2016年05月26日
英語ができない(五月廿三日)
英語で話そうと思って口を開いても、最初の一単語、二単語以外は、英語ではなくてチェコ語が口から出てくるようになっているのに気づいたのは、いつのことだっただろうか。チェコ語の勉強を始めてチェコに来て以来、英語に頼ってしまわないように、できる限りチェコ語で済ませようと、どうしても必要なとき意外は英語は使わないようにしていた。でも、廿年以上前に初めてチェコを旅行した時と同じぐらいの英語のレベルは維持できているだろうと何の根拠もなく考えていた。だから、自分の口から英語の言葉が出てこないことに気づいたのは、結構大きなショックだった。
英語ができないと正直に言うと、なぜか謙遜しているのだと思われることが多い。どうもチェコ語なんてとてつもなく難しい言葉ができるのだから、英語のような簡単な言葉ができるのは当然だと考える人が多いようだ。ちょっと待ってほしい。誰が英語が簡単でチェコ語が難しいなんて決めたのだろうか。私には、チェコ語のほうが英語よりも簡単に思われてならない。しかし、そう言うと、冗談だろうと思われてしまう。
現在の世界で英語が世界共通語のようになってしまったのは、英語が優れた言語であるからでも、簡単な言語であるからでもない。英語を使用する人の数が多く、母語ではなくても教育を受けて理解できる人の数が多いからに過ぎない。いや、ぶっちゃけて言えば、世界最大の強国アメリカで使われている言葉だからに他ならない。
ということは、このまま中国が勢力を拡大し、アメリカを駆逐して世界の覇権を握ったら、現在の英語の位置に中国語が立つことになるのか。それは嫌だなあ。でも、近代以前の東アジア圏で、中国語、正確には書かれた中国語=漢文が共通語として使われていた時代に戻ると考えれば、現在の中国語ではなく、漢文を世界共通語にするというのには、ちょっと惹かれる。公式の文書はすべて四六駢儷体で書けとか言われたら、頑張って勉強しようという気になれそうだけど、現代の中国語には何の魅力も感じない。
あれは十年以上前、チェコがシェンゲン領域に入る前のことだった。夏の観光シーズンにブルノからブジェツラフに向かう電車に乗っていると、国境でのパスポートのコントロールが長引かないように、走っている電車の中で、チェコとオーストリアの警察官がパスポートのチェックを始めた。最初にチェコ人が来たときには、「ブジェツラフまでしか行かないんだけど」とチェコ語で言えばよかったので問題なかった。その後、オーストリアの警察官に、「パスポートお願いします」とか何とか英語で言われたときには、英語で答えようとは思った。いや英語で答えているつもりだったのだ。
「アイ」で始めたのに「ド・ブジェツラビ」と言ってしまったことに気づく間もなく、苦笑を浮かべたオーストリアの警察官に「ブジェツラフ?」と確認の質問をされて、「イエス」の代わりに「アノ」と言ってしまったときに、英語で話していたはずが、いつの間にかチェコ語になっていることに気づいた。オーストリアのおまわりさん笑ってたしなあ。他にも「アイ・アム・ズ・ヤポンスカ」とか、「ウィズ・カマラーデム」とか言ってしまって頭を抱えたのも、確か同じ時期だった。
それで、英語で話さなければいけないときには、時間はかかってしまうが、まず頭の中で文を考えてから口に出すようにすればいいのではないかと考えて、実行しているのだが、まったくうまく行っていない。二年前に仕事の関係でハンガリーに行ったときには、飛行場でタクシーに乗ったのだが、「このホテルまで行きたい」というのを、すでに飛行機の中で考えて準備しておいたにもかかわらず、口から出てきたのは、「アイ・ウォント・イェット・ド・トホト・ホテル」だった。考えた英語の文をカタカナで紙に書いておいて読むようにすればよかったのかもしれない。所用自体は幸いほぼ日本語で済むようなものだったのだが、帰りの飛行機で隣にチェコ人が座ってくれたときには、地獄から天国に戻ってきたような気がしたのだった。
多分、私の頭の中には、日本語と外国語という二つの回路しかないのだろう。そして現在では外国語=チェコ語になっている。だから、英語で話そうとしても、英語モードではなく外国語モードにしかならず、英語で話すつもりでもチェコ語が出てきてしまうのだ。英語の単語などの知識は頭の中に残っているんだけどねえ。それで、時々、英語ができないことが誇りだなんていってしまうのだが、それは半分本気で、半分は負け惜しみである。
英語ではなくチェコ語という外国語を使えるようになったことは、心のそこから誇りに思う。かつての英語の授業せいで陥っていた外国語アレルギーから抜け出せたのは、自分でも信じられない思いがすることがある。英語ができることが正義であるかのようになってしまった現代社会において、積極的に英語を使いたいとはまったく思えないのだが、中学時代から十年近くにわたって勉強を続け、特に受験の時期には死ぬ思いで勉強した英語が使えなくなっていることを残念だと思う気持ちがあるのもまた否定できない。英語はできるけれども、自分の信念に基づいて使わないというのが理想なのだ。現実には、使えないから使わないというちょっと情けない状態になっている。だからといって今更勉強する気にもなれないのだけど。
語学には、この言葉は易しくて、この言葉は難しいなんて差は存在しない。あるのは好き嫌いの好みと、相性ぐらいのものだ。個人的には、日本人にはチェコ語のほうが英語よりも相性がいいと思うけれども、英語のほうが合うという人もいれば、フランス語やドイツ語と相性がいいという人もいるはずだ。だからこそ、黒田龍之助師(著書を通じてこちらが一方的に語学の師匠だと認定させてもらっているのでこう書く)は、いろいろな言葉を勉強することを勧めるのだろう。でも、不肖の自称弟子には、いくつもの言葉を勉強するなんてことはできそうもない。今後も日本語とチェコ語だけを後生大事に抱え込んで生きていこう。チェコで生活している日本人なのだから、それでいいのだ。恐らく。
5月24日23時30分。
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