アフィリエイト広告を利用しています
タグ / 上杉

記事
上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍 [2020/01/02 21:17]
今回は戦国最強の武将と言われる上杉謙信の軍旗についてです。 毘・龍の文字。見覚えがある方もおおいのではないでしょうか。毘は文字として分りやすいとして、流れるような字体の龍は「懸かり乱れ龍」と言われています。「毘」はご推察の通り、毘沙門天を表しています。そして「龍」ですが、これはいわゆる龍ではなく、不動明王を表しています。 ■毘沙門天■ 毘沙門天は別名で多聞天。仏法を守る四天王の一人として呼ぶ場合は多聞天、単独で呼ぶ場合は毘沙門天とするのが一般的です。北方..
軍神の亡骸が祀られた御堂 上杉謙信祠堂跡  [2019/12/13 23:44]
今回は上杉謙信の遺骸が納められていた御堂の話です。場所は米沢城本丸跡です。 ■上杉謙信祠堂跡■うえすぎけんしんしどう 上杉謙信の居城といえば越後の春日山城ですね。戦国最強の武将といわれた謙信は、春日山城で生まれ、春日山城で没しました(49歳)。遺骸は城内に祀られましたが、継承者の上杉景勝が豊臣秀吉から国替えを命じられて会津120万石を領することになると、越後の地を離れることになります。やがて関ヶ原の戦いで西軍に組した上杉家が、徳川家康の命で出羽米沢30万石へ削封される..
福島城のなごり [2018/09/04 22:10]
つわものどもが夢の跡 福島県庁を訪ねました。伊達氏や上杉氏ゆかりの城跡です。 <本丸跡の石柱> これだけでもありがたいですね。かつてここに城があった。その目印になります。 ■伊達氏ゆかりの城■ 詳細は不確かながら歴史は古く、かつては大仏城、あるいは杉目城とも呼ばれていました。1413年に、伊達持宗(第11代当主)が鎌倉公方(足利持氏)に反乱を起こし、この地に立て籠ったという記録が残っています(大仏城合戦)。その後の伊達氏との関りだと、伊達晴宗(第15代当..
水堀に積もる雪 米沢城の冬 [2018/02/05 21:49]
ある程度まとまった休暇がとれるのは夏から秋。旅もその時期が多くなります。ただ何度も山形を訪問するうちに「冬を肌で感じないと」いけないような気持ちになり(ちょっとこういう点においてバカです)、無理矢理休みを取って訪問しました。住むことはできませんが、ちょっとだけでもと思い・・・ ■米沢城■本丸跡 <水堀> 雪が降り積もる米沢。きゅっきゅっと雪を踏みしめてかつての本丸付近を探索。ここは水堀です。凍った水面に雪が積もり、遠くの方は境界線もはっきりしません。私の憧れる上..
荘厳の廟所 上杉家歴代の墓 [2017/11/06 22:30]
<上杉家廟所>うえすぎけびょうしょ 荘厳という言葉しか思いつきません。ここは歴代藩主、そして謙信公の眠られている場所です。 樹齢400年を越える杉木立に囲まれた空間。飾り無く整然と立ち並ぶ御堂に圧倒されます。人によりますが、私はここを訪問すると凛とした気持ちになれます。 凛とする ただ忙しく日常に埋もれていると、なかなかそんな気分になれません。静寂につつまれたこの空間。とても好きです。関東の人間なので頻繁には来れませんが、ここ5年くらいは毎年、最低でも..
米沢城のなごり (本丸跡) [2017/11/05 23:08]
<謙信公の像> [米沢城本丸跡] 米沢市街地のほぼ中心に位置する城跡。米沢城は本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式の平城でした。市街化がすすむなか、かつての本丸跡に「城のなごり」を感じることができます。上杉ファンのみならず、多くの人が訪れる人気スポットです。 <米沢城址>松が岬公園 正面入り口です。左右には「毘」と「龍」の軍旗。そのずっと奥に、謙信公が祀られている上杉神社が見えています。 <上杉神社>鳥居 上杉神社の鳥居。七五三の時期です。..
直江兼続ゆかりの石堤 (米沢市) [2017/11/01 22:32]
<直江石堤>なおえせきてい 米沢市に残る石積みの堤防。これは直江兼続ゆかりの石堤です。幅は5〜6m弱といった感じでしょうか。造られた時代を考慮すると、かなり大掛かりな治水事業です。 ■暴れ川に挑む■ 当時暴れ川だった最上川(松川)。城下の整備に奔走する兼続は、この水害を何とかすべく、山(赤崩山)の上から地形や川の流れを確認し、治水策を練ったそうです。その結果、下級武士を従えて自ら指揮をとり、総延長が10kmにもおよぶ石の堤防を築き上げました。石堤は現在も約1.2..
正々堂々の敗者 景勝と兼続 [2017/10/28 22:55]
(長谷堂古戦場の追記です) <上杉景勝と重臣・直江兼続> [撮影:米沢城] 上杉神社 会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となった上杉家。ようするに、時の最大勢力に立ち向かった結果です。ただ、石田三成のように、徳川家康と直接戦った訳ではありませんよね(結果的に)。 前回の投稿で、上杉軍が最上軍と戦った「北の関ヶ原」について触れさせて頂きました。 記事→『長谷堂古戦場』 そこに至る経緯は少な目になっていますので、その補足として、おおざっぱではあ..
長谷堂古戦場 秋の訪問記 [2017/10/21 23:40]
<富神山> 綺麗な円錐と聞いていたので間違いありません。富神山(とがみやま)です。ここでの合戦の際に上杉軍総大将の直江兼続が登った山。敵方である最上義光の居城・山形城を眺めようとしましたが、霞で十日間見ることはできませんでした。これによりあの山は十日見山(とうかみ→とがみ)、山形城は霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれるようになりました。 ■長谷堂古戦場■ 関ヶ原の戦いと同時期に始まった慶長出羽合戦。上杉軍と最上軍の激突です。その最大の戦いの舞台となったのがここ長..
北の関ヶ原・激戦の山城 長谷堂城 [2017/08/14 20:53]
関ヶ原の戦いと同じ日。遠く離れた北の大地でも、西軍と東軍が激しく戦っていました。 ■長谷堂城■ はせどうじょう <菅沢山から見た長谷堂城> 現在の山形市南部に位置する山城です。最上氏の居城・山形城にとって、防衛のための重要な支城の一つでした。歴史は古いものの、その存在が大きくクローズアップされたのは慶長出羽合戦の時。米沢から北上してくる上杉の大軍を、長谷堂城は最前線で受けとめました。 ■慶長出羽合戦■ 北の関ヶ原 慶長5年(1600年)に出羽国で行な..
≪前へ  次へ≫

検索
記事ランキング
[アクセスランキング]
  1. 1. 上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍
  2. 2. 近世小田原城のなごり
  3. 3. 関東の連れ小便・政宗白装束の舞台 (石垣山城)
  4. 4. 刑場近くの橋のなごり 泪橋と思川
  5. 5. 金沢城のなごり
  6. 6. 火の玉不動 大宮宿の水路と刑場のなごり
  7. 7. 足柄城のなごり
  8. 8. 近藤勇ゆかりの地(米沢市)高国寺
  9. 9. 大石内蔵助 終焉の地 細川家下屋敷跡
  10. 10. 大多喜城のなごり
  11. 11. 高岡城のなごり
写真ギャラリー
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
Isukeさんの画像
Isuke
もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
プロフィール
X (Twitter) Twitter-Isuke.JPG Isuke@shirononagori
最新記事

お城巡りランキングに参加中 [参加させて頂いた雑誌]

アクティブライフ・シリーズ009 クルマで行く 山城さんぽ 100【電子書籍】[ 交通タイムス社 ]

[当サイトお勧め本]

小説 上杉鷹山 全一冊 (集英社文庫(日本)) [ 童門 冬二 ]


感想(39件)