能を拝見して感じるのは、謡いの時間、演じる時間があまりにも長いということです。
せっかく素晴らしい詞章(謡曲の文章。能のおける脚本のようなもの)であるのに、間延びした感じで表現されてしまうと、ほとんど言葉として把握することができませんし、詞章の持っている美しさも引き立ちません。
なぜ、ゆっくりしすぎる謡い方、演じ方をするのかと不思議に思っていたところ、以下の文章を読み、疑問が解けました。
「能は信光の出た十六世紀前半を過ぎると、ほとんど新作は生まれなくなり、もっぱら芸の練磨伝承、芸統の保存という面に傾くようになった。江戸時代に入るとこの傾向は一層強く、式楽化されて荘重を旨とするようになったため、上演時間も当初の倍ぐらいに延びた。現在の能もその延長上にある」(河竹登志夫『演劇概論』東京大学出版会 203頁)
現在のようにゆっくりした謡い方、演じ方をするようになったのは、江戸時代からのようです。
倍近くも延びたとは延びすぎですね。
正直なところ、演劇としての面白さが消えてしまっています。
豊臣秀吉も能を舞ったということですが、秀吉の時代では、まだ、本来の上演時間であったのでしょう。
まさか、秀吉が現在の能のようにあまりにもゆっくり舞っていたとは考えられません。
現在の能の上演時間の半分ぐらいであれば、詞章を言葉として把握することもできますし、詞章の美しさを感じることができます。
能の舞台にもいい緊張感が出てくるでしょうし、演劇としての面白さも出てくるでしょう。
そうはいっても、現在の能が当初の能のように上演時間を半分ぐらいにするとも思えず、これからも現在の能の形式で拝見することになりますが、能が成立した当時の上演時間で謡い演じていただければと期待しています。
江戸時代からの伝統ではなく、室町時代からの伝統を大切にした方が、能にとってはよいのではと思われます。
もちろん観客にとってもよいと思われます。
その点、歌舞伎は、観客の要望を感じ取っているのか、能の演目を歌舞伎化して上演する際、台詞の言い回しの速度、演じ方の速度がちょうど良い速度になっています。
ここが歌舞伎の柔軟性のあるところであり、観客からの支持を得ている秘訣でしょう。