どうやら秋山瑞人が新刊を出すらしいという怪情報が流れている。俄かには信じがたいという思いがある反面、今年の日本にロクでもない天災人災ばかりが起きている事を考えると、なるほどと思いたくなるのも抑えがたい。子供の頃に私が珍しく勉強などしていると、季節に関係なく親に雪の心配をされたのに似ている。毛嫌いしていたはずのブログなどというものを、思わず生まれて初めて立ち上げてしまった私を誰が責められようか。
しかし件のブツは新作というわけではなく、DRAGONBUSTER02であるらしい。
DRAGONBUSTER01というタイトルで二〇〇八年に刊行された前作以来、まったく音沙汰の無かった秋山の久方振りの著作である。本作の刊行以前にも長らく沈黙していたことを考えると、やはり今回の情報も誤りなのではないかと疑って掛かりたくなるのは秋山を信じていないからではなく、むしろ重篤な秋山の信者(患者)であるからこそであろう。
なにしろ、彼には信者には勿論、信者以外にもつとに有名な前科がある。具体的なタイトルは上げるだけ野暮なので触れないが、続刊の発売日までがはっきりと告知されてから早十年、未だに訪れない二〇〇一年の六月を、デストロイの季節を待ち続けている、これだけの為にいつまで経ってもライトノベルを卒業できない半ば不治の病に罹患した御同輩が数多いる事だろう。
前科についてはこれ以上述べると精神的にダメージが蓄積するばかりなのでもう措くが、件のブツについては秋山ばかりを責める気にはなれない。というのも、DRAGONBUSTERは秋山の大学の先輩にあたる古橋秀之のケルベロスという作品と世界観を不完全ながら共有した、龍盤七朝と題したシェアードワールド(という表現が適切かどうかについては判断する材料が足りない。つまり早く続きを出せという催促である)という形の作品だからである。ライトノベル界隈でいえば、古くはソードワールドやロードス島戦記、比較的新しいところでは神曲奏界ポリフォニカやダイノコンチネントなどがあげられるだろう(もっとも、私自身はダイノコンチネント以外は読んだことがないが)。
そしてこの二者が、秋山が先行、古橋が後行で作品を刊行するという体裁である以上、秋山は古橋のターンが終わらない限りは動き様がない。一年に三冊から五冊ほどを刊行するのが標準のペースの早いライトノベル界において、一年に一冊に届くか届かないかの寡作作家同士がこうして手を組んだ時点で我々は覚悟を決めるべきだったのだ。
いや、決めてはいたのだ。それでも、ただ待つことしか出来ない辛さは想像をやすやすと上回って私の心を抉り続けた。誰が悪いのか。強いていえば、面白いものを書くこの二人が悪い。これらが愚にもつかない作品であれば、待ち続けるうちにいつしかその存在は忘却の彼方に消えてゆき、私は平穏な日常を取り戻すことが出来たはずなのだ。
DRAGONBUSTER01からなかなかに焦れさせる期間をおいて、古橋のケルベロスは刊行された。電撃文庫から出版された前者に対し、後者は当時新しく創刊されたレーベルのメディアワークス文庫なるライトノベルと一般小説の境のような、良くいえば両者の橋渡し、悪くいえばなんとも中途半端な文庫から出版され、通常なら目玉のコンセプトであろう二つの繋がりをほとんど強調しなかったばかりか、書店によってはメディアワークス文庫自体がライトノベルとは遠く離れた一般文庫の領域の棚にひっそりと置かれるという始末(むしろこちらが大勢ですらある)であり、ただでさえセールス的に悲しいことになっている古橋に追い打ちをかけるような有り様ですらあった。
以前にもタツモリ家の食卓というSF 系ライトノベルの佳作を「びっくりするほど売れなかった」(某イベントでの当時の担当編集者談)という理由で唐突に打ち切られた過去を持ち、超妹大戦シスマゲドンの著者紹介コメントで「この人もうちょっと売れるといいね」などと出版社サイドのイジメなのか自虐なのか判断に困る名言を放ったという悲しいエピソードを持つ彼の筆も、この仕打ちではさらに錆びつく懸念すら生まれた。
諦める賢さを知らない愚直な秋山信者は、自嘲を籠めて自身たちを「瑞っ子」と呼び、その内の幾らかは古橋の信者をも兼任するという絶望にも似た何かに、いっそマゾヒスティックな快感すら覚えていた。当事者が言うのだからこれは間違いない。しかし、古橋のターンは終了した。次に行動を起こせるのは一人しかいない。
この怪情報がたとえ真実であろうとも信者は信じない。信者なのに信じないとは矛盾以外の何物でもないが、信者だから信じないのだ。実際に書店に並んでも信じないし、購入しても信じない。読み始めても信じないし、作品の面白さに打ち震えてさえ信じない。
読み終えた時、初めて信じることが出来るのかも知れない。それほどまでに信者は信じない。
だが、私は信じたい。何度裏切られようとも、一度信じてしまえばそれまでの苛烈な仕打ちが全て帳消しになるほどの魅力を、秋山の、そして古橋の作品は持っているのだ。そうでなければ、艶冶なる悪女を限界まで煮詰めたようなこの作家の信者など、どうしてやっていられるだろうか。
金庸や古龍のような中国の作家に代表される、いわゆる「武侠モノ」と呼ばれるジャンルのライトノベルはそう多くない。理由は様々あろうが、端的に言えばセールスが望めないというのが一番の理由であることは想像に難くない。DRAGONBUSTERとケルベロスはその武侠モノを臆することなく縦横無尽に描いている傑作である。
どうか、私を信じさせて欲しい。
余談だが、古橋は以前に\(ノウェム)という武侠モノのライトノベルを書き、起承転結の起の部分でしかない一巻を刊行したのみで打ち切りを喰らっている。それでも私の信心は小揺るぎもしないと言えば流石に嘘になるが、最後に信じることさえ出来ればそれでいい。
それでいいのだ。