伝説もそのあたりの事情を反映しているのだろう。
 簡単に言えば、ゲルマン人がローマ帝国内に移動し、ローマ帝国が滅びた後にこの地に入ってきたのが現在のチェコ人の直接の祖先となるスラブ人である。そのスラブ人のうち一番西側にまで進出してきた部族をまとめた最初の国が成立したのが、七世紀の前半のことだった。
 チェコ語で、「サーモバ・ジーシェ」と言うように、その国の支配者となったのは、サーモという人物であるが、スラブ人ではなく、ゲルマン人の一派フランク族の商人だったらしい。そして、「ジーシェ」という普通は、ロマー帝国などの「帝国」を表すのに使われる単語が使われているが、実態は帝国と呼べるような強固なものではなく、西スラブ人の諸部族の連合体のようなものだったようである。諸部族の上に立つ存在としてフランク族のサーモを据えたということなのだろう。妻が12人いたという伝承を参考にすれば、サーモの許に集った有力部族が12あったということなのかもしれない。

 もともとは、624年ごろに東方から侵入してきた遊牧民アバール人の攻勢に対抗して作られた連合のようだが、アバール人の撃退に成功すると、今度は西のフランク王国からの圧力にさらされることになる。サーモに率いられた西スラブ部族は、630年にフランク王のダゴベルト一世の軍勢を、ボガスティスブルクの近くで行なわれた戦いで破り、独立を確保した。
 サーモは、その後、658年ごろまで生きていたようなので、ほぼ35年にわたって、西スラブの諸部族を率いたということになる。サーモの死後は、一代の英雄の後継者は生まれず、サーモの国は各部族ごとに解体されたのか、歴史の中に消えてしまうのである。

 では、サーモの国の中心がどこにあったのかとなると、正確なことはわかっていない。本拠地とされるボガスティスブルクは、一般に西ボヘミアに比定されているが、今日のモラビア地方や、スロバキアのブラチスラバ、オーストリア、ドイツのバイエルン地方などに比定する研究者もいるらしい。ただ、サーモの国が東は、今日のスロバキアから、モラビア、ボヘミアを経て、西はバイエルン地方の一部まで、北はドイツ国内のスラブ人居住地域のラウジッツ地方から、南は現在のオーストリアの一部という広い範囲を支配下におさめていたことは確かなようだ。

 現在のチェコとスロバキアの領域にまたがっていたと考えられているだけに、後に続く大モラバとともに、チェコスロバキアの前身のようなものとされることもあったらしい。過去に存在した歴史的に存在が証明された国が政治的な解釈を受けたということなのだろう。
 そして、この辺りでは最初の国と呼ばれる存在だけに、その中心がどこにあったのかという問題は、考古学的、歴史学的な問題であるだけでなく、民族感情ともかかわる微妙な問題になっているようだ。ちょうど、日本の邪馬台国の所在地の比定が、地域感情と密接に結びついているのと同じように。九州の人間としては、九州以外に邪馬台国を比定した説は、どんなに説得力があっても認めることはできないし、サーモの国も続く大モラバ国もモラビア地方にその中心があったと、何の根拠もなく断言しておく。
4月15日17時。



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タグ:サーモ 伝説
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