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2019年12月23日

大学入試改革なんざやめちまえ2(十二月廿日)



承前
 さて、読んでむかっ腹を立てた一番の理由は、田舎の公立の進学校のことを何もわかっていないくせに、批判しそして悪用しようとしていた点にある。現場を知らない人が観念だけで作り上げた改革がうまく行くわけがないのである。田舎の公立の進学校というのは、いい意味でも悪い意味でもとんでもない存在で、扱いを間違えたらとんでもないことになるのだが、この人の考える新制度では導入されたら遅かれ早かれ大問題が勃発していただろうことは、田舎の公立の進学校の出身者として確信を以て断言できる。

 改革の目玉の一つだった英語の試験に民間の試験を導入するという案は、地方の高校生と都会の高校生の間の機会格差が大きすぎることで批判されていたわけだが、改革を推進する人たちは、これを地方の高校の英語の先生たちに試験の監督などの業務を押し付けることで乗り切ろうとしていたらしい。素晴らしいアイデアであるかのように自画自賛しているけれども、正気を疑う。
 地方の公立の進学校というところは、大抵は文武両道を掲げて部活動にも力を入れているところが多い。全国大会を目指さなないような場合でも、勉強以外に部活に力を入れるのは大切だと考えているのだ。ということは、部活の顧問を任されている先生が多いということになる。さらに高校三年生になると、今ではそれほど回数は多くないだろうけれども、受験産業の提供する模擬試験を土日を使って学校で実施することもある。当然試験監督は先生たちである。

 かつて東京の大学に入って先輩の都立の先生に都立高校では研究日と称して、一日学校に出なくてもいい日があるという話を聞いて驚愕したことがある。当然土日の模試なんてありえない。うちの高校の先生たちなんて、授業で使う教材の準備や、試験の採点なんかに使う時間を確保するのにも苦労していたというのに、うらやましい話である。たださえ、自由に使える時間に差があるのに、民間の英語の試験まで追加されたのでは、働き方改革などなくても、高校側から反対の声が上がるのは当然である。この記事では取り上げられていないけど、日教組などの労働組合が賛成に回るとも思えない。
 しかも、対象となる民間の試験は一つではないというではないか。受験できる回数の差も問題にされていることを考えれば、この英語の先生たちの(強制)ボランティアで試験を実行するというのがいかに現実離れしているかは明白である。確かに田舎の高校の先生たちに、「生徒のため」だという殺し文句でお願いをすれば、大抵は引き受けてくれるだろうが、それで本当にいいのか。

 その「生徒のため」というのも、大きな問題になる。田舎の公立の進学校の存在意義、すくなくとも先生たちにとって最も重要な存在意義の一つは、いかに多くの大学合格者、特に国立大学の合格者を出すかということである。最近はもうそんなことはないと信じたいけれども、我々のころは、内申書に記入する成績や、欠席日数の改竄が普通に行われていた。すべては生徒たちが大学に合格するためなのである。最近も知り合いの日本の大学の先生から、入試の際に怪しい内申書を見かけることがあるなんて話を聞いたから、今でもやっているところはあるはずだ。
 そんな「生徒のため」がモットーの地方の高校の教員がテストの実施を引き受けるということは、ものすごく大きな危険をはらんでいる。コメントをつけた方も書かれているが、問題が漏洩する、問題を見て似たような問題で練習をさせるなんてことが起こらない保証はない。というよりは、発覚して問題になる将来しか予想できない。いや、答案の改竄だってありかねないというのが、田舎の進学校の出身者の正直な感想である。

 卒業した田舎の公立の進学校にはいろいろ問題もあって、ふざけるなと反発したところもたくさんあるけれども、生徒を大学に合格させるためだったら何でもやるという点では、これも気に入らないことの一つだったけど、完全に信頼している。そんな先生たちに大学入試の合否にかかわる試験の運営を任せるなんてのは、「猫に鰹節」ということわざそのものの状況である。教育委員会? 同じ田舎で価値観が同じなんだから、見て見ぬ振りどころか、積極的に加担するに決まっている。

 それから、田舎の進学校の授業が、センター試験対策のためにゆがめられているというようなことも語っているが、これも少なくとも我々のころにはありえなかった。普通の授業は授業でちゃんとカリキュラム通りに行なうのだ。授業時間数が所定のものよりも多くてその分詳しい説明がなされていたのかもしれないが、それは決して受験対策ではなかった。受験対策は受験対策で別に行うのが田舎の流儀である。だから英語に関して民間のテストが導入されれば、その対策は行なわれるだろうが、指導要綱も変わらないのに、正規の授業が変わることはありえない。
 それで、うちの高校では、進学を希望する生徒は、特に三年生になると朝の授業が始まる前に一時間、最終授業が終わった後に一時間、毎日二時間の課外とか補習と呼ばれる受験対策の授業を受けさせられていた。放課後の補習は一年生から実施されていて、原則として普通の授業を担当する先生が補習も担当していたから、生徒達の授業数も凄かったけど、先生たちの担当する授業数もまた大変な数になっていたのである。

 教育実習で都会の私立高校に行って、毎日の授業数の少なさにうらやましく思うと同時に、自分の担当する授業の少なさに、高校時代の先生たちに申し訳ないという気持ちを抱いてしまった。少なくともうちの高校の先生たちの授業は、真面目に受けていればそれだけで大学に合格できるレベルのものであったし、それに補習がついていたわけだから、これで受験に失敗したら申し訳ないというぐらい面倒を見てもらえたのである。
 当時は反発ばかりしていたけれども、今から考えると高校時代にあれだけ勉強したからこそ、大学に入って専門的な勉強を始めた後も、講義を聞いたり専門書を読んだりして、まったく理解できないということはなかったし、必要に応じて質問していくこともできたのである。高校で日本史を履修しなかったせいで、古典文学や歴史書を読む際に苦労はしたけれども、単なる苦労ですんだのも高校までに基本的な知識をあれこれ身につけていたおかげである。
以下次号
2019年12月21日21時。










posted by olomoučan at 07:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言
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