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2019年03月30日

1969年のできごと(三月廿八日)



 1968年に「プラハの春」が、ソ連軍を初めとするワルシャワ条約機構加盟国の軍隊の侵攻によって、押しつぶされた翌年の1969年もチェコ史に於いては激動の一年だったと言うことができる。悪名高き正常化の時代が始まるのはこの年である。

 まず一月には十六日にプラハのバーツラフ広場で、ヤン・パラフがワルシャワ条約機構加盟国の軍隊による占領に抗議して焼身自殺を遂げる。そして翌二月二十五日には、ヤン・ザイーツが同じくバーツラフ広場で抗議の焼身自殺を遂げた。パラフは何度も国土を戦争に蹂躙され、抑圧され諦めることに慣れてしまったチェコ人々に対して、立ち上がる勇気を持つように呼びかけるために焼身自殺という方法を選んだのだという。
 パラフにインスピレーションを与えたものとしては、1960年代の初めに、南ベトナムで抗議のために焼身自殺をはかった仏教僧と、前年の1968年に自国の軍が民主化運動を弾圧するためにチェコに出兵したことに対して抗議して焼身自殺を図ったポーランド人の存在が考えられる。共産党政権下ではなかったことにされていた、チェコスロバキアに軍隊を出した国におけるこの手の抗議行動は、当時の政府によってなかったことにされていたが、冷戦終了後に実は共産党の本家本元のソ連でも抗議行動が行われたことが明らかになるなど、意外なほど多かったことがわかっている。問題はポーランドの事件がチェコで放送されてパラフが知ることができたかどうかなのだけど、どうなんだろう。

 三月には、アイスホッケーの世界選手権がスウェーデンのストックホルムで開催される。それだけなら事件でもなんでもないのだが、この年の世界選手権は本来プラハで行なわれることになっていたものが、チェコスロバキアが占領状態にあったことによって会場が変更されたのである。そんな中、チェコスロバキア代表が出場できたのは奇跡だったのかもしれない。
 そして、事件は、というと大げさだけど、大会の中で起こる。チェコスロバキア代表は、二回対戦したソ連との試合で、占領の恨みを晴らすという意識があったのか、二回とも勝利してしまうのである。当時はまだプラハの春終結後のいわゆる正常化が完全には始まっておらず、国からソ連に負けるようにという指令が出ていなかったことと、普段は政治的には無関心なことの多いスポーツ選手たちがプラハの春の件についてだけは怒りを抑えられずソ連に勝つことに執念を燃やしていたことが、この結果をもたらしたのだろう。その代わりに開催国のスウェーデンには2試合とも負けて、スウェーデンがソ連に2敗した結果、得失点差でソ連が優勝したらしいけど。

 もう一つの事件と呼ぶべきことは、ソ連との試合で、チェコスロバキアの選手たちの一部が、ユニフォームにあしらわれていた国章の二尾の獅子の上の赤い星に黒いテープを貼って、喪章のようにして出場していたらしい。1969年の時点で共産党のシンボルである赤い星に喪章をつけるというのはなかなか痛烈な皮肉である。もちろんそのままにしていたら帰国後処罰をされる可能性が高かったので、言い訳としてユニフォームがびりびりに破れてしまったので、黒テープで補修したんだというのを要していたという。そのために試合後ユニフォームを破ったというのだから念が入っている。
 その言い訳は、残念なが無条件では通らず、帰国後秘密警察に呼び出されて聴取を受けた選手も何人かいたらしい。ただ正常化の始まる直前だったために所属する企業によっては、秘密警察に突き出されなかった選手もいるのだという。この年の代表はソ連に勝っても処罰を受けなかったからまだよかったのだ。ソ連に勝って世界選手権に優勝したチームのメンバーが強制労働所に送られたなんて話もあるしね。

 一方、二件の焼身自殺とアイスホッケー代表のソ連撃破に勇気付けられたチェコスロバキアの人たちは各地で抗議運動を行い、プラハではアイスホッケー代表が勝った日だったか翌日だったかに、ソ連の航空会社アエロフロートの支社への襲撃事件なんてのも起こっている。ただ、この抗議運動の盛り上がりは、プラハの春の最後の残り火だったのである。
 四月になると、プラハの春を主導したドゥプチェクが党の第一書記の座を追われ、その座に座ったのは同じスロバキア出身のフサークだった。かつて民族主義者として糾弾され労に入れらたこともあったフサークは、プラハの春の後の混乱を利用して権力獲得に成功したのである。そして、暗黒のと形容されることの多い「正常化」の時代が始まる。その結果、プラハの春のことは語ることも禁止され多くの出来事は忘れられていくことになる。
2019年3月29日23時。










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