問うて云わく、如説修行の行者と申さんは、いかように信ずるを申し候べきや。
答えて云わく、当世日本国中の諸人一同に、「如説修行の人と申し候は、諸乗一仏乗と開会しぬればいずれの法も皆法華経にして勝劣・浅深あることなし。念仏を申すも、真言を持つも、禅を修行するも、総じて一切の諸経ならびに仏菩薩の御名を持って唱うるも皆法華経なりと信ずるが、如説修行の人とは云われ候なり」等云々。
予が云わく、しからず。詮ずるところ、仏法を修行せんには人の言を用いるべからず。ただ仰いで仏の金言をまぼるべきなり。
『日蓮大聖人御書全集 新版』601頁(如説修行抄)
如説修行とは、文字通り、仏説の通りに修行することです。しかし、鎌倉時代の日本の人々は、仏説をほったらかしにして勝手なことを言っていたようですね。法華経が一番の経典であるとされたならば、その後は、その他の経典も法華経も同じと言い始めます。ここから間違っていますね。法華経は法華経であり、その他の経典はその他の経典であるという当たり前のことが無視されています。同じでないものを同じと言うことは滑稽でしかありません。念仏も真言も禅も法華経などと言うに至っては狂気の沙汰でしょう。
当然、日蓮は、このような間違った見解、言動について、「しからず」と明快に否定します。仏道修行において、人の言葉はあてにならないというわけです。仏の金言ですから、経典に基づくべきであるというのですね。
宗教の世界では、訳の分からないことを言い始める人が一定数出てきます。勝手なことを言うのですね。経典や文献を無視して、文理解釈すら無視し、意味不明なことを言い、人々を混乱させます。新宗教団体に多い現象ですね。
世間的に新宗教は嫌われる傾向がありますが、このような変なことを言う人がいるからというのも理由のひとつでしょう。付き合いたくないわけですね。
宗教は、伝統があり、時代の荒波を乗り越えたものを軸とするのがよいですね。法華経などは、申し分がないものといえましょう。また、日蓮の遺文も十分信仰に耐えうる内容を持っています。
しかし、法華経、日蓮の遺文を根本としながらも、上記の如説修行抄で指摘されたように、教団には、変なことを言う人が出てくるのですね。そのような人が教団の中で重要な地位を占める場合があり、まともな人が教団から離れるのですね。
このような現象は、現代だけでなく、鎌倉時代も同様であったということが如説修行抄から読み取れます。人間は、訳の分からないことを言い始める悪い傾向がありますので、気を付けて信仰をする必要があります。まずは、法華経、御書に書いてあることを文理解釈でもって正しく理解することです。そこから、深く研鑽しながら法華経、御書の精髄を把握するよう読み込むことが肝要です。トンチンカンなことを言わないようにすることですね。