2020年03月09日
言葉のもたらすもの(三月六日)
日本のコロナウイルス関係の報道を見ていて気になることはいくつもあるが、その一つが、保健所(だと思う)が検査を求める人の要求を拒否したことに対する批判である。感染症対策を担う役所には、誰を検査して検査しないかを決める権限が与えられているのではないのか。その権限に基づいて拒否したところで、批判を受けるいわれはないはずである。
検査と言ったり書いたりするのは気楽にできるけれども、この手のウイルスの検査には、特に危険視されているウイルスの場合には、手間暇がかかるものであり、検査できる数には限界がある。感染者が多発している地域から帰国したとか、家族から感染者が出たとか明確な感染を疑えるような理由がある場合はともかく、ある漠然とした不安から検査を求める暇人まで検査していたのでは、本当に必要な人の検査ができなくなる恐れがある。
もちろん、拒否されてなお執拗に検査を求める人の気持ちも全く理解できない。以前も書いたが特効薬があるのなら、検査を受ける、それこそ全員が検査を受ける価値はある。しかし、この病気の場合には陽性でも陰性でも風邪薬を飲んで寝ているしかないのである。病気を治すために、そして感染の拡大を防ぐために大切なことは、熱などの症状がでたら仕事や学校を休むことで、行政の仕事は片っ端から検査をすることではなく、病気の人が仕事を休んでも困らない体制作りである。
しかも、チェコでも一度陰性と判定された人が、再検査で陽性になった例も二件あるし、検査で陰性になったからといってそれで無罪放免というわけでもない。隔離された病院から退院する前にも院生の確認が必要になるなど、本当に疑いのある人に関しては複数回の検査が必要になるのだから、無駄な検査をしている余裕はないのである。
こういう検査好きの日本人の振る舞いの中には、医者に行けば何とかなるとか、医者に行けば大丈夫という思い込みがあるのだろうか。その思い込み自体は、日本の医療制度が高いレベルで機能してきたおかげだと思えば、喜ぶべきことなのだろうが、病気について自分で考えずに医者任せにし、マスコミが垂れ流す真よりは偽のほうが多い情報を信じ込んでしまう原因にもなっていそうだ。
ヒステリックなまでのこの病気に対する恐怖を作り出したのが、流行し始めのころの中国武漢の病院の惨状だったのは間違いない。それが、40パーセントの感染者は自覚症状がないとか、80パーセントは軽症で終わるとか、病気の軽さを示す情報が出てきても収まらないのはなぜなのだろう。感染が広まりやすい理由として、症状の軽さを指摘する人がいるのもその一因だろうが、最大の問題は、報道で使われている言葉にあるような気がする。
このウイルスの感染力に関して、よく使われる言葉が「濃厚接触」という漢字を見れば意味は理解できそうな言葉である。人と人の接触だと考えれば、スパイ映画でもない限り、体の一部が触れ合うことであり、それに濃厚という言葉付いているのだから、抱き合ったり、キスしたり、もしくはエイズのように性行為を通して感染するのだろうと理解した。当初の死者が続出しているような情報は、簡単に感染しない病気の徴候を表わしているように見えたし。
それが、全く間違っていたことを知ったときには、開いた口がふさがらなかった。医学の専門家が、正確性を確保するために、専門書で一般の認識とは違う意味で言葉を使うことまで否定する気はない。報道する連中はそれを、どうして一般的なわかりやすい表現に置き換えて伝えないのだろうか。専門家の言葉の垂れ流しにはマスコミなど不要である。専門家に対してわかりやすい言葉を使うよう求めるのも報道の役割ではないのか。恐らくは、非日常的な言葉の使い方をすることで、読者、視聴者に強い印象、具体的には恐怖を与えようとしているのだろう。
最終的に、濃厚接触というのは、患者と同じ部屋の空気を吸うことだと理解したのだが、これって完全にインフルエンザの際に言われることと同じじゃないか。学校の教室にインフルエンザに罹った子供がいた場合に、その子供と同じ教室の空気を吸った子供たちの多くが連鎖的に感染するのも濃厚接触というのだろうか。現象としては同じだと思うのだが、こんな言葉聞いたこともなければ見たこともない。
もう一つ気になったのはクラスターという表現。これも真っ先に思い浮かぶのは、パソコンのハードディスクに関する言葉だし、よくわからないけどクラスター爆弾とかいうものもあった気がする。そんな危険なもの(兵器はみな危険なものである)や、PC用語が病気に使われるというのも、よくわからない。この既知の言葉が違う意味や文脈で使われているというのも、恐れを増幅しているのだろう。
専門家の発言を、わかりやすくかみ砕いて一般の人に伝えるのがマスコミの役割のはずなのに、日本のマスコミは、事件が起こるたびに、どれだけ専門用語をそのまま使うかで競い合っているように見える。それによって劇的な効果を狙っているのだろうが、その役割放棄なやり口が、使い方が間違っていることもままあるし、デマを生み、パニックをもたらしている。
差別に関して、相手を知らないから差別するんだということを言う人がいる。気持ちはわかるが完全には正しくない。相手を全く、存在すら知らなければ差別なんて起こりようはない。問題は、中途半端な、断片的な知識しか持たないところにある。これは恐れに関しても同じで、何も知らなければ恐れることは何もない。中途半端な知識があるから、何となく恐れてしまうのである。
今回のコロナウイルスの騒動も、中途半端な知識しかない非専門家が、専門家でもないのに専門用語をそのまま使って、中途半端な情報をまき散らし続けているところに最大の問題がある。正直、日本のテレビや新聞でのコロナウイルスは恐ろしいという報道を真に受けてしまうのも信じられないのだが、誤った情報でも間断なく絶えず浴び続けているとその人の知性に関係なく信じてしまうものなのかもしれない。ナチスの手法がこれじゃなかったっけ? チェコに住んでいたよかったと思うのはこんなときである。
2020年3月6日24時。
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