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2018年01月05日

三十間堀のなごり 舟入堀の痕跡 

街の中で痕跡に気付く・・・
今回は新橋駅近くのとある痕跡をご紹介します。

■三十間堀■さんじっけんほり

<三十間堀の痕跡>
sirononagori30ken (9).JPG
[中央区銀座8-13]
住所は銀座ですが8丁目なので、新橋駅から5分程度の場所です。ちょっと目立たない場所ですが、かつて堀があったことを今に伝えています。堀の名は三十間堀

<礎石>
sirononagori30ken (8).JPG
三十間堀で実際に使われていた石です。かつての護岸より発掘されたものです。

<説明板>
sirononagori30ken (4).JPG
三十間堀は江戸の町に造られた堀川です。運河と思ってもらった方がイメージしやすいですかね。名前の由来は堀の幅。三十間は54mなので相当幅広かったことになります。慶長17年(1612年)、幕府の命を受けた西国大名により京橋川から汐留川にいたる区間が開削されました。場所は現在の中央区。中央通りと昭和通りの間を流れていました。

まぁ場所をもっと大まかに言うと、新橋駅から銀座方面ということになります。中央通りと昭和通りの間には沢山のビルや路地がありますが、それら全てがかつての堀跡にあるということですね。この石碑の場所ですが、

<説明板の場所>
sirononagori30kenh spot (2).JPG
新橋駅の東側。銀座8丁目の御門通り沿い。赤い線を入れさせてもらいましたが、こんな景色を進んで行くと右手に現れます。首都高速が横を走っていますが、その新橋出口付近になります。

<高速出口>
sirononagori30kenh spot (3).JPG
この裏側です。


■水の都・江戸■

江戸城の城下町は水の都。たくさんの運河が縦横に張りめぐらされていました。この水上輸送のネットワークが、江戸の繁栄に貢献していたことは言うまでもありませんね。舟入堀として整備されたここ三十間堀川も、そんな巨大プロジェクトの一部だったわけです。

<三原通り>
sirononagori30ken (6).JPG
かつて三原橋があった方面へ続く道。ご紹介した説明板のすぐそばから始まります。

説明板から抜粋→『三十間堀には真福寺橋、豊蔵橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、出雲橋等多くの橋が架けられていました。』

三原橋は三十間堀に架かっていた橋の一つ。ではその橋を目指して、かつての堀跡、つまりこの通りを歩いてみますかね。

<GINZA SIXの裏>
sirononagori30ken (2).JPG
ここは中央通りと昭和通りの間にいくつかある通りの一つ。つまり、私はかつての堀川の中を進んでいることになりますね。しばらく行くと、今をときめく商業施設「銀座シックス」に到着。ただし、その裏側(左手が銀座シックス)です。正面、つまり中央通り側は混んでますが、こちらは歩きやすい。

<三原橋付近>
sirononagori30ken Mihara.JPG
更に進んで行くと大きな通り(晴海通り)に出ます。そして手前が工事中。ベールに包まれてますが、そこだけちょっと道路が盛り上がってますね。橋のあった場所です。堀は埋められ、橋の本来の意味は失われましたが、その橋の下の空間を利用して地下商店街が造られました。といっても1952年の話。一時期は賑わったらしいのですが、建築上(耐震性)の問題もあり、つい最近、2014年4月に閉鎖されました。まぁその三原橋地下街の歴史も、いま工事中という事実も、かつてここにあった堀のなごり。三十間堀の余韻ですね。

さてさて、また新橋方面へ戻ります。どうせなら違う道をと彷徨っていたらこんな地下道を通ることに。

<地下道>
sirononagori30ken g6.JPG
彼方にG SIXの文字。銀座シックスにつながる地下道です。なんだか神秘的な空間。さきほどまでは「堀跡の上」を歩いていたわけですが、今度は堀の底くらいの位置でしょうか。三十間堀を意識して探索しているせいか、感慨深いものがあります。

かつての堀川。ご覧のように、その姿を見ることはもうできません。埋められたのは戦後まもなく。東京大空襲後の瓦礫処理のためです。瓦礫は片付き、土地は有効利用される。物流も水運から陸運へ。そして今ではこのように立派な街並。これで良かった、のでしょうね・・・


水の都
美しい響きですね。この石碑はそのなごり。失われた水の都のなごりです。
sirononagori30ken (7).JPG
慌ただしい街中でこういう場所と出会うと、何となくほっとします。新橋駅の東側。似たような感覚をお持ちの方が、何かのついでにちょっと立ち寄ってくれたら嬉しいです。


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タグ:堀川
posted by Isuke at 06:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 川跡・暗渠

2018年01月04日

暗渠と城跡14 岩槻城総構の暗渠

つわものどもが夢の跡
年始の休みを利用して、城のなごりを求めて岩槻を訪問しました。

<城のなごり>
shirononagori182iwatsuki (1).JPG
[さいたま市岩槻区]

これ道路だろ!

はい。そうとも言います。しかしただの道路ではありません。ここはかつての堀の跡。名城「岩槻城」のなごりです。

城跡は岩槻城址公園じゃないの?

はい。ここは本丸などいわゆる城の中枢があった城址公園からは離れた場所。岩槻城総構えのなごりなんです。

ソウガマエ・・・?

ということで、以下はいつも通りの説明です。

■総構え■そうがまえ
簡単に言えば、城そのものだけでなく、城下町全体を堀や土塁、石垣で囲む構造のことを言います。総曲輪(そうぐるわ)とも言います。小田原北条氏による小田原城総構えが有名ですね。約9kmにも及ぶ堀で囲んでいたそうです。秀吉に従って小田原征伐に参陣していた徳川家康も、後の江戸の町造りの参考としたそうです。

■岩槻城の総構え■
埼玉県が誇る名城・岩槻城(わたくし埼玉県民です)。やはり総構えでした。小田原城ほど世間に知られていませんが、堀や土塁で囲んだ長さはほぼ同じスケールです(約8km)。凄いことです。岩槻城そのものの歴史は長いですが、総構えにしたのは戦国末期。北条氏房(太田氏房=小田原北条氏3代当主・氏政の子で、太田氏の家督を継ぎました)によって構築されました。ちょうど秀吉と小田原北条氏の関係が悪化していた時期ですね。

都市開発によってその遺構はほぼ消えてなくなりましたが、街を探索すると、そのなごりは残されています。

<土塁>
shirononagori182iwatsuki (10).JPG
愛宕神社の土塁です。

<愛宕神社>
shirononagori182iwatsuki (11).JPG
簡単に言うと「土塁の上に神社」がある。神社がある故に、土塁は壊せなかった。まぁそういうことですね。

<土塁の高さ>
shirononagori182iwatsuki (13).JPG
ちょっと失礼して上から撮影(ちゃんと手を合わせました。正月ですし)。階段があるからいいですが、結構な高さです。


<土塁の別角度>
shirononagori182iwatsuki (9).JPG
神社の裏手です。土塁が削られ、断面はコンクリで補強されています(この土塁の上が先ほどの愛宕神社)。手前は岩槻駅前方面へ通じる交通量の多い道路。これも堀の跡です。

■大構え■おおがまえ
<愛宕神社の説明板>
shirononagori182iwatsuki (12).JPG
ふむふむ。ここでは大構えという言葉を使っていますね。意味は総構えと同じです。丁寧な説明で助かります。細かいことを言うと『え』は不要で大構、これで『おおがまえ』と読みます。

さて、この日は城址公園よりその外側を念入りに探索

<堀跡>
shirononagori182iwatsuki (1b).JPG
ここも

<大構の小径>
shirononagori182iwatsuki (5).JPG
おお・・・
大構の小径。ここでグッとくる名前が登場しました!何となく佳境に入ってまいりましたが、陽が傾いてきたので残り時間もわずか。まぁ地元埼玉ですから遅くなっても平気ですが、暗くなってから狭い路地をよそものがウロウロすると怪しまれますし、迷惑ですよね。

<ウロウロ>
shirononagori182iwatsuki (4).JPG
ちょっと速足で

■大構の暗渠■
<堀跡に水路>
shirononagori182iwatsuki (6).JPG
さんざん歩いてたどり着いた小径。岩槻中学の裏手になります。ここは堀跡が水路となっていたのでしょう。そして今では暗渠(あんきょ)です。存在意義が薄れた橋の存在がまたなんとも愛おしい (ちょっと暗渠マニアなのでここはご容赦下さい)

<暗渠と城跡>
shirononagori182iwatsuki (7).JPG
水の姿すら消えてしまいました。しかしこれは水堀のなごり。左手は畑にしか見えませんが、かつて土が盛ってあった場所。土塁のなごりです。いまでもちょっとだけ、本当にちょっとですが高くなっていますね。

ということで、けっこう満足してこの日の探索を終了しました。


<時の鐘>
shirononagori182iwatsuki (3).JPG
[岩槻区本町]6-229
まだ陽が落ちてないので、こんなところも立ち寄りました。その名の通り、領民に時刻を知らせるためのもの。県内だと川越の「時の鐘」が有名ですがここにも。なんと歴史はこちらの方が古いそうですよ。

<芳林寺>
shirononagori 184 (7).JPG
[岩槻区本町] 1-7-10
比較的駅に近い(徒歩約5分)太田道灌ゆかりの寺です。岩槻城の築城者は道灌ですが、今回のテーマの「総構え」はもっとあとの時代の話なので、こちらはまた別途投稿させて頂きます。

<駅近く>
shirononagori182iwatsuki (8).JPG
埼玉では有名な十万石まんじゅう。といっても拠点は行田市。10万石は岩槻藩ではなくて忍(おし)藩の石高ですね。

<岩槻駅>
shirononagori182iwatsuki (2).JPG
そして駅へ到着。総構えの外周全てというわけにはいきませんでしたが、最低5qは歩いたと思うので、いい運動にもなりました。


--------(補足)--------

岩槻城跡そのものの訪問記はコチラになります。桜が咲く頃に訪問しました。

<城址公園内>
IWATSUKI2017 (13).JPG
こんな感じの画像とともに記事を書かせて頂きましたので、良かったら覗いて見て下さい。→『記事へ進む』


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タグ:暗渠と城跡
posted by Isuke at 22:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 暗渠と城跡

2018年01月03日

水谷勝氏ゆかりの上羽黒神社(筑西市)

正月なので神社の話を。と言っても、自分の初詣は既に地元で済ませているので、昨年の城跡巡りで印象が強かった神社をひとつご紹介します。城跡が立派な神社となっている例はたくさんありましたが、ちょっと違います。思わず足を止めた。そんな雰囲気の神社です。

■茨城県筑西市■
<上羽黒神社>
sirononagori181 (2).JPG
下館城跡訪問時に通りかかった上羽黒神社。小さな神社ですが、独特の雰囲気に「はっ」として立ち止まりました。

何だろう、この空気は・・・

パワースポットにでも出会ったような衝撃でした。ここは水谷勝氏(みずのやかつうじ)が、出羽三山の羽黒大権現を勧請したことが始まりとされています。

■守護神■
水谷勝氏は、結城氏家臣として名高い水谷氏の初代当主。そして下館城を築城した人物です。それ以降、下館城が水谷氏代々の居城となります。勝氏は風水に従い、城を中心に鬼門風門などの方角に羽黒神社を建立。領内の守護神としました。ここ上羽黒神社は下館城の北西、戌と亥の間に位置します。「天門」と呼ばれる方位ですね。怨霊や魑魅魍魎などの災いが出入りする天門。この地の羽黒神社は、天門の守護神ということになりますね。

水谷氏が創建した羽黒神社は計七社。私が足を止めたこの神社は、そのうちの一つということですね。この日は城跡探索が精一杯で、「七羽黒」全てを訪問することはとても無理でしたが、一部と出会ったことで神社に込めた水谷勝氏の思いを知るきっかけとなりました(帰宅してから調べて知りました)。運が良かったと思っています。私は霊感とは無縁の男ですが「素通りすんじゃないよ」と勝氏が声をかけたのかも?まぁともかく、筑西市の羽黒神社は、かつて城下に町を築こうとした下館城築城者の思い。すごく大きな意味では、これも「下館城のなごり」なのかも知れません。

ということで、ちょっとだけ城、そして戦国武将と関係のあるお話でした。

■つわものどもが夢の跡■
<下館城跡>
sirononagori181 (1).jpg
水谷氏初代の勝氏が築城した下館城跡。つまり水谷氏始まりの城跡です。水谷氏の名は、蟠龍斎(はんりゅうさい)の名でも知られる6代正村の登場により、より世間の知るところとなります。正村は南下しようとする宇都宮氏に対抗するため、ここ下館城より更に北側に出城(久下田城)を築城。自ら城主となり宇都宮氏の侵攻を食い止めました。

当ブログ初期の訪問記。宜しければ覗いてみて下さい。
→『下館城のなごり
→『久下田城のなごり

最後に
2018年が皆様にとって良い歳となりますように。この拙プログもまだまだ続けますので、見かけたらどうぞ覗いてやって下さい。「ゆかのり地」や、ときどき水路又は「暗渠(あんきょ)」なども投稿させて頂きますが、基本は城跡巡りブログ(のつもり)で続けていきたいと思っております。最後までお読み頂き、ありがとうございます。


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posted by Isuke at 14:28| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2018年01月02日

お勧め本 上杉鷹山 (童門冬二著)

<上杉鷹山公>
sirononagori180Yozan.jpg
[撮影:米沢城跡]

■童門冬二さんの名作■
今回は童門冬二さんの小説『上杉鷹山』のご紹介です。

小説 上杉鷹山 全一冊 (集英社文庫(日本)) [ 童門 冬二 ]

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(2024/3/31 18:40時点)
感想(39件)



鷹山は「なせば成る・・・」の名言、そして改革を成功させた政治家として有名ですね。しかし組織というものは、そう簡単には変えられません。その険しく長い道のりを、一冊の本にまとめあげたのがこの小説です。

どんな内容

財政難の米沢藩を建て直すため、上杉家を変貌せしめ、困難と思われた改革を実現させた養子当主・上杉鷹山の物語です。鷹山は城の外を自分の目で確かめ『肌で感じる』ことを行動の基本とし、人に求める「節約」も、まず率先垂範で自らに課しました。

慣習より実質

現状を直視し、身の丈にあった国作りを試みます。

しかし、かつて栄華を誇った名門ならではの壁に阻まれ、改革は思うようには進みません。抵抗勢力の大半は藩の上層部。つまり既得権者です。これに対し、普段は発言すら許されない下級武士たちが次々と改革の趣旨を理解し始めます。
鷹山の不屈の姿勢に、変わり始める米沢藩。自らが「火種」となることで、周囲の人の心に火がつき、それがまた他の誰かの心の火種となる。意識変化が連鎖して拡がり、改革は少しずつながら実現されていく。

なせば成る
なせば成る なさねば成らぬ 何事も
成らぬは人の なさぬなりけり

この名言は改革期の鷹山の言葉です。特に後半の「成らぬは人の なさぬなりけり」。これは鷹山の小説を読んで以降、ずっと心に留まっている重い言葉です。何も成しえないのは「本気で成そうとしていないからだろ?」。そう言っているように思えてなりません。

以上、童門冬二さんの小説のご紹介でした。
個人的には前半で涙が出尽くしたような感じです。


(ついでに)
■当ブログ記事のご紹介■
別記事でもまとめさせて頂きましたが改めて。鷹山ゆかりの地を、10回に分けて投稿させて頂きました。いうまでもありませんが、童門冬二さんの小説の影響です。

鷹山ゆかりの地
@米沢藩上杉家跡記事へ
A晩秋の米沢城記事へ
B籍田の碑記事へ
C白子神社記事へ
D原方衆屋敷跡記事へ
E山中の塩田跡記事へ
F普門院記事へ
G餐霞館跡記事へ
H上杉顕孝の廟記事へ
I松岬神社記事へ

<松岬神社>
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以上です。当ブログ、普段は「城跡巡り」を中心としたブログですが、自分の感動した本などもご紹介させて頂いております。拙ブログですが、時々覗いて頂ければ幸いです。

最後までお読み頂きありがとうございます。
タグ:上杉鷹山
posted by Isuke at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | お勧め本

なせば成る 鷹山ゆかりの地(まとめ)

<米沢城址の石碑>
sirononagori170yozan (4).JPG
なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり

■鷹山ゆかりの地(まとめ)■

上杉鷹山ゆかりの地を、10回に分けて投稿させて頂きました。宜しければ覗いてみて下さい。@だけが東京。他は山形県米沢市になります。

@米沢藩上杉家跡記事へすすむ 
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A晩秋の米沢城記事へすすむ
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B籍田の碑記事へすすむ
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C白子神社記事へすすむ
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D原方衆屋敷跡記事へすすむ
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E山中の塩田跡記事へすすむ
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F普門院記事へすすむ
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G餐霞館跡記事へすすむ
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H上杉顕孝の廟記事へすすむ
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I松岬神社記事へすすむ
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以上です。なるべく正しい(と一般的に言われている)情報を背景にブログを作成していますが、個人的な思い込みをふんだんに入れてありますので、どうぞご容赦下さい。歴史の専門家ではなく、下記の小説「上杉鷹山」を読んで涙する普通の会社員のブログです。それでも、共感してもらえたり、参考にしてもらえれば嬉しいです。


■参考にした文献■
小説 上杉鷹山(集英社文庫)
著者:童門冬二



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2018年01月01日

松岬神社 鷹山ゆかりの地I

鷹山ゆかりの地
最後に鷹山が祀られている米沢市の神社をご紹介します。

■松岬神社■まつがさきじんじゃ
sirononagori178Yozan.jpg
[住所]米沢市丸の内
[祭神]上杉景勝・直江兼続
上杉鷹山・細井平洲・竹俣当綱・莅戸善政

派手さはありません。逆に、そこに上杉家らしさを感じずにはいられません。米沢藩の礎を造った景勝と兼続とともに、中興の祖・上杉鷹山も祀られています。
そして鷹山が師と仰いだ細井平洲。更に鷹山に抜擢された二人の家臣・竹俣当綱(たけのまたまさつな)と莅戸善政(のぞきよしまさ)も祀られています。

祀られているのは全て実在した人たち。共通していることは「逆境と向き合った」ということでしょうか。神がかり的な快進撃で、逆境を一気に跳ねのけたわけではありません。地道な努力と忍耐、そして挫折も繰り返しながら、長い年月を費やしてようやく事を成しました。

そういう姿にこそ、人は心惹かれるのかもしれませんね。

2017年12月31日

上杉顕孝の廟 鷹山ゆかりの地H

<上杉家御廟所>
sn177uesugike (2).jpg
[米沢市御廟]1丁目

この御廟所については、以前当ブログでもご紹介したさせて頂きました。
記事→『荘厳の廟所

今回は九代藩主鷹山、そして藩主になるはずだった鷹山の実子についてご紹介させて頂きます。

<歴代藩主の廟>
sn177uesugike (1).jpg
廟が整然とならんでいます。初代藩主・景勝に始まり、以後12代までがこの地に埋葬されています。


<九代藩主・治憲(鷹山)>
sn177uesugike (4).jpg
一番左が鷹山の廟です。右隣とは屋根の造りが違いますね。倹約のため簡素化し、材質も落としているそうです。

<小さな廟>
sn177uesugike (3).jpg
その鷹山の廟の左側の奥。歴代藩主より一段下ったところに、やや小さな廟が設けられています。

これは鷹山の長男の廟。鷹山は、側室お豊の方との間に子を授かりました。名は顕孝(あきたか)。鷹山同様に細井平洲を師と仰ぎ、将来の藩主となることが期待されました。しかし病気のため若くして他界してしまいました。鷹山の名言「なせば成る・・・」は、顕孝に心構えを示した言葉とも言われています。

倹約質素を貫き、生涯を藩の改革に捧げた上杉鷹山。特別な待遇があるとしたら、この墓所だけかも知れません。鷹山は歴代藩主、そして息子・顕孝とともにこの地に眠っています。


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2017年12月30日

餐霞館跡 鷹山ゆかりの地G

つわものどもが夢の跡
上杉鷹山が隠居後に暮らした邸宅跡を訪問しました。

<餐霞館遺跡>さんかかん
sirononagori170yozan (2).jpg
[米沢市城南]

■鷹山の隠居■闘いはつづく
17歳の若さで藩主となった鷹山。35歳で隠居し、家督は前の藩主にして養父の重定の次男・治広に譲りました。改革はまだ道半ば。この隠居には諸説あります。

⇒天明の大飢饉
これは凶作が続いたことにより、特に東北地方が大打撃を受けた飢饉です。江戸にも影響、近代で最大の飢饉でした(日本全国の餓死者は百万と推定される大飢饉です)。当然米沢藩にも影響。倹約に取り組んでいた鷹山ですが、ここで新潟や酒田から米を買い集め、領民に分け与えます。この英断により、米沢藩の領内では餓死者が出ませんでした。ただ、あまりにも大きな代償。凶作で収入が半減している一方での臨時の支出です。再び借金が膨らみました。この責任という形で、藩主の座を降りたとする考え方があります。
良いことをして、なんでそこまでする必要が?と思いますが、鷹山はまだ家臣団全員から支持されていたわけではありません。抵抗勢力に対し、筋を通したのかも知れませんね。

⇒養父の実子
鷹山が重定の養子となったのが1760年。次の藩主・治広は1764年生まれです。鷹山は、養父が存命中にその実子へ家督を譲ることで安心させたかった・・・という見方もあります。

⇒実務に専念
これは現代の会社や役所でもあることかも知れません。ポストにはやたらと形式的な手間が付いて回るので、実務に集中できない。まぁ何事ないときはそれでも良いですが、改革を急ぎたい鷹山にとって、藩主の身分はかえって不便。敢えて影に回ったとする説があります。

いずれにせよ、隠居後も重定、そして治広の要望により、鷹山は藩政に関与し続けます。

■霞を食べる■
餐霞館の意味は「霞を食べる住処」、つまり世俗を離れ清貧の生活を営む館ということです。その意味を知った上で餐霞館遺跡の小ささを目の当たりにすると、鷹山は狭くて質素な空間で仙人のように暮らしたのか?などと思ってしまいますが、実際は違うようです。

今の雰囲気とは異なり、当時の餐霞館は土地の広さ約3千坪の大きな平屋。相変わらず暮らしそのものは質素だったようですが、本丸を出でここ(当時の三の丸)へ移ったのちも、のんびり暮らせたわけではなく、生涯を藩の改革に捧げました。この地はいわば執務室を兼ねた住処。「第2ステージ」始まりの場所だったわけですね。

■側室の存在■
鷹山の正室は幸姫 (ゆきひめ)。重定の次女です。日向高鍋藩の次男として生まれた鷹山は、この幸姫と生涯をともにすることを前提にして上杉家の養子となりました。ただ幸姫は健康に難があり、例えて言えば、心身ともにずっと幼女のままだったようです。三十歳で亡くなるまで、鷹山がこの幸姫を大切にしたことはとても有名です。 また、江戸藩邸で暮らす娘の事情を、米沢で隠居していた重定は遺品で知ることとなり、改めて鷹山に感謝したと伝わります。

さて、このような事情もあり、家臣は側室を持つことを鷹山に勧めます。拒んでいたようですが、結果としては米沢で一人の側室を迎え入れました。この『お豊の方』、活躍のわりには幸姫ほどは知られていません。幸姫の話があまりに有名だからでしょうか。
お豊の方は鷹山より10歳年上、遠縁にあたります。鷹山が自ら鍬を手にしたように、ここ餐霞館で絹を織ったり・・・活動的でありながら、陰に回って鷹山を支え続けました。そして何より、孤立しそうな改革者の良き理解者であり続けました。お豊の方は一般的な呼び方で、名は浄鏡院(じょうきょういん)。鷹山との間に子供をもうけています。

総じて苦難の多い上杉鷹山。ここ餐霞館では、妻と子と過ごす時間もあったわけですね。


■晩年の鷹山■
上杉治憲(はるのり)。これがもとの名です。米沢城東北に位置する白鷹山(しらたかやま)にちなみ、鷹山と号したと伝わります。この時52歳。もうそろそろ本当に隠居しても許されそうですが、鷹山は最後まで藩政に関わりました。

1822年、上杉家の中興の祖・鷹山は72歳で没します。側室であるお豊の方の死から4ヶ月後のことでした。

もともと幕府への領地返上が検討されるほど財政危機だった米沢藩。かなりの時間は要しましたが、改革者鷹山の死後まもなく、藩の借金は返済し終わったそうです。

<餐霞館跡の石碑>
sirononagori176.JPG

なせば成る
なさねば成らぬ 何事も
成らぬは人の
なさぬなりけり

この有名な言葉は、ここ餐霞館の一室に掲げた壁書の一部でした。米沢城三の丸。鷹山が人生の半分以上拠点とした場所です。


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2017年12月29日

普門院 鷹山ゆかりの地F

米沢市関根の普門院
鷹山が恩師である細井平州(ほそいへいしゅう)を出迎えた場所として知られています。

<普門院・本堂>ふもんいん
sirononagori175Yozan (2).jpg

<普門院・赤門>
sirononagori175Yozan (1).jpg

私の訪問時には改修工事中でした。普門院の歴史は古く、創建は9世紀。伊達氏が領主だった時代にこの地へ移り、現在に至っています。本堂は1796年に再建されたもの。鷹山の時代です。


<敬師の像>
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鷹山が恩師をもてなした場所として知られています。その時に使った部屋や茶器などがいまも残されています。

米沢藩の藩政改革に取り組んだ鷹山。師である細井平洲を3度米沢へ招いています。平洲の3度目の訪問に際し、鷹山は自らこの地へ出向いて師をもてなしました。

■敬師の里■
ただ先生を出迎えただけ?まぁそうですが、当時の常識というか感覚として、藩主にまでなった男が自ら出迎えることは異例のことでした。師が米沢領内の大沢村(城から10q程度)に到着した知らせが届くと、鷹山は待ちきれずに城を出たそうです。師を敬う鷹山の行いは、敬師の美談として語り継がれています。

まぁ分かる気がしますね。自ら鍬を手にしたり、自ら雨乞いをしたりと、鷹山の行動は格式高い上杉家の「お殿様」には不似合いなものばかり。心から敬う人を迎えるのに、身分などという形式は後回しなのでしょう。
鷹山の藩政改革の手法には見習うべきところが沢山ありますが、領民を思ったり、こうして師を敬ったりする人柄も魅力的です。

<普門院境内>
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訪問は11月下旬。ちょうどいい季節です。真言宗智山派の寺院。山号は岩上山。私は今回レンタカーで移動しましたが、JR関根駅から徒歩10分程度の場所です。

<本堂の屋根>
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ちょっと建物の傷みが気になります。まぁだから改修工事中なんですかね。貴重な歴史の舞台。大切に守って欲しいですね。

<説明板>
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ここ普門院は「上杉治憲公敬師郊迎跡」として国指定史跡になっています。治憲、のちの鷹山のことですね。

■平州と鷹山■
細井平州は尾張国の出身の儒学者。鷹山の師として有名ですね。37歳のときに当時14歳の鷹山の師となり、教育にあたりました。やがて上杉家の頂点という立場になっても、鷹山は平洲を生涯の師と仰ぎました。

<羽黒神社・鳥居>
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普門院近くの羽黒神社。鷹山はここまで迎えに出て、恩師と久しぶりの再会を果たします。既に高齢となった恩師。鷹山は普門院へと案内し、長旅の労を慰めました。

<山門と説明板>
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ここも普門院と同様に国指定史跡になっています。

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とても重厚な建物。ただ、山門も含め、ちょっと痛みが激しいようで心配になりました。矛盾しますが、こういう飾り気の無い雰囲気はとても好きです。雰囲気を残しつつ、改修されるといいですね。

<石碑>
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羽黒神社わきの石碑。右方向へ進んでいくと冒頭の普門院へたどり着きます。すぐ近くです。

■細井平州の教え■
鷹山の「学問の師」として知られている細井平州が、最も重視したのは「実践」でした。単に知るだけでなく、よく考えて、実行に移す。そういうことですね。藩の改革に挑もうとする鷹山に、平洲はこんな言葉を贈りました。

勇なるかな勇なるかな
勇にあらずして
何をもって行なわんや

行動に移すには、勇気が必要だという解釈で良いでしょうか。逆に行動したければ、勇気を持つこと

師から弟子へ、最高のエールですね。

<師(左)と弟子(右)>
sirononagori175 (3)b.JPG
平洲69歳、鷹山46歳の再会でした。


■参考にした文献■
小説 上杉鷹山(集英社文庫)
著者:童門冬二



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2017年12月28日

山中の塩田跡 鷹山ゆかりの地E

鷹山の足跡をたどる旅
今回は米沢市の小野川町です。

財政難の藩を救うため、率先垂範で倹約を促す一方、農業を奨励し、更に数々の殖産興業政策を打ち出した上杉鷹山。人里離れた山奥にもそのなごりがあると聞き、訪問してみました。

<上杉鷹山公塩田碑>
sirononagori174onogawa (1).jpg
塩田跡地の石碑です。

塩田というと、みなさんはどういうイメージを持つでしょうか?私の場合、例えば赤穂とか、漠然と海の近くというイメージなのですが・・・なんでこんな山奥に?

この地の温泉の湯は塩味が強い。そこで塩田が試みられたようです。これも鷹山が掲げた沢山の経済政策の一つ。財政難脱却を目指す米沢藩の製塩事業です。

<案内板>
sirononagori174onogawa (4).JPG
下の方の絵。こんな感じだったようですね。

■小野川温泉■
山奥ではありますが、市街地からそんなに遠い訳ではありません(10q未満)。古くから地元民に親しまれ、もともと米沢の領主だった伊達氏にも慕われた温泉地です。

現在では、小野小町に由来する「美人湯」が売りとなっており、遠方から訪れる人も多い行楽地となっています。

<鬼面川>
sirononagori174onogawa (2).JPG
きめんがわではなく「おものがわ」と読みます。最上川の源流のひとつです。

病により衰弱した小野小町が顔を映したといわれる川。なんでも、川面に写った姿が(本人にしてみれば醜く)鬼のようだったとか。しかしこの地で温泉につかると、病が癒えた上に美女に生まれ変わった。小野川温泉はそんな伝説のある場所です。

それにしても自然豊かで風情のある場所。いいですね。夏にはホタル舞うそうです。平凡な会社員が、里山の温泉宿に泊まって晩秋の米沢を満喫した・・・わけではありません。そういうの、いつかはしてみたいですが、宿泊は市街地のビジネスホテル。小野川は小説『上杉鷹山』にも登場するので足を延ばしました。

<足湯>
sirononagori174onogawa (5).JPG
無料です。おカネなくても気分は味わえます。

注)温泉にご興味を持たれた方は、どうぞちゃんとした旅のサイトを参考にして下さい。この記事は、交通費で精一杯の貧乏旅行。温泉の魅力は伝えられません(小野川温泉のためにひとことでした)。

<山側からの眺め>
sirononagori174onogawa (7).JPG
甲子大黒天などがある山から撮影。冒頭の塩田を含む小野川温泉全体を見下ろせます。いかにも温泉地という景色ですね。

(話を鷹山に戻します)

■政策は枠組み作り■
多くの政策を試みた鷹山。これに応える家臣たちと領民。全体の調和なくして、改革は成しえなかったことでしょう。
米沢の人、というより日本人全般がそうだと思うのですが、基本的には真面目な人が多いような気がします。ただ、どちらかと言えば決まったことをきっちりやる気質。だからこそ伝統が守られたり、良いものを更に良くする細かい工夫を思いついたり、魅力的な側面が沢山ありますね。成功する改革者は、枠組みそのものを構築、あるいは修正できる人ではないでしょうか。枠組みを提供すると、もともと真面目な人たちが良い仕事をしてくれる。そして富を生む。働く人も全体も豊かになる。
鷹山の時代のたくさんの枠組みは、のちに米沢の主力産業となったり、あるいは名物となるものに繋がっています。
人が意欲的に働き続けられる枠組みの構築。つまりは環境作り。現在の企業でも求められているテーマですね。

■つわものどもが夢の跡■
sirononagori174onogawa (3).JPG
これも枠組みの一つでした。塩田は大事業とまではならなかったようですが、財政を何とかしたかった鷹山の夢の跡です。


■参考にした文献■
小説 上杉鷹山(集英社文庫)
著者:童門冬二



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