文京区春日の徳川慶喜屋敷跡へ向かう途中で、自分の歩いている道がそのままかつての水路であることに気付きました。きっかけは通りに設置された説明板です。
<神田上水説明板>
神田上水?ここが?
神田川を通り越し、やや高い場所を歩いている感覚だったので、水の道が通っていることに一瞬戸惑い、よくよく考えて納得しました。水は低い方へ流れるだけ。人の暮らしを支えるために、台地の端を縫うように水路が築かれたわけですね。これなら高い場所にも生活水がいきわたります。
<金富小学校付近>
この道がそのまま神田上水の流路です。文京区春日を歩いているつもりでしたが、道の南側(画像左手)の住所は水道。ここに上水が通っていたことが地名の由来です。
神田上水は、徳川家康の家臣・大久保藤五郎により築かれました。大久保藤五郎は家康の命で既に小石川上水を完成させていましたが、その後の江戸の人口の増加や、周辺河川の再整備の影響などもあり、小石川上水を改良する形で神田上水を築き上げました。
<説明板拡大>
神田川と別れた上水は小日向台地南端を通って水戸藩邸内(現在の小石川後楽園)に流れ込んでいたようです。更に東へ進んだのちに南下し、掛樋(=水道橋)で神田川を渡って武家地ほか江戸城下の広範囲に水を供給し続けました。重要なインフラだったわですね。
そんな神田上水も、明治34年(1901年)には役割を終えて暗渠化されました。つまり姿を消しました。
暗渠・・・
この見慣れない字は『あんきょ』と読みます。城跡を主テーマにしている当ブログですが、この暗渠にも着目し、『暗渠と城跡』と題して何度か記事を投稿させて頂いております。暗渠、つまり地下に埋設され姿を消した川や堀は、かつて防衛上重要な役割を担っていた。まぁそんな感じの内容です。
神田上水は、天然の川でも城の堀でもありません。ただこの日ふと頭をよぎったのは、そもそも城とはなんなのかということです。城の概念は時代によって変わっています。戦の時だけ籠もる砦のようなものから始まり、戦国時代末期には、小田原城に代表されるように町そのものを堀や土塁で囲む『総構え』というスタイルも確立されています。町はすなわち人の暮らし。同じく総構えの構造になっている江戸城にとって、暮らしの場はその一部。そういう意味では、上水道に限らず、城下の暮らしを支えるためのインフラは全て城の一部、といえなくもない。
ちょっと極端な考え方ですが、そんなことを思いながら、かつての神田上水の経路を通って徳川慶喜屋敷跡へ向かいました。
■訪問:水道通り
(神田上水跡)
[文京区春日]2丁目付近
[文京区水道]2丁目付近
■参考
・Wikipedia:2021/10/21
・現地説明板
(文京区教育委員会)
-------- 関連画像 --------
<徳川慶喜公屋敷跡>
[東京都文京区春日] 2丁目
次の記事で紹介させて頂きます
お城巡りランキング
2021年10月21日
2021年09月18日
暗渠となった堀のなごり(法音寺城跡) 暗渠と城跡28
本来そこにあったものの余韻が漂う。人がそれを感じ取るアンテナはたくさんあるかと思いますが、今回は舗装された道路の表面に感じる城のなごりの話です。訪ねたのは栃木県野木町の法音寺城跡です。
まずは一目瞭然の城のなごりから
<土塁>
土塁跡です。手前側が城内で、土塁の向こう側、つまり外側には堀が設けられていました。
<土塁の向こう側>
ちょっと分かりにくいですが堀跡です。
つづきまして
<法音寺境内の堀跡>
こちらは法音寺の境内(裏手)の竹林に残る堀跡です。
<堀跡>
盛り土したような僅かな起伏と共に堀跡が確認できます。
前回の法音寺城跡に関する投稿で、冒頭の土塁と堀について「いまは道で遮断されていますが、境内の堀と繋がっていたと思われます」とコメントさせて頂きました。現地で位置関係を確認しただけで充分そう思えましたが、『間違いない』という心境に至った目印をご紹介します。
<道路の舗装>
こちらです。ここだけ舗装が違いますね。道路全体とは異なる工事が施された証です。もう少し具体的に言うと、道を横切って水が通り抜けられるよう地下に水の路を設けた証ということになります。いわゆる『暗渠』ですね。
暗渠?
この見慣れない「あんきょ」と読みます。地下に埋設された水路とか川という意味に受け取って下さい。
城の堀がそのまま水路に転用される例はよくある話です。まぁ水路とまでいかないまでも、雨水が溜まらないように、低い所へ水が流れるよう人の手によって微妙な高低差がつけられていることはよくあります。ここも普段は水がありませんが、そんな役割を果たしているのでしょう。
道を通すからといって遮ってしまっては、水は溜まる一方。場合によっては溢れ出してしまいますね。これを避けるために、地表では途切れたかに見える堀と堀の間を、人知れず地下で繋いでいるわけですね。
何気ない道路の舗装工事にも、そんな事情が隠されている。何でそうしたかに気づくと、その場所ならではの固有の事情を知る手掛かりになります。素人の城跡巡りは、難しいことは考えず、感じたまま景色を受け入れるのが一番と思っています。ただ、暗渠というアンテナをちょっと加えるだけで、一味違った気付きになったりします。
ということで
暗渠に気付き、堀跡と堀跡がいまでも繋がっていることを実感したというお話でした。マニアックなお話にお付き合い頂き、ありがとうございました。
<現地>
さすがに土塁は繋げておけませんね
■訪問:法音寺城跡
[栃木県野木町友沼]
まずは一目瞭然の城のなごりから
<土塁>
土塁跡です。手前側が城内で、土塁の向こう側、つまり外側には堀が設けられていました。
<土塁の向こう側>
ちょっと分かりにくいですが堀跡です。
つづきまして
<法音寺境内の堀跡>
こちらは法音寺の境内(裏手)の竹林に残る堀跡です。
<堀跡>
盛り土したような僅かな起伏と共に堀跡が確認できます。
前回の法音寺城跡に関する投稿で、冒頭の土塁と堀について「いまは道で遮断されていますが、境内の堀と繋がっていたと思われます」とコメントさせて頂きました。現地で位置関係を確認しただけで充分そう思えましたが、『間違いない』という心境に至った目印をご紹介します。
<道路の舗装>
こちらです。ここだけ舗装が違いますね。道路全体とは異なる工事が施された証です。もう少し具体的に言うと、道を横切って水が通り抜けられるよう地下に水の路を設けた証ということになります。いわゆる『暗渠』ですね。
暗渠?
この見慣れない「あんきょ」と読みます。地下に埋設された水路とか川という意味に受け取って下さい。
城の堀がそのまま水路に転用される例はよくある話です。まぁ水路とまでいかないまでも、雨水が溜まらないように、低い所へ水が流れるよう人の手によって微妙な高低差がつけられていることはよくあります。ここも普段は水がありませんが、そんな役割を果たしているのでしょう。
道を通すからといって遮ってしまっては、水は溜まる一方。場合によっては溢れ出してしまいますね。これを避けるために、地表では途切れたかに見える堀と堀の間を、人知れず地下で繋いでいるわけですね。
何気ない道路の舗装工事にも、そんな事情が隠されている。何でそうしたかに気づくと、その場所ならではの固有の事情を知る手掛かりになります。素人の城跡巡りは、難しいことは考えず、感じたまま景色を受け入れるのが一番と思っています。ただ、暗渠というアンテナをちょっと加えるだけで、一味違った気付きになったりします。
ということで
暗渠に気付き、堀跡と堀跡がいまでも繋がっていることを実感したというお話でした。マニアックなお話にお付き合い頂き、ありがとうございました。
<現地>
さすがに土塁は繋げておけませんね
■訪問:法音寺城跡
[栃木県野木町友沼]
2020年09月08日
暗渠と城跡27 そこにあったもののなごり
今回は、城跡好きがなぜか暗渠に魅かれる理由(の一つ)をご紹介できればと思い、二つの画像を用意しました。
<護岸の跡>
このコンクリの道はもともと水路でした。道の隅(左手)に残っているのは護岸の跡です。暗渠化工事の際に、構造上の理由から護岸はそのままにして水路が埋められため、こうして跡が残っています。
<見附跡>
川の側面に昔の石垣が残されています。かなり高い位置まで積まれていますね。これは江戸城の城門の跡です。痕跡からして『桝形門』という立派な構造だったと思われます。開発の都合で桝形門の石垣は撤去されましたが、川に面した部分は護岸を兼ねているので、取り壊さなかったわけですね(きっと)。
水路は水の通り道として、城門は城の出入り口として、それぞれ役割を果たしていました。形を失いながら、痕跡だけが残されている。
情緒的に似たものを感じるのは私だけでしようか?
ということで
今回はあまりくどくど説明しません。画像だけ見比べて頂ければと思います。何を感じるかはその人次第。思い浮かべるものが、その人らしさということで良いと思っています。
埋もれている痕跡を見つけて何かを想像してみる。そのきっかけになれば嬉しいです。
お城巡りランキング
-------追 記-------
ほぼ同じ内容で、もうちょっと意見を言わせてもらった投稿があります。良かったら覗いてみて下さい。
街の中で痕跡に気付く
[投稿:2017年12月17日]
『→記事へすすむ』
<護岸の跡>
このコンクリの道はもともと水路でした。道の隅(左手)に残っているのは護岸の跡です。暗渠化工事の際に、構造上の理由から護岸はそのままにして水路が埋められため、こうして跡が残っています。
<見附跡>
川の側面に昔の石垣が残されています。かなり高い位置まで積まれていますね。これは江戸城の城門の跡です。痕跡からして『桝形門』という立派な構造だったと思われます。開発の都合で桝形門の石垣は撤去されましたが、川に面した部分は護岸を兼ねているので、取り壊さなかったわけですね(きっと)。
水路は水の通り道として、城門は城の出入り口として、それぞれ役割を果たしていました。形を失いながら、痕跡だけが残されている。
情緒的に似たものを感じるのは私だけでしようか?
ということで
今回はあまりくどくど説明しません。画像だけ見比べて頂ければと思います。何を感じるかはその人次第。思い浮かべるものが、その人らしさということで良いと思っています。
埋もれている痕跡を見つけて何かを想像してみる。そのきっかけになれば嬉しいです。
お城巡りランキング
-------追 記-------
ほぼ同じ内容で、もうちょっと意見を言わせてもらった投稿があります。良かったら覗いてみて下さい。
街の中で痕跡に気付く
[投稿:2017年12月17日]
『→記事へすすむ』
2020年07月31日
暗渠と城跡26 堀跡を歩く(岩槻)
<堀跡>
城下町ごと堀や土塁で囲む岩槻城の大構え。ここは岩槻城大構えの最南端の堀跡です。場所は富士浅間神社の西側の道です。
前回の投稿と同じ場所では?
はい、同じです
→『記事へすすむ』
前回はお仲間と訪問していたので、探索はここまででした。日を改めて独りで訪問し、もうちょっと奥まで歩いてみました。この日は他も回りたかったので、本当にちょっとだけですが
<富士浅間神社>ふじせんげんじんじゃ
岩槻太田氏ゆかりの神社です。
この付近は岩槻としては比較的高い台地の上です。富士浅間神社は更に高台となっており、城下で最も標高が高いといわれています。
<富士浅間神社と堀>
[出典:岩槻城址公園の説明板]
知楽院の下の富士浅間神社が現在位置。その下をカーブしながら左へ向かう水色が岩槻城大構えの堀です。
左手が堀跡で右手が富士浅間神社
では
前回の続きをここから始めます。そのために来ました。方向で言うと北西に向かうことになります。
右手が堀の内側ということですね。かつては土塁があったのでしょう。ここは岩槻城そのものの堀跡ではなく、岩槻城大構えの堀跡。城から比較的近い場所です。
府内という立派な町名からして、かつて国府が置かれた場所とか?これについては帰宅後に調べましたが、はっきりしたことは分かりませんでした。
さて
てくてく歩き続けましたが、だいたいこんな感じで住宅街を進むだけ。やがて大きな通り(国道16号)に出て、そろそろやめようかと思いましたが、道の向こう側も堀跡がはまだまだ続くようなので、歩道橋を渡ってもうちょっとだけ進むことにしました。
そして
堀跡の進行方向右手、つまり大構えの内側に普通の住宅ではないなにかを見つけました
何かの跡地か?
土が盛ってある
大構えの土塁跡?
ここは城町竹林公園。総じて平坦な敷地内の堀跡側にだけ土が盛ってあるので、土塁のなごりではないかと期待して調べましたが、確証は得られませんでした。
<城町竹林公園>しろまちちくりんこうえん
屋敷跡が公園になった?などとも期待しましたが良くわからず。雰囲気は漂いますが残念です。ただ、見事な竹林にしばし癒されましたので、歩いた甲斐はありました。
ということで
岩槻探索中に堀跡を歩いてみたというだけの内容でした。堀跡はこの先まだまだ直線のまま続きます。そして
<住吉神社>
こちらの岩槻住吉神社さんの敷地に突き当たり、ようやく方向を変えます。
住吉神社まで一気に進むのも良いですね。そこより先は昔の武家地。そんなことをことを感じながら。
ただ、私は先ほどの城町竹林公園から数百メートル北東にある『知楽院』さんを経由したかったので、竹林を眺めたのち、一旦堀跡に別れを告げました。
<次の訪問地>
次の投稿へ続きます
■訪問:
富士浅間神社
[さいたま市岩槻区府内]
城町竹林公園
[さいたま市岩槻区城町]
岩槻住吉神社
[さいたま市岩槻区仲町]
■用語:大構え:
現地で見た表示:大構(『え』はなし)
同じ意味の用語:
総構え(そうがまえ)惣構(そうがまえ)
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城下町ごと堀や土塁で囲む岩槻城の大構え。ここは岩槻城大構えの最南端の堀跡です。場所は富士浅間神社の西側の道です。
前回の投稿と同じ場所では?
はい、同じです
→『記事へすすむ』
前回はお仲間と訪問していたので、探索はここまででした。日を改めて独りで訪問し、もうちょっと奥まで歩いてみました。この日は他も回りたかったので、本当にちょっとだけですが
<富士浅間神社>ふじせんげんじんじゃ
岩槻太田氏ゆかりの神社です。
この付近は岩槻としては比較的高い台地の上です。富士浅間神社は更に高台となっており、城下で最も標高が高いといわれています。
<富士浅間神社と堀>
[出典:岩槻城址公園の説明板]
知楽院の下の富士浅間神社が現在位置。その下をカーブしながら左へ向かう水色が岩槻城大構えの堀です。
左手が堀跡で右手が富士浅間神社
では
前回の続きをここから始めます。そのために来ました。方向で言うと北西に向かうことになります。
右手が堀の内側ということですね。かつては土塁があったのでしょう。ここは岩槻城そのものの堀跡ではなく、岩槻城大構えの堀跡。城から比較的近い場所です。
府内という立派な町名からして、かつて国府が置かれた場所とか?これについては帰宅後に調べましたが、はっきりしたことは分かりませんでした。
さて
てくてく歩き続けましたが、だいたいこんな感じで住宅街を進むだけ。やがて大きな通り(国道16号)に出て、そろそろやめようかと思いましたが、道の向こう側も堀跡がはまだまだ続くようなので、歩道橋を渡ってもうちょっとだけ進むことにしました。
そして
堀跡の進行方向右手、つまり大構えの内側に普通の住宅ではないなにかを見つけました
何かの跡地か?
土が盛ってある
大構えの土塁跡?
ここは城町竹林公園。総じて平坦な敷地内の堀跡側にだけ土が盛ってあるので、土塁のなごりではないかと期待して調べましたが、確証は得られませんでした。
<城町竹林公園>しろまちちくりんこうえん
屋敷跡が公園になった?などとも期待しましたが良くわからず。雰囲気は漂いますが残念です。ただ、見事な竹林にしばし癒されましたので、歩いた甲斐はありました。
ということで
岩槻探索中に堀跡を歩いてみたというだけの内容でした。堀跡はこの先まだまだ直線のまま続きます。そして
<住吉神社>
こちらの岩槻住吉神社さんの敷地に突き当たり、ようやく方向を変えます。
住吉神社まで一気に進むのも良いですね。そこより先は昔の武家地。そんなことをことを感じながら。
ただ、私は先ほどの城町竹林公園から数百メートル北東にある『知楽院』さんを経由したかったので、竹林を眺めたのち、一旦堀跡に別れを告げました。
<次の訪問地>
次の投稿へ続きます
■訪問:
富士浅間神社
[さいたま市岩槻区府内]
城町竹林公園
[さいたま市岩槻区城町]
岩槻住吉神社
[さいたま市岩槻区仲町]
■用語:大構え:
現地で見た表示:大構(『え』はなし)
同じ意味の用語:
総構え(そうがまえ)惣構(そうがまえ)
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タグ:暗渠と城跡
2020年07月28日
暗渠と城跡25 岩槻城大構え最南端の堀跡
つわものどもが夢の跡
街ごと堀と土塁で囲んだ岩槻城総構え。今回はその最南端の堀跡と高台の話です。
■大構え■おおがまえ
城だけでなく、城下町も含めて外周を堀や土塁で囲んだ構造のことを総構え(そうがまえ)、あるいは総曲輪(そうぐるわ)といいます。小田原が有名ですが、ここ岩槻も同じ。岩槻では大構え(おおがまえ)と呼んでいますが、意味は同じです。現地での表示を見ると『え』は不要で『大構』で良いようです。
<岩槻城の縄張り>
岩槻城址公園で撮影しました。城の北側は天然の川として、南側については、城下町を取り囲むように堀が設けられています。これが大構です。
さて
今回のご紹介はその『大構え』の最も南側に位置する堀跡です。上の図だと南側が切れてしまっているので、画像を追加します。
ここが大構えの最南端の堀。堀は既に埋められて存在していませんが、すぐ上(北)の富士浅間神社を目印に、位置を確認することはできます。
<富士浅間神社>ふじせんげんじんじゃ
岩槻太田氏ゆかりの神社です。社殿は1991年に再建されたものです。
説明によれば、当神社は岩槻城主の太田氏が、城下で最も標高の高い当地に冨士山頂から神霊を勧請したことに始まるようです。
そもそもこの付近一帯が台地の上に位置しています。更に高台にある富士浅間神社の境内が、城下最高峰ということですね。
そして
地図にも記されていた通り、富士浅間神社の南側が大構えの堀です
こちらがかつての堀の現在の姿です。右手の斜面が富士浅間神社です。
すっかり埋められていますね。蓋をされた水路だけが、かつて水堀だったなごりをそれとなく留めています。大構の堀の内側は基本的には土塁。この地点においては、富士浅間神社が鎮座する城下最高峰の丘がその役割を担っていたのでしょう。岩槻城大構えの最南端にして、最も高い土の壁が立ちはだかった場所ということですね。
地図で堀がカーブしている地点
その先はしばらく直線だったわけですね
以上
岩槻城大構えの最南端の堀跡でした。岩槻を散策してみたいという人の参考になれば嬉しいです。
■訪問:富士浅間神社
[さいたま市岩槻区府内]
お城巡りランキング
街ごと堀と土塁で囲んだ岩槻城総構え。今回はその最南端の堀跡と高台の話です。
■大構え■おおがまえ
城だけでなく、城下町も含めて外周を堀や土塁で囲んだ構造のことを総構え(そうがまえ)、あるいは総曲輪(そうぐるわ)といいます。小田原が有名ですが、ここ岩槻も同じ。岩槻では大構え(おおがまえ)と呼んでいますが、意味は同じです。現地での表示を見ると『え』は不要で『大構』で良いようです。
<岩槻城の縄張り>
岩槻城址公園で撮影しました。城の北側は天然の川として、南側については、城下町を取り囲むように堀が設けられています。これが大構です。
さて
今回のご紹介はその『大構え』の最も南側に位置する堀跡です。上の図だと南側が切れてしまっているので、画像を追加します。
ここが大構えの最南端の堀。堀は既に埋められて存在していませんが、すぐ上(北)の富士浅間神社を目印に、位置を確認することはできます。
<富士浅間神社>ふじせんげんじんじゃ
岩槻太田氏ゆかりの神社です。社殿は1991年に再建されたものです。
説明によれば、当神社は岩槻城主の太田氏が、城下で最も標高の高い当地に冨士山頂から神霊を勧請したことに始まるようです。
そもそもこの付近一帯が台地の上に位置しています。更に高台にある富士浅間神社の境内が、城下最高峰ということですね。
そして
地図にも記されていた通り、富士浅間神社の南側が大構えの堀です
こちらがかつての堀の現在の姿です。右手の斜面が富士浅間神社です。
すっかり埋められていますね。蓋をされた水路だけが、かつて水堀だったなごりをそれとなく留めています。大構の堀の内側は基本的には土塁。この地点においては、富士浅間神社が鎮座する城下最高峰の丘がその役割を担っていたのでしょう。岩槻城大構えの最南端にして、最も高い土の壁が立ちはだかった場所ということですね。
地図で堀がカーブしている地点
その先はしばらく直線だったわけですね
以上
岩槻城大構えの最南端の堀跡でした。岩槻を散策してみたいという人の参考になれば嬉しいです。
■訪問:富士浅間神社
[さいたま市岩槻区府内]
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2020年07月24日
追記 元荒川の旧流路(暗渠と城跡22岩槻城の天然堀のなごり)
2ヶ月ほど前に、元荒川の旧流路に気づいて川跡を追った記事を投稿しました。
暗渠と城跡22
岩槻城の天然堀のなごり
[投稿:2020年05月31日]
→『記事へすすむ』
-------■概 要■-------
岩槻の龍門寺というお寺を訪問し、その近くで川跡の雰囲気を醸し出す空き地をみかけた。それは岩槻城にとっての天然堀・元荒川のむかしの流路だと分かった。
<川跡>
<龍門寺>
龍門寺[さいたま市岩槻区日の出町]
ざっとそんな内容でした。
-------■追 記■-------
あれから約2ヶ月
コロナの影響で遠出をひかえているせいもあり、家から比較的近い岩槻区にお邪魔する機会が増えました。
久しぶりに訪ねた岩槻城址公園の説明板で、元荒川と龍門寺の位置関係を改めて確認できたので、その画像を貼っておきます。
<説明板>
<元荒川の旧流路と龍門寺>
龍門寺を見つけました。すぐそばを流れる元荒川も。間違いありません。ちょっと付け加えるなら、この位置で川は再びカーブするのですから、龍門寺は少し高い位置にあるということですね。現地では極端な高低差は実感できませんでしたが、お隣の新正寺曲輪と同様、低層の台地上に位置しているようです。
<岩槻区内の元荒川>
まぁ最初からすべて分かっていたら、空き地を見てあんなには燃えなかったことでしょう。かといって、川の蛇行について漠然としたイメージすらなければ、素通りしていたでしょう。
知り尽くしてしまうと面白さもない
学校や職場の試験じゃないんだから、趣味は60点くらいの感覚でよしとしますかね。人にもよりますが、私はその程度の方がずっと楽しめるような気がします。
以上
過去記事の追記でした
お城巡りランキング
暗渠と城跡22
岩槻城の天然堀のなごり
[投稿:2020年05月31日]
→『記事へすすむ』
-------■概 要■-------
岩槻の龍門寺というお寺を訪問し、その近くで川跡の雰囲気を醸し出す空き地をみかけた。それは岩槻城にとっての天然堀・元荒川のむかしの流路だと分かった。
<川跡>
<龍門寺>
龍門寺[さいたま市岩槻区日の出町]
ざっとそんな内容でした。
-------■追 記■-------
あれから約2ヶ月
コロナの影響で遠出をひかえているせいもあり、家から比較的近い岩槻区にお邪魔する機会が増えました。
久しぶりに訪ねた岩槻城址公園の説明板で、元荒川と龍門寺の位置関係を改めて確認できたので、その画像を貼っておきます。
<説明板>
<元荒川の旧流路と龍門寺>
龍門寺を見つけました。すぐそばを流れる元荒川も。間違いありません。ちょっと付け加えるなら、この位置で川は再びカーブするのですから、龍門寺は少し高い位置にあるということですね。現地では極端な高低差は実感できませんでしたが、お隣の新正寺曲輪と同様、低層の台地上に位置しているようです。
<岩槻区内の元荒川>
まぁ最初からすべて分かっていたら、空き地を見てあんなには燃えなかったことでしょう。かといって、川の蛇行について漠然としたイメージすらなければ、素通りしていたでしょう。
知り尽くしてしまうと面白さもない
学校や職場の試験じゃないんだから、趣味は60点くらいの感覚でよしとしますかね。人にもよりますが、私はその程度の方がずっと楽しめるような気がします。
以上
過去記事の追記でした
お城巡りランキング
タグ:暗渠と城跡
2020年07月21日
世田谷区に2つの城向橋(暗渠と城跡24) 橋跡に漂う城のなごり
今回は橋跡というだけで川のなごりと城のなごりが漂う場所の話です。
まずは
<城向橋>しろむかいばし
世田谷区豪徳寺の烏山川緑道です。緑道沿いには、暗渠化される前の川のなごりとして、複数の橋の名前が残っています。この橋跡もその一つです。
次に
<城向橋>しろむかいばし
こちらは世田谷区自由が丘の九品仏川緑道です。道と交差する地点に「城向橋」の標識があります。この道が川を渡るための橋が架けられていたのでしょうね。これも川のなごりです。
城向橋とは、城の向かいの橋、あるいは城へ向かう途中の橋というのが名の由来でしょうか。いずれにせよ、かつてそこに城があったことに由来する名前ですね。そして川があるが故の橋。橋が架かっていた川は暗渠化され姿は見えませんが、かつては水が流れ、城の天然堀の役割を担っていたのでしょう。いわば城にとっての『地の利』ですね。
■烏山川と世田谷城■
<烏山川>からすやまがわ
緑道となった目黒川の支流
<世田谷城跡>
城跡はいまは豪徳寺
■九品仏川と奥沢城■
<九品仏川>くほんぶつがわ
緑道となった呑川水系の支流
<奥沢城跡>
城跡はいまは九品仏浄真寺
世田谷城は吉良氏の居城。奥沢城はその支城です。かつて栄華を誇った名門吉良氏の城は、ともに寺院へと姿を変えました。そして、それぞれの城を掠めるように流れていた川は、ともに緑道に姿を変えました。
城や川と同じく姿を消した橋の名が、それらのなごりを今に留めています。
■訪問:城向橋
[世田谷区豪徳寺]
[世田谷区自由が丘]
------ブログ過去記事------
当ブログの過去記事のご紹介です。
暗渠(あんきょ)とは地下に埋設された川のこと。暗渠に気付くアンテナがあると、街の中の城跡巡りが一層楽しくなる。天然の堀だった川のなごりを感じることは、城のなごりを感じるのと同じ。
だいたいそういう内容です。
ブログを始めたばかりの頃の記事でお恥ずかしいですが、良かったら覗いてみて下さい。
暗渠と城跡 1 奥沢城のなごり
→『記事へすすむ』
暗渠と城跡 2 世田谷城のなごり
→『記事へすすむ』
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まずは
<城向橋>しろむかいばし
世田谷区豪徳寺の烏山川緑道です。緑道沿いには、暗渠化される前の川のなごりとして、複数の橋の名前が残っています。この橋跡もその一つです。
次に
<城向橋>しろむかいばし
こちらは世田谷区自由が丘の九品仏川緑道です。道と交差する地点に「城向橋」の標識があります。この道が川を渡るための橋が架けられていたのでしょうね。これも川のなごりです。
城向橋とは、城の向かいの橋、あるいは城へ向かう途中の橋というのが名の由来でしょうか。いずれにせよ、かつてそこに城があったことに由来する名前ですね。そして川があるが故の橋。橋が架かっていた川は暗渠化され姿は見えませんが、かつては水が流れ、城の天然堀の役割を担っていたのでしょう。いわば城にとっての『地の利』ですね。
■烏山川と世田谷城■
<烏山川>からすやまがわ
緑道となった目黒川の支流
<世田谷城跡>
城跡はいまは豪徳寺
■九品仏川と奥沢城■
<九品仏川>くほんぶつがわ
緑道となった呑川水系の支流
<奥沢城跡>
城跡はいまは九品仏浄真寺
世田谷城は吉良氏の居城。奥沢城はその支城です。かつて栄華を誇った名門吉良氏の城は、ともに寺院へと姿を変えました。そして、それぞれの城を掠めるように流れていた川は、ともに緑道に姿を変えました。
城や川と同じく姿を消した橋の名が、それらのなごりを今に留めています。
■訪問:城向橋
[世田谷区豪徳寺]
[世田谷区自由が丘]
------ブログ過去記事------
当ブログの過去記事のご紹介です。
暗渠(あんきょ)とは地下に埋設された川のこと。暗渠に気付くアンテナがあると、街の中の城跡巡りが一層楽しくなる。天然の堀だった川のなごりを感じることは、城のなごりを感じるのと同じ。
だいたいそういう内容です。
ブログを始めたばかりの頃の記事でお恥ずかしいですが、良かったら覗いてみて下さい。
暗渠と城跡 1 奥沢城のなごり
→『記事へすすむ』
暗渠と城跡 2 世田谷城のなごり
→『記事へすすむ』
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2020年07月19日
暗渠と城跡23 渋谷川と渋谷城
都内にもあるつわものどもが夢の跡。今回の舞台は渋谷です。こんな若者の街に城跡が?と思われる方が大半かと思います。でも実際に存在していました。遠い昔、中世のことですが。
<渋谷城跡>
渋谷3丁目の金王八幡宮の一帯が渋谷城跡と推定されています。当ブログで二度目の投稿となりますが、今回はもうちょっと渋谷の地形を加味してご案内できればと思っています。
■現地訪問■
最寄り駅はJR渋谷駅。そもそもこの駅自体が『渋谷』という名が示す通り谷にあります。谷には川が流れ、複数の突き出た台地に囲まれている状態です。その台地の一つに渋谷城が築かれました。
<歩道橋から撮影>
渋谷駅付近から六本木りを撮影。高低差があることは伝わると思います。コンクリの街なので『台地』を実感しにくいですが、渋谷駅周辺には道玄坂や宮益坂といった有名な坂が多いですよね。それらは全て谷から台地へ登る道なのです。画像の坂ですが、登りきる手前に鎮座する金王八幡宮付近が、かつての城跡の中心部分と言われています。台地の高低差、そして天然堀の役割を果たした川が、渋谷城の『地の利』ということになります。
渋谷で川?
はい。渋谷川という川が谷を流れています。多くの人が渋谷を訪れますが、この川を見かける人は少ないかもしれません。理由は、かなりの部分が地下に埋設されているからです。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。これでは目にするのは無理。ただし、一部のエリアを除いてです。
<稲荷橋>
橋があるのに川の姿がありませんね。ただ、この地下はいまでも現役の川なのです。
<現在位置>
稲荷橋付近に川はありませんね。でもちょっと南側(左下)から川が始まっています。
<暗渠の出口>
暗渠の出口です。地図の上ではここから渋谷川が始まります。こういう状態(普通に見えている状態)を、暗渠に対して開渠(かいきょ)といいます。ここから先の渋谷川はいまでも開渠なのです。
<渋谷川>
コンクリで固められ、まぁちょっと窮屈な状態ですが、間違いなく川です。しかも昨日今日の川ではなく、古くからの水の流れです。現在の新宿御苑付近を水源とし、多くの支流の水を集める川でした。開発の都合で多少の流路変更もありましたが、渋谷の谷底であることに変わりありません。また、かつての支流はその大半が下水道として暗渠化され、よほどの大雨以外は水が渋谷川に流れ込むこともなくなりました(下水は地下で別のルートに流されるようになっています)。よって水量も減りましたが、本流そのものの流れはずっと続いているのです。
だいぶ姿は変わっても、かつての城にとっての天然堀、あるいは物資運搬の手段のなごりとして受けとめて良いと思います。
さて『地の利』を確認できたところで
具体的な城跡へ
<金王八幡宮>
ここが城跡の一部とされる場所です。渋谷駅から500mくらいでしょうか。渋谷城そのものはもっと広範囲だったと考えられています。渋谷駅からここへ来るまでに、既にかつての城跡を歩いていたのかもしれませんね。もちろん石垣も天守もありません。中世のお話ですから、土塁や堀で区画を囲った館のようなものをイメージしたもらった方が良いかもしれません。
渋谷城そのものの築城年代は分かっておらず、諸々のことが推定であり、諸説あるようです。ただ、渋谷氏の先祖にあたる河崎基家が、源義家よりこの地を与えられたというのはどの説にも共通しています。この河崎基家は桓武平氏・秩父氏の一族で(秩父基家)、源義家が奥州・安倍一族と戦った際に従軍し、功績を上げたことで河崎荘(神奈川県川崎市)の所領を与えられ、河崎氏を名乗りました。
秩父平氏は支流が多く、すべて把握できませんが、武蔵国各地で頭角を現した武士団だと畠山氏や稲毛氏、あと豊島氏などが思い出されます(他にも多数)。河崎氏も祖を辿れば同じということですね。
この神社は河崎基家により建立され、その子である渋谷重家がこの地に館を築いたのが渋谷城の始まりと考えられています。河崎基家は河崎荘のみならず、広範囲に所領を与えられ、現在の渋谷区も含まれていたと受け止めて良いのですかね?一方で、同じく河崎基家の子孫で、神奈川(相模国)の渋谷荘を治めて渋谷氏を名乗っていた一族が、ここ(武蔵国)に移り住んだという話もあります。ちょっと順序というか、経緯がはっきりしませんが、とにかく河崎基家を祖とする渋谷一族がここに城を構えたことだけは事実のようです。
ちなみに、金王八幡宮の金王は、渋谷重家の子である渋谷常光に由来します。常光はこの神社に祈願し、金剛夜叉明王の化身となったことにより金王丸と称したとされています。金王丸は源義朝(頼朝の父ですね)に従い功績をあげました。そして、金王丸の名を後世に残すべく、神社は金王八幡宮とされたと伝わります。
史実と言い伝えがうまく分けられず恐縮です。渋谷城は源氏に従った渋谷氏の居城から始まると受け止めて下さい。
<入口付近の説明板>
説明文の一部を使わせて頂きました。
せっかくですので金王八幡宮を簡単に
<神門(赤門)>
<狛犬>
<神楽殿>
<社殿>
江戸時代には将軍家の信仰を得て、家光の乳母である春日局と守役である青山伯耆守忠俊により社殿が造営されました。家光の将軍決定のお礼ということですね。渋谷区指定有形文化財です。
<玉造稲荷社>たまつくりいなりしゃ
詳細省略で恐縮ですが、境内はこんな感じです。
<説明板>
こちらの説明板には、城に関する記載がありました。後半の一部をそのまま抜粋させて頂きます。
『このあたり一帯の高台には、渋谷氏の居館があったと伝わり、帯にだと、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、城館を囲んでいた』とのこと。低層の台地ながら谷には水が集まり、天然の要害だったのでしょう。付近から湧き水があったことにも言及されています。
説明の最後には、1524年に城館は『北条氏の一軍に焼き払われてしまった』とあります。諸説ありますが、今回はこれを城の最後と思うことにします。北条氏綱と扇谷上杉朝興が高輪で激突した戦いがありました(高輪原の戦い)。北条氏綱が上杉氏を圧倒して終わるこの戦いのなかで、北条氏の別動隊が渋谷城にも襲い掛かったということですね。北条軍は渋谷城の東の鎌倉道を通って江戸へ攻め進んだようです。
<砦の石>
これも城のなごりということでしょうか。中世の城で石垣は実感が湧かないので、参考程度に受け止めておきます。
地形を見に来たようなものです。外も見て回りました。
かつては付近に湧き水も出て、小川水も豊かな地だった模様です。
ああいうのは台地を削った堀切のなごりでしょうか?確証はなく、ほぼ想像で楽しみました
堀切跡?かもしれない道を挟んだお隣は稲荷神社です。こちらも渋谷城の一部だったのでしょう
<豊栄稲荷神社>とよさかいなりじんじゃ
神秘的な参道。鳥居を前にすると心が凛とします。
<社殿>
コンパクトにまとまったこの美しい神社は、実は渋谷氏ゆかりの神社です。渋谷高重によって創建されたと田中稲荷神社と、別の場所(道玄坂)にあった豊澤稲荷神社が昭和になって合祀され、現在の社殿が建立されました。
田中稲荷神社はもともと渋谷駅近くに鎮座していたとのこと。渋谷駅付近、つまり地形で説明すると谷底ですね。渋谷川が渋谷城の堀として利用されたため『堀の外稲荷』と称されたという話が伝わっています。こういった話にも、当時の城、そして川が城に果たした役割を感じることができます。
<傾斜>
豊栄稲荷神社から低い場所へと続く道。どうせなら来た時とは違う道で戻りますかね
明治通りに出ました。通りの向こうに橋らしき姿が見えています。
また会いましたね。渋谷川です。現地説明では城の『西には渋谷川がながれ』とありましたが、西側は既に暗渠化されて姿は見えません。ただ渋谷川は駅付近で緩やかにカーブし、城跡の南側に回り込んでいます。こちらはまだ暗渠化されておらず、水面を見ることができます。
暗渠を渡って城跡がある東へ向かい、帰りは高台から南の低地へ降りて開渠に出た。非常に分かり易い結末で、この日の探索は終了しました。
<つわものどもが夢の跡>
地形に納得し、渋谷川とも出会えました。城跡の一部が神社であるが故に、都市化から外されていることにも助けられ、城のなごりを感じることができました。決定的な遺構はありませんが満足な訪問でした。
-------■渋谷城■-------
別 名:金王丸城
築城年: 不明(平安末期)
築城者:渋谷重家
城 主:渋谷氏
廃城年:不明(1524年?)
現 状 : 金王八幡宮
[東京都渋谷区渋谷]
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<渋谷城跡>
渋谷3丁目の金王八幡宮の一帯が渋谷城跡と推定されています。当ブログで二度目の投稿となりますが、今回はもうちょっと渋谷の地形を加味してご案内できればと思っています。
■現地訪問■
最寄り駅はJR渋谷駅。そもそもこの駅自体が『渋谷』という名が示す通り谷にあります。谷には川が流れ、複数の突き出た台地に囲まれている状態です。その台地の一つに渋谷城が築かれました。
<歩道橋から撮影>
渋谷駅付近から六本木りを撮影。高低差があることは伝わると思います。コンクリの街なので『台地』を実感しにくいですが、渋谷駅周辺には道玄坂や宮益坂といった有名な坂が多いですよね。それらは全て谷から台地へ登る道なのです。画像の坂ですが、登りきる手前に鎮座する金王八幡宮付近が、かつての城跡の中心部分と言われています。台地の高低差、そして天然堀の役割を果たした川が、渋谷城の『地の利』ということになります。
渋谷で川?
はい。渋谷川という川が谷を流れています。多くの人が渋谷を訪れますが、この川を見かける人は少ないかもしれません。理由は、かなりの部分が地下に埋設されているからです。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。これでは目にするのは無理。ただし、一部のエリアを除いてです。
<稲荷橋>
橋があるのに川の姿がありませんね。ただ、この地下はいまでも現役の川なのです。
<現在位置>
稲荷橋付近に川はありませんね。でもちょっと南側(左下)から川が始まっています。
<暗渠の出口>
暗渠の出口です。地図の上ではここから渋谷川が始まります。こういう状態(普通に見えている状態)を、暗渠に対して開渠(かいきょ)といいます。ここから先の渋谷川はいまでも開渠なのです。
<渋谷川>
コンクリで固められ、まぁちょっと窮屈な状態ですが、間違いなく川です。しかも昨日今日の川ではなく、古くからの水の流れです。現在の新宿御苑付近を水源とし、多くの支流の水を集める川でした。開発の都合で多少の流路変更もありましたが、渋谷の谷底であることに変わりありません。また、かつての支流はその大半が下水道として暗渠化され、よほどの大雨以外は水が渋谷川に流れ込むこともなくなりました(下水は地下で別のルートに流されるようになっています)。よって水量も減りましたが、本流そのものの流れはずっと続いているのです。
だいぶ姿は変わっても、かつての城にとっての天然堀、あるいは物資運搬の手段のなごりとして受けとめて良いと思います。
さて『地の利』を確認できたところで
具体的な城跡へ
<金王八幡宮>
ここが城跡の一部とされる場所です。渋谷駅から500mくらいでしょうか。渋谷城そのものはもっと広範囲だったと考えられています。渋谷駅からここへ来るまでに、既にかつての城跡を歩いていたのかもしれませんね。もちろん石垣も天守もありません。中世のお話ですから、土塁や堀で区画を囲った館のようなものをイメージしたもらった方が良いかもしれません。
渋谷城そのものの築城年代は分かっておらず、諸々のことが推定であり、諸説あるようです。ただ、渋谷氏の先祖にあたる河崎基家が、源義家よりこの地を与えられたというのはどの説にも共通しています。この河崎基家は桓武平氏・秩父氏の一族で(秩父基家)、源義家が奥州・安倍一族と戦った際に従軍し、功績を上げたことで河崎荘(神奈川県川崎市)の所領を与えられ、河崎氏を名乗りました。
秩父平氏は支流が多く、すべて把握できませんが、武蔵国各地で頭角を現した武士団だと畠山氏や稲毛氏、あと豊島氏などが思い出されます(他にも多数)。河崎氏も祖を辿れば同じということですね。
この神社は河崎基家により建立され、その子である渋谷重家がこの地に館を築いたのが渋谷城の始まりと考えられています。河崎基家は河崎荘のみならず、広範囲に所領を与えられ、現在の渋谷区も含まれていたと受け止めて良いのですかね?一方で、同じく河崎基家の子孫で、神奈川(相模国)の渋谷荘を治めて渋谷氏を名乗っていた一族が、ここ(武蔵国)に移り住んだという話もあります。ちょっと順序というか、経緯がはっきりしませんが、とにかく河崎基家を祖とする渋谷一族がここに城を構えたことだけは事実のようです。
ちなみに、金王八幡宮の金王は、渋谷重家の子である渋谷常光に由来します。常光はこの神社に祈願し、金剛夜叉明王の化身となったことにより金王丸と称したとされています。金王丸は源義朝(頼朝の父ですね)に従い功績をあげました。そして、金王丸の名を後世に残すべく、神社は金王八幡宮とされたと伝わります。
史実と言い伝えがうまく分けられず恐縮です。渋谷城は源氏に従った渋谷氏の居城から始まると受け止めて下さい。
<入口付近の説明板>
説明文の一部を使わせて頂きました。
せっかくですので金王八幡宮を簡単に
<神門(赤門)>
<狛犬>
<神楽殿>
<社殿>
江戸時代には将軍家の信仰を得て、家光の乳母である春日局と守役である青山伯耆守忠俊により社殿が造営されました。家光の将軍決定のお礼ということですね。渋谷区指定有形文化財です。
<玉造稲荷社>たまつくりいなりしゃ
詳細省略で恐縮ですが、境内はこんな感じです。
<説明板>
こちらの説明板には、城に関する記載がありました。後半の一部をそのまま抜粋させて頂きます。
『このあたり一帯の高台には、渋谷氏の居館があったと伝わり、帯にだと、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、城館を囲んでいた』とのこと。低層の台地ながら谷には水が集まり、天然の要害だったのでしょう。付近から湧き水があったことにも言及されています。
説明の最後には、1524年に城館は『北条氏の一軍に焼き払われてしまった』とあります。諸説ありますが、今回はこれを城の最後と思うことにします。北条氏綱と扇谷上杉朝興が高輪で激突した戦いがありました(高輪原の戦い)。北条氏綱が上杉氏を圧倒して終わるこの戦いのなかで、北条氏の別動隊が渋谷城にも襲い掛かったということですね。北条軍は渋谷城の東の鎌倉道を通って江戸へ攻め進んだようです。
<砦の石>
これも城のなごりということでしょうか。中世の城で石垣は実感が湧かないので、参考程度に受け止めておきます。
地形を見に来たようなものです。外も見て回りました。
かつては付近に湧き水も出て、小川水も豊かな地だった模様です。
ああいうのは台地を削った堀切のなごりでしょうか?確証はなく、ほぼ想像で楽しみました
堀切跡?かもしれない道を挟んだお隣は稲荷神社です。こちらも渋谷城の一部だったのでしょう
<豊栄稲荷神社>とよさかいなりじんじゃ
神秘的な参道。鳥居を前にすると心が凛とします。
<社殿>
コンパクトにまとまったこの美しい神社は、実は渋谷氏ゆかりの神社です。渋谷高重によって創建されたと田中稲荷神社と、別の場所(道玄坂)にあった豊澤稲荷神社が昭和になって合祀され、現在の社殿が建立されました。
田中稲荷神社はもともと渋谷駅近くに鎮座していたとのこと。渋谷駅付近、つまり地形で説明すると谷底ですね。渋谷川が渋谷城の堀として利用されたため『堀の外稲荷』と称されたという話が伝わっています。こういった話にも、当時の城、そして川が城に果たした役割を感じることができます。
<傾斜>
豊栄稲荷神社から低い場所へと続く道。どうせなら来た時とは違う道で戻りますかね
明治通りに出ました。通りの向こうに橋らしき姿が見えています。
また会いましたね。渋谷川です。現地説明では城の『西には渋谷川がながれ』とありましたが、西側は既に暗渠化されて姿は見えません。ただ渋谷川は駅付近で緩やかにカーブし、城跡の南側に回り込んでいます。こちらはまだ暗渠化されておらず、水面を見ることができます。
暗渠を渡って城跡がある東へ向かい、帰りは高台から南の低地へ降りて開渠に出た。非常に分かり易い結末で、この日の探索は終了しました。
<つわものどもが夢の跡>
地形に納得し、渋谷川とも出会えました。城跡の一部が神社であるが故に、都市化から外されていることにも助けられ、城のなごりを感じることができました。決定的な遺構はありませんが満足な訪問でした。
-------■渋谷城■-------
別 名:金王丸城
築城年: 不明(平安末期)
築城者:渋谷重家
城 主:渋谷氏
廃城年:不明(1524年?)
現 状 : 金王八幡宮
[東京都渋谷区渋谷]
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