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子どもが望んだわけではない立場

 ゆとり教育なるものが導入されて久しいが、子ども自身がそれを望んだわけではない。だというのに、それ以前の世代に軽んじられてしまうというのは何とも理不尽である。実際の頭の良し悪しではなく、その年代であるというだけでそんな扱いになってしまう。
 それならば、いっそグウの音も出ないほどの学歴を見せつけてやるべきだろう。いかに軽んじられるとはいえ、有名大学卒業という肩書きがあれば少なくとも学力についての無用な批判は減るはずだ。
 そのためには、まず大切なのは中学受験だ。土台をしっかり固めてこそ、その先にある未来が確かなものになる。
 しかし、独学ではやはり無理があろう。そして、学校の授業では明らかに物足りない。
 そこで必要なのは何であろうか。家庭教師だ。それも、出来るだけ信頼性の高いものが望ましい。
 それを踏まえて、プロの講師が無料で相談に乗ってくれるようなものだあったとしたらどうだろう。
 それがあるのだ。しかも、ここでいうプロとは中学受験専門のプロ講師集団(SAPIX・日能研・四谷大塚の講師)のことである。頼もしいことこの上ない。それぞれに合ったプロの家庭教師をオーダーメイドで派遣してくれるという。
 もう、ゆとりだなんて言わせない。

年始くらい自分を労わってもよかろうと思う

 お正月のお節の申し込み、今ならまだ間に合いそうである。私は豪華だが一人で食い尽くしてやろうと目論んでいる。しかし、目移りしてたまらない。実に贅沢な悩みである。
 私はこれを注文しようかと検討しているのだが、食べ切れるかどうかという一点で困っている。久しく会っていない友人を招いてみる良い機会だろうか。






初めから安いよりも、高いものが安くなる方が嬉しいのは何故なのだろう

 ちょうど今頃は時期柄、店で贈答用の詰め合わせギフト商品が五〇から七〇パーセント引きほどで投げ売られているのを見かけるが、当然持ち帰りの商品に限定されてしまうわけで、その内容は大抵は食品である。それが悪いとは思わないが、興味のない人にとっては恋人のいないクリスマスほどに無用の長物だ。
 しかし、飲食店やマッサージ、果てはホテルなどのサービスに於いても仰天するようなディスカウントの恩恵にあずかる方法がある。
 その秘密はクーポンである。しかも、これらは贈答品と比較して単価が高いので、それだけ割り引きの効果も大きい。これをお得と言わずして何と言おうか。人類はこれ以上の簡潔で的確な表現を未だに発見できていない。
 そのクーポンを提供してくれるところがある。ここは今、会員登録をすると五〇〇〇円相当のポイントを付与するというサービスを展開しており、当然会員登録は無料である。
 しかも、割引率がまた凄い。最大で九〇パーセントである。もはや当たり前のように身の回りに存在するインターネットの普及率でもここまでは及ぶまい。得をする権利は誰の前にも平等に転がっている。それを拾うも拾わないもあなた次第だ。





WIN-WIN

 手間が掛からないというのは良いことである。
 その辺りをこの携帯広告サービスは上手く抑えている。痒いところに手が届くというか、ユーザーの求めるものを的確に提供してくれる。
 サイトの内容を自動で判断して適切な広告を表示し、その種類も目を見張るほどに多彩である。さらにはクリック課金型なので、本当に必要な人に情報が届いた報酬として見返りを受け取れる。不要な情報を押し付けられて不満を抱えた人が出た上で発生した報酬を受け取るのは良心が咎めるが、これならばそのような心配は無用である。
 安心して懐を温めることが出来るのなら、何よりも喜ばしいことであろう。

文字に溺れるその前に

 読書など所詮は退屈な時間の埋め草――私はそう考えているが、それでも案外と退屈な時間というものは少ないものだ。それに対して、読みたい本というものは巷に溢れかえっている。
 供給過多は嬉しいのだが、泣く泣く部屋の隅に積み上げたまま、もう何年も埃を被り続けていたり、さらに積み重なる本の下に埋もれて存在すら遠い記憶の彼方へ消え去ってしまった物もあるかもしれない(それを掘り起こす楽しみもないとは言えないのだが、被虐趣味のネガティブな快楽であり、実に不健全だ)。
 読み手にとっても本にとっても悲しい、そんな状況を打破出来る救世主が、速読という技術だ。単にやっつける本の数をこなすためだけの役に立つだけではなく、必要な情報をピックアップし、不必要な情報を記憶の外に追いやるという、情報の取捨選択にもなる。
 効率を突き詰めれば、速読に行き着くというのはごく自然な帰結である。退屈な時間とはいえ、それを有効に活用できるのであればこれほどの喜びはあるまい。
 速読トレーニングといえば面倒臭いイメージが付きまとうが、これをまさに退屈な時間で身につける方法が存在する。
 音声案内で速読の技術を伝授してくれるものだ。日常の移動中は退屈な時間とはいえ、流石に読書を出来る状況はかなり限定されるが、これならば歩きながらでも可能である。
 もちろん、ブログを読むことにだって使えるのだから、今このブログを眺めているあなたがこれを身につけない道理など何もない。




売れない作家はただの豚……とは限らない

 ブログ立ち上げの日の文章を見るにつけ、長いわウザいわで始末が悪いと感じてしまう。今後ブログが続くかどうかはわからないが、そのための指針となるべき記事を今回くらいは書こうと思う。もっと短い、どうでもいい文章を。前回の文章も他者からすればどうでもいいのだろうが、私にとっては切実なのである。どうか放っておいて欲しい。どうせ誰も読んでいない。そんなものだ。

 前回は秋山瑞人の話のために古橋秀之をダシにしてしまった感があるので、何か古橋の作品について話してみようと思う。
「ある日、爆弾がおちてきて」という短編集が電撃文庫から出ているのだが、連作短編でもアンソロジーでもない純粋な短編集がライトノベルレーベルから出るというのは非常に珍しいことである。これ以前に刊行された同様のものといえば、神坂一の「O・Pハンター」と貴子潤一郎の「眠り姫」くらいしか私は知らない。ひょっとしたら以後には沢山あるのかも知れないが、秋山の頸木から逃れられずにライトノベルに縛り付けられているだけの私には、最近のライトノベル事情はよくわからないというのが本音である。ちなみに、名前を上げた古橋以外の二つの短編集はどちらも佳作である。特に「眠り姫」所収の「さよなら、アーカイブ」からはライトノベルに収めておくには勿体ないほどの作者の力量を感じる。
 話が逸れた。先の古橋の短編集に収められている「出席番号〇番」という短編なのだが、これがグレッグ・イーガンの読者は思わずにんまりとしてしまうような作品なのである。イーガンの「貸金庫」に着想を得たと思しき本作は、それでいてライトノベルの体裁からまったく外れることなる綺麗に纏め上げられている。小器用な作家だと思う反面、器用貧乏という印象も拭い切れないが、SF好きでライトノベルにも抵抗がないのであれば読んで損はない。
 他に収められた作品もテーマはタイプの違う時間移動であり、梶尾真治の「美亜へ贈る真珠」「もう一人のチャーリィ・ゴードン(と、ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」)をネタにしたものもある。しかも面白い辺りがなおさら始末に負えない。これだけ書ける人が何故売れないのか不思議だが、小説に限らずそんなものはいくらでもある。現実は非情であり、だからこそ面白いと悟り切れない自身の器の小ささには我ながら落涙を禁じ得ない。

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 ライトノベルらしからぬSF濃度。

ある日、爆弾がおちてきて (電撃文庫)




「貸金庫」収録。

祈りの海 (ハヤカワ文庫SF)




アルジャーノンに花束を [DVD]




星雲の志

 本読みならば大抵の人間には共感して頂けるのではないかと思うのだが、面白い小説を読んで「私もこんな傑作を書いてみたい」と考えたことがない人はいないだろう。
 しかし、実際に書いてみればそれまでに抱いていた幻想がガラガラと音を立てて崩れてゆくことがほとんどで、これを感じたことがない人もまたいないと思う。頭に浮かんだ文章が指先を通じて出力されるまでのタイムラグが、書くはずだった世界を濁らせるのだ。
 自分の世界を伝えられず、悔しさに涙に暮れたそんな日々も、音声入力という方法で、ぐっと少なくすることが出来る。頭から指先までの距離よりも、口までの距離の方がずっと短い。喋るのならば書くよりも遥かにスムーズに出来る人も多いことだろう。
 音声認識技術というものは近頃ではかなり向上したようで、昔は手で書くよりもさらに頭の中の文章との齟齬が大きく、結局は涙と共に青雲の志を流してしまった人もあろう。その中にはひょっとしたら幻の大作家がいたかも知れない。実に残念な損失である。
 そこまでいかずとも、ブログを書く際に同じような悔しさを抱いている人はいるはずだ。

 そんな日々を過去のものにする方法が、手を伸ばせばすぐ届くところにある。



幸せの青い海

 パドラーや写真家のエッセイにはよく北の大地が登場する。寒さ厳しさの中で己を鍛えられるからかも知れないし、単純に絵になるからかも知れない。その中で釣り上げたサーモンを食べる描写などがあると、読んでいる身としては辛抱堪らなくなる。格好良いし、実に美味そうなのだ。
 実際に北の大地まで足を運ばずとも、今の時代はネットでやすやすと北海道 産地直送の海の幸を手に入れることが出来る。中でも鮭とばなどは想像するだけでも心が躍る。あの写真家が味わっただろうものと同じ味を家に居ながらにして楽しむことが出来るのだ。いい時代になったものである。
 勿論、鮭だけが主役なのではない。カニであろうとイクラであろうと、同様に楽しむ権利は誰しもに存在する。それを行使しないのはまことに勿体ない。人生を幾らかは確実に損している。食卓の彩りを新鮮な海の幸でさらに華やかにする喜びくらいは、今の暗い世相を切り裂く武器としても良いのではないだろうか。

↓実に美味そうである↓






可愛い友

 読書には友が存在すると少し嬉しくなるものだ。とは言っても、実際に友人と肩を並べて本を読むというのはなかなかに奇妙な行為になってしまう。相手が異性であればともかく、同性だとしたら目も当てられまい。
 ここで言う友とは、口寂しさを紛らわせてくれるものである。探偵小説を読む際にはバーボンの満たされたグラスなどを傾けたいものだが、生憎と私のような下戸ではそうもいかない。
 しかし、下戸であることで生まれる友もまたある。アルコールを口に含みながらでは、このようなスイーツはどうにも舌に馴染んではくれない。
 つまり、この点において私は勝ち組である。ノンアルコールドリンクが欠かせない私にとって、紅茶との相性も良い前述のようなスイーツは寂しい夜長の読書を静かに、だが確かに飾り立ててくれる良き友だ。
 ついついのめり込んでしまい、字の洪水に翻弄されすっかり疲労した目でも、このようなかわいい見た目で楽しむことが出来るので、続きが気になって仕方のない小説に立ち向かうための頼もしい味方になりうるスイーツはうってつけである。







衝動的立ち上げ

 どうやら秋山瑞人が新刊を出すらしいという怪情報が流れている。俄かには信じがたいという思いがある反面、今年の日本にロクでもない天災人災ばかりが起きている事を考えると、なるほどと思いたくなるのも抑えがたい。子供の頃に私が珍しく勉強などしていると、季節に関係なく親に雪の心配をされたのに似ている。毛嫌いしていたはずのブログなどというものを、思わず生まれて初めて立ち上げてしまった私を誰が責められようか。
 しかし件のブツは新作というわけではなく、DRAGONBUSTER02であるらしい。  
 DRAGONBUSTER01というタイトルで二〇〇八年に刊行された前作以来、まったく音沙汰の無かった秋山の久方振りの著作である。本作の刊行以前にも長らく沈黙していたことを考えると、やはり今回の情報も誤りなのではないかと疑って掛かりたくなるのは秋山を信じていないからではなく、むしろ重篤な秋山の信者(患者)であるからこそであろう。
 なにしろ、彼には信者には勿論、信者以外にもつとに有名な前科がある。具体的なタイトルは上げるだけ野暮なので触れないが、続刊の発売日までがはっきりと告知されてから早十年、未だに訪れない二〇〇一年の六月を、デストロイの季節を待ち続けている、これだけの為にいつまで経ってもライトノベルを卒業できない半ば不治の病に罹患した御同輩が数多いる事だろう。
 前科についてはこれ以上述べると精神的にダメージが蓄積するばかりなのでもう措くが、件のブツについては秋山ばかりを責める気にはなれない。というのも、DRAGONBUSTERは秋山の大学の先輩にあたる古橋秀之のケルベロスという作品と世界観を不完全ながら共有した、龍盤七朝と題したシェアードワールド(という表現が適切かどうかについては判断する材料が足りない。つまり早く続きを出せという催促である)という形の作品だからである。ライトノベル界隈でいえば、古くはソードワールドやロードス島戦記、比較的新しいところでは神曲奏界ポリフォニカやダイノコンチネントなどがあげられるだろう(もっとも、私自身はダイノコンチネント以外は読んだことがないが)。
 そしてこの二者が、秋山が先行、古橋が後行で作品を刊行するという体裁である以上、秋山は古橋のターンが終わらない限りは動き様がない。一年に三冊から五冊ほどを刊行するのが標準のペースの早いライトノベル界において、一年に一冊に届くか届かないかの寡作作家同士がこうして手を組んだ時点で我々は覚悟を決めるべきだったのだ。
 いや、決めてはいたのだ。それでも、ただ待つことしか出来ない辛さは想像をやすやすと上回って私の心を抉り続けた。誰が悪いのか。強いていえば、面白いものを書くこの二人が悪い。これらが愚にもつかない作品であれば、待ち続けるうちにいつしかその存在は忘却の彼方に消えてゆき、私は平穏な日常を取り戻すことが出来たはずなのだ。
 DRAGONBUSTER01からなかなかに焦れさせる期間をおいて、古橋のケルベロスは刊行された。電撃文庫から出版された前者に対し、後者は当時新しく創刊されたレーベルのメディアワークス文庫なるライトノベルと一般小説の境のような、良くいえば両者の橋渡し、悪くいえばなんとも中途半端な文庫から出版され、通常なら目玉のコンセプトであろう二つの繋がりをほとんど強調しなかったばかりか、書店によってはメディアワークス文庫自体がライトノベルとは遠く離れた一般文庫の領域の棚にひっそりと置かれるという始末(むしろこちらが大勢ですらある)であり、ただでさえセールス的に悲しいことになっている古橋に追い打ちをかけるような有り様ですらあった。
 以前にもタツモリ家の食卓というSF 系ライトノベルの佳作を「びっくりするほど売れなかった」(某イベントでの当時の担当編集者談)という理由で唐突に打ち切られた過去を持ち、超妹大戦シスマゲドンの著者紹介コメントで「この人もうちょっと売れるといいね」などと出版社サイドのイジメなのか自虐なのか判断に困る名言を放ったという悲しいエピソードを持つ彼の筆も、この仕打ちではさらに錆びつく懸念すら生まれた。
 諦める賢さを知らない愚直な秋山信者は、自嘲を籠めて自身たちを「瑞っ子」と呼び、その内の幾らかは古橋の信者をも兼任するという絶望にも似た何かに、いっそマゾヒスティックな快感すら覚えていた。当事者が言うのだからこれは間違いない。しかし、古橋のターンは終了した。次に行動を起こせるのは一人しかいない。
 この怪情報がたとえ真実であろうとも信者は信じない。信者なのに信じないとは矛盾以外の何物でもないが、信者だから信じないのだ。実際に書店に並んでも信じないし、購入しても信じない。読み始めても信じないし、作品の面白さに打ち震えてさえ信じない。
 読み終えた時、初めて信じることが出来るのかも知れない。それほどまでに信者は信じない。
 だが、私は信じたい。何度裏切られようとも、一度信じてしまえばそれまでの苛烈な仕打ちが全て帳消しになるほどの魅力を、秋山の、そして古橋の作品は持っているのだ。そうでなければ、艶冶なる悪女を限界まで煮詰めたようなこの作家の信者など、どうしてやっていられるだろうか。
 金庸や古龍のような中国の作家に代表される、いわゆる「武侠モノ」と呼ばれるジャンルのライトノベルはそう多くない。理由は様々あろうが、端的に言えばセールスが望めないというのが一番の理由であることは想像に難くない。DRAGONBUSTERとケルベロスはその武侠モノを臆することなく縦横無尽に描いている傑作である。
 どうか、私を信じさせて欲しい。

 余談だが、古橋は以前に\(ノウェム)という武侠モノのライトノベルを書き、起承転結の起の部分でしかない一巻を刊行したのみで打ち切りを喰らっている。それでも私の信心は小揺るぎもしないと言えば流石に嘘になるが、最後に信じることさえ出来ればそれでいい。
 それでいいのだ。

龍盤七朝 DRAGONBUSTER〈01〉 (電撃文庫)




龍盤七朝 ケルベロス 壱 (メディアワークス文庫 ふ 1-1)


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