田舎において邪正を決せば、暗中に錦を服て遊行し、澗底の長松、匠を知らざるか。兼ねてまた定めて喧嘩出来の基なり。
『日蓮大聖人御書全集 新版』875頁(強仁状御返事)
強仁という真言僧から法論の申し出があり、それに対し、日蓮が返事を書いていますが、その一節ですね。
田舎において法論をしても、暗闇でいい服を着てうろうろしているようなものであり、海の底に素晴らしい松があったにしても、匠の手によって作品となることもないのと同じようなものと言われています。簡単に言えば、田舎での法論は意味がないと言われています。とにかく法論をすればよいという安易な考えを日蓮は持っていないのですね。
また、田舎での法論は、決まって喧嘩のもとになると指摘しています。所詮、喧嘩になってしまうだけであり、これまた、意味がないと言っているわけです。
では、法論は、どうすればよいのか。
世・出世の邪正を決断せんこと、必ず公場なるべきなり。
同書 同頁
法論に限らず、世間一般のことについても、邪正を決めるのは、必ず公場によるべきであるというのですね。
公平に判断する人々がいる場であり、多くの人々に公開されている場での法論であれば、意味があるということです。このような場であれば、いい加減な言論はできないですし、責任感のある言論が期待できます。
日蓮にとっては、このような公の場での法論が本当の法論なのであり、単なる言い争いレベルの法論は、法論ではないのですね。
世の中、公開の場での言論ではなく、それこそ田舎法論のような言論が多いような気がします。そして、喧嘩になり、収拾が付かなくなるという結果に陥ります。そのような人々も、公開の場に出てくると何も言わなくなるのですね。所詮は、田舎法論レベルということなのでしょう。
やはり、言論を為す場合、公開の場を意識することですね。