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2020年06月10日

永延二年閏五月の実資(六月七日)



 さて、『小右記』関係の再開なのだが、自分がどんなやり方をしていたのかすっかり忘れてしまっている。書く人間が変わらない以上、大した違いも出るまいということで、適当にはじめる。閏月のことについて説明しようかとも思ったのだが、何年かに一度、同じ月が繰り返されることがあるぐらいしか言えないのだった。実際の一年の長さと太陰暦の一年の長さの違いを、閏月を置くことによって調整しているのはわかるのだが、どういう規準でどの月を繰り返すことになっているのかはさっぱりわからない。陰陽寮であれこれ計算した上で暦を決めていたのだろうけど。
 中国では、今でも新年を旧暦で祝うようだが、その暦には閏月もあるのだろうかとか、明治時代に新政府が突然新暦を採用した理由として、財政難から公務員の給料の支払い回数を減らすためだったという話を聞いたことがあるけれども、閏月がある年は月給が13回分支払われるわけだからなんてことを考えてしまう。明治政府財政難の場合には、長期的なものよりも、もっと切迫した切実な問題だったようだけど。

 とまれ、この月最初の『小右記』の記事は九日のものである。ここ日の記事はいくつかの部分に分かれるが、最初は摂政兼家第での御読経の発願に参入したことである。次の部分が御読経と関係するのかどうかはわからないが、舞の装束について、先日の宣旨で左右衛門府から、雅楽寮に渡しされたものを、この日摂政兼家の命令で、衛門府に返還させている。

 次は参内した後に聞いた、前日八日のできごとについて。内裏西面の正門である宜秋門にある右衛門府の陣の前に水鳥が集まり、その後飛び去って大極殿の上に集まったというのである。当然占いが行われ、火事ではなく兵革のこと、つまり戦乱がおこるという卦がでたようだ。
 その占いと関連するかのように、右衛門権高階敏忠の言葉が記される。それによると伝説の盗賊「はかまだれ」と同一視された藤原保輔の悪事が手下の告発で明らかになったという。保輔は盗賊の張本とか、切腹を初めて行った人物だとか、さまざまな伝説に彩られているが、『小右記』に前回登場した永観三年三月に、正月の刃傷沙汰が発覚して追捕を受けている。本人は逃亡に成功したけれども、一味と見られた兄斉明が翌月に射殺されたんじゃなかったか。父親致忠も後に殺人の罪で佐渡に流刑になっているから、盗賊一家だったわけだ。

 平安時代というと、死罪が廃止されていたと言われるわけだが、追捕の際に抵抗した犯人を殺してしまうことはままあったようだ。また死罪相当の犯罪であっても、血を見ることを嫌って罪を減じて流刑にすることが多かったわけだから、父致忠も本当は死罪だったのかもしれない。
 それから民部卿藤原文範の北方の四十九日の法要が石鞍で行われたことが記される。石鞍は現在の岩倉であろうか。この地に文範が創建したとされる大雲寺がある。最後に実資の邸宅である小野宮第の南面の池に虹が立ったことが記される。


 廿三日は『小右記』の記事は残っていないが、『日本紀略』に、武者十人が弓箭を帯びて朱雀院参入するのを停止したという記事が残っている。朱雀院は嵯峨天皇が退位後の御所として造営した邸宅。朱雀天皇の諡号は譲位後の後院として朱雀院を利用したことにちなんでいる。十世紀半ばに一度焼失したが、村上天皇が再建した。この永延二年閏五月の時点で誰が朱雀院に滞在していたかはよくわからないが円融上皇が滞在していたこともあるようである。『大日本史料』によれば、朱雀院に参入する武者に弓箭を帯びることが許可されたのは永延元年(寛和三年)三月のことだという。ただし、この件については『小右記』に記述はない。


 次は『小右記』の廿七日の記事である。摂政兼家のところに出向くと、前日廿六日の出来事を知らされる。「璽の御筥の上に鼠の矢を遺す」という怪異が起こったというのだが、鼠がどこからか矢を加えてきて、御璽の莒の上の残して逃げたということなのだろうか。当然占いが行われ、「お薬と火事」を慎まなければならないという卦が出ている。お薬というのは病気に関することであろうか。
 この凶兆を払うために儀式が行なわれるのが、一つは息災延命を祈念する「代厄の御祭」で、もう一つは防火のための「防解火災の御祭」である。『国史大辞典』によれば、この二つはまとめて「火災代厄祭」と呼ばれ、宮中で毎月行なわれる行事になったというが、今回は臨時で行われたものと考えてよさそうだ。
 日時については、陰陽寮の勘申で、来月の朔日から、神祇官の斎院において行うべきだという請奏がなされている。儀式を行なうのは祭主大中臣能宣なのだが、この人伊勢神宮の祭主で斎院が指すのが平安京の神祇官にあるのか伊勢神宮にあるのか判然としない。さらにわからないのは、右大弁の源致方が「官斎院の払ふ地」を破壊したと記されていることである。摂政の命令で問い合わせの使が出ているということは、問題行動であったのだろうか。
2020年6月8日10時。






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