2015年01月15日
インドの旅4
エアコンの効いた宿で、ぐっすり寝て起きたら7時になっていた。カーテンを開けて外を見ると、インドに来たのだと改めて思った。朝食を取らずにチェックアウトをして、友達と別れる場面になったのだが、今後は自分もバナラシの駅を使うのだから駅まで送って行く事にした。リキシャを使うかタクシーを使うか迷ったが、宿の店主が言うには駅までは遠くないとの事だったのでリキシャを使う事にして1台のリキシャを止めて、値段交渉をした。やはりインドである、いきなり500円と高額な料金をふっかけてきた。自分達は相場が分からなかったので100円で交渉したが、それでOKだと言う。もっと値切れたかなと思いつつ、駅まで向かった。リキシャに乗る事、20分も経っていたが駅らしい所は見えて来ない。こんなんで100円位で行ってくれるリキシャの安さにビックリした。おおよそ30分で駅が見えてきた。100円を支払い、駅構内へと進んだが、物凄い人の数であった。友人がアグラ行きのチケットを購入するべく、案内所へ行ったが、なんと10時間待ちだと言う。仕方なく彼はチケットを購入して夕方まで待つしかない。とうなだれてしまった。自分もバナラシに長いする事もないだろうと、1週間後のカルカッタ行のチケットを購入した。そして本当の別れの時が来てしまった。短かった彼との旅も終焉であり、彼は自分がリキシャに乗ってダシャーシュワメード・ガートに向かう所まで付いてきてくれた。お互いの旅にエールを送ってリキシャは走り出した。どこもかしこも人とゴミだらけであり、ここからまた1人旅が始まるのであった。
2015年01月14日
インドの旅3
宿探しをしていると賑やかな通りに出た。凄い数の人間だが、どうやら祭りの日に遭遇したみたいで、どこも大渋滞になっている。これでバスが渋滞に巻き込まれたのが分かった。夜8時頃になり、やっと今夜の宿を見つけたが1泊千円の所だったが、仕方なく宿泊する事にした。さすがに部屋は綺麗でエアコン付のツインでトイレ・バス付。部屋に荷物を置いて、宿のレストランに入ったら途中で同じバスに乗っていた欧米人が同じ宿にチェックインしていた。向こうも分かったみたいで挨拶をしてきた。メニューを見てみると、なんとアルコールが置いてあるではないか!ヒンズー教ではアルコールは禁止されているのだが、外人が泊まるホテルでは提供出来るみたいなのでビールとカレーを注文した。ビールは冷たくて、暑い外から入ってきた自分達には美味しかった。カレーも美味しく、ちょっと高くなってしまったがインド初日と言う事で奮発して夕食を過ごした。部屋に戻ると疲れた身体をシャワーで洗い流して、2人で外に出掛けてみた。先ほどの祭りが、更に大きくなっていて人も増えている。あまりにも人が多いので20分ほどで宿に戻った。部屋で、明日の行動を2人で話をしたのだが、彼の方は旅を急いでいるらしく、インド滞在の時間も少なく明日にバナラシ駅に行って北ルートでデリーに向かうと言うのだが、自分は時間しかないので、ゆっくりとインドを周るので、明日のチェックアウト後に離れる事になった。折角、親友が出来たと思っていたのだが残念だった。彼とは短い時間だったけど、日本の住所を交換した後に知らない間に疲れて寝てしまった。自分は明日、ガンジス川畔の宿を目指す事にした。
2015年01月13日
インドの旅2
インド入国から、いきなりのトラブルだったがバスは順調に走り出した。見る景色もネパールとは違い、とにかく汚いとしか思えない。ネパールの盆地から下がって来たので、インドは暑くて汗が止まらない。途中、休憩所に着いてトイレに入ったが汚物が散乱していて、かなりの悪臭を放っていた。ミネラルウォーターが一回封が開けられているような物もあり、ちゃんと確認してからではないとインドの汚い水道水を入れたペットボトルを買わされてしまう事もあるようで商品を手に取ってからお金を支払う。お金に関しても、札はボロボロになったのもあり、それを釣りとして渡されると、その札で次の買い物をしようとする時に拒否されてしまう事もしばしば起きるので釣銭にも注意しないといけない。ちょっとした物を買うのも面倒な国だが、そこはもう慣れてしまっているので「郷に入っては郷に従え」と割り切るしかない。何でもないような田舎の街でも渋滞が多くて、それはインドでは神様と言われている牛が道を占拠してしまう事があるので前に進めない。バスに乗ってから数時間が経つが外は段々と暗くなってきていて、本当にバナラシに着くのか不安になってきた。夜7時頃に大きな街に入ったが、そこからは酷い渋滞になり、全く前に進めない。ドライバーの話だとバナラシに着いたみたいだが、バス停までには、かなり時間が掛かりそうとの事。イライラがマックスになった欧米人達は途中で降り始めた。自分達も目的地に近いならと途中で降りる事にした。街に着いているのだが街灯は暗くて、早く宿を見つけないと知らない街でトラブルに巻き込まれる可能性も高くなるので、地元住民に聞きながら宿を探し始めた。夜になっても気温は下がらずに、35℃近くの状況でバックパックを背負って、宿探しを始めた。
2015年01月09日
インドの旅1〜来たぜ!神秘の国へ〜
インドの入国審査も終わり、スノウリに到着。しかし、ネパールから数十メートル歩いただけで、こんなにも変わるもんだろうか。道端にはゴミばかりで、痩せこけた牛が、そこらじゅうにいて異様な臭気をはなっていて臭い。インド側では、すでにバスが待っていて、カトマンズで購入したチケットを見せるとバスに乗る事が出来たが、バスの周りには4人ほどのインド人がバスのトランクにバックパックを入れてくれたのだがチップを払えと言ってきた。おまけに、額の真ん中に赤い物を付けられた。ヒンズー教の「ビンディ」と呼ばれている物で女性が付けるのに、なぜかビンディを男性の自分達にまで、、、。とにかくチップを払わないとバスに乗込んでしまったら自分のバックパックを盗まれてしまうかもと思いつつ、10ルピー(30円)を支払ってバスに乗込んだ。バスの中には観光客が数名乗っていたが、みんなビンディを付けられていた。自分と旅を一緒にする事になった日本人の男性と共に席に座り込み出発を待った。バスから外を見ると欧米人の男性バックパッカーが何やら揉めているのが見えた。その男性はバックパックを持ってバスに乗込んで来たのだが、英語で「金なんか払えるか!バックを入れてもらうだけにチップは払えない!」と口論になって座り込んだ。外にいるインド人も金を払えとバスの中に入ってきた。自分達も納得いかないチップだったが、さずが欧米人である口論のすえ、最後にはバックをトランクに自分で入れてインド人に金を払う事なく勝利となった。インド入国からトラブルばかりで、この先のインドの旅に輪をかけて不安になってきた。
2015年01月08日
ネパールの旅12〜あまり思い出にならなかったがサヨナラ〜
カトマンズで知り合った同じ年の日本人男性バックパッカーと最後のネパールを楽しんでいたが、妙に気が合うのでカトマンズの滞在が楽しかった。最初は、彼がカレーとモモ(餃子)を食べたいと言うので渋々と案内をしたが、彼も味の薄いカレーと皮の厚い餃子に慣れる事が出来ずに、その後は日本食へと通う事になった。彼が食事をおごってくれたので、日本食でも安いのを注文したが、彼の気前の良さには感動した。まだ、海外の旅の時間が短いせいか日本のニュースなどを聞いていると、まだ1年も経っていないのに自分は浦島太郎になってしまっていた。アメリカに留学していた頃も浦島太郎になっていたが、新鮮な日本のニュースを聞くと日本に帰りたくなる。やっぱり日本に生まれた人間としては日本に戻りたくなるのは必然だった。2人で暇をしていても何だったのでモンキーテンプルに行く事にした。かなり急な階段を登ったりするのだが、モンキーテンプルの丘から見るカトマンズの街と、その後ろにそびえ立つヒマラヤは絶景であった。特にヒマラヤがくっきりと見えたのも嬉しかった。これでカトマンズも終わりになる。明日は、いよいよインドに入るんだと思うと嬉しさと不安が交錯したが、前進あるのみだった。
次の日、宿をチェックアウトしてバスターミナルに向かった。チケットを片手にターミナルの従業員に自分達のバスを聞いてみた。指示されるままにバスに乗込むと、かなり混んでいたが2人横並びに座る事が出来た。チケットはインドのガンジス川で有名な街の「バナラシ」までであり、インドに入った際に再度バスチケットを買わされるのではないかと不安であったがバスは定刻に出発した。未舗装の道路を走り、昼間にはバイラワ(ネパール国境の街)に到着して、インド側の国境の街「スノウリ」で入国審査となった。ネパールの出国審査は簡素だったが、インドの入国審査で思わぬ所で引っ掛かってしまった。入国カードに記入漏れがあったので、自分のボールペンを出して書き込んでいたら、「そのペンを見せてくれ!」と言われたので見せたら、「このペン、日本製だね。くれ!」と始まった。ここで拒否していたら、審査官も引き下がらずにペンを貰うまではスタンプを押さないと入国を認めようとしない。こんな事で、10分ほど言い争いをしてペンを返してもらい、入国審査を終えた。入国審査からインドの洗礼を受けてしまった感じがした。とにかく、インドへ入国!インドへ入った瞬間から道にはゴミが散乱していて汚く、臭いがきつかった。インドの第一印象は、かなり悪く始まったのだ。
2015年01月07日
ネパールの旅11
沈没生活から脱出するために、インド行のバスチケットを購入した。ビザの残りが、あと1週間あったのでリハビリを兼ねてレンタルの本を借りるのをやめて、朝早く起きてカトマンズの街を散策するようにした。とは言っても見る所は、ほとんど見たので旧王宮の周りに行って、1日ボーっとしていたりして過ごしていた。時には、歩いている日本人バックパッカーが話しかけてきたりしたので時間潰しにもなった。その話相手になってくれた、1人のバックパッカーと親しくなり、共に食事に行ったりしたのだが、彼は自分と同じ年で、自分と同じくインドを目指しているとの事で同じバスでインド国境に向かう事にした。自分はバスチケットをすでに購入済だったので、彼も同じバスチケットを購入。インドへ行く不安が、ちょっとは緩和された。インドからカトマンズに移動してきた日本人の話を聞いていたが、インドでの良い話が聞かされていなかったので相当の覚悟が必要かなと思い不安になっていた。インド人は、とにかくしつこくて話にならなくネパールに入ってホッとしたと言う話ばかりであった。親友になった彼は、なんと日本からバンコクへ飛んでカトマンズに来たので、ネパールが最初の旅の国であり、ネパールとインドを旅する目的で来たと明かしてくれた。彼の方がインドに入るのが不安だったようで、自分と行動出来る事が嬉しかったのか、食事などは割り勘ではなくて、宿代以外は全部支払ってくれた。最初は割り勘にしようと言っていたのだが、どうしても払いたいとの事だったので、無理に断る事も出来ずに甘える事になった。彼の宿は、旧王宮の近くにあったが、一緒の宿に泊まりたいと話だしたので断る理由も特にないので、自分の宿にチェックインをした。まだ、旅慣れていないせいか、1泊10ドルの宿に泊まっていて自分の宿に来たのも正解かなと思った。残りのカトマンズ滞在は、彼と一緒に過ごす事になり、沈没生活から抜け出して楽しい旅の再スタートが出来る嬉しさが出てきた。
2015年01月06日
ネパールの旅10
カトマンズで完全に沈没してしまった自分は、引きこもりの状態になってしまった。あっと言う間に1週間が過ぎてしまったが、特にする事もなく旅も駆け足で回ってきた感じがした。ネパールでゆっくりしていていいのか分からなくなったが、確実にダメ人間になっている罪悪感も出てきた。早く次の国、インドを目指さないといけないのだが、いまいちインドへ入るのが重くなってきており、このまま旅を終わらせて、日本へ帰ろうと何回も思った。その反面、インドに行かずに帰ってしまうと後悔するかなとも思ったりもして葛藤していた。昼食は日本食が中心となり、夜も日本食レストランに足を運ぶようになってしまった。カトマンズからインドへは近い。何とか、この沈没状態を脱出しないといけないと思いながらもグダグダの毎日を過ごしていた。ある日、バイクに乗ったネパールの少年がトレッキングに誘ってきた。またか、と思ったがバイクの燃料代だけでいいから払ってくれたら、ネガルコットまで案内すると言う。この少年は、ナガルコットに住んでいて買い物にカトマンズに来ただけであった。引きこもりの生活も、もういいかな。と思いOKを出した。次の日の出発で早朝の7時に待ち合わせをしたが、夜明けまで本を読んでいたせいか起きれなくて、ドタキャンをしてしまった。こんな事があって、自分自身が嫌になり、インドへ向かう決心をした。バスのチケットさえ買ってしまえば、インドに行かないといけないので自分を後ろから押す形でバスのチケットを買いに出掛けた。寒いカトマンズだが、日に日に寒くなっていくような気がした。
2015年01月05日
ネパールの旅9
日本を出発してカトマンズで10ヶ月近くの旅になった。久しぶりの日本の活字を読んで楽しくなり、レンタル本を毎日借りるようになった。日本人の友人とナガラコットに行く約束もしていたが、1人になって夜明けまで本を読んでいる方が楽しくなり、その約束はぶっちぎる事となってしまった。昼過ぎに起きて、遅い昼食を取り、ダルバール広場に足を運び1時間ほどボーっとして、本のレンタルをして、シャワーを浴びて、夕食を取りに出かけて、夜に本を読みだす。大体、1冊の本を1夜で読み切る。そんな生活が続いた。完全に自分はカトマンズで沈没してしまっていたが、その生活に満足していた。ビザも15日間しかなかったが、延長して更に15日間のビザを取得した。沈没と分かっていても、それが楽しかった。外に出ると地元の若者が流暢な日本語で話しかけてくるが、1週間も同じ行動をしていると挨拶程度にしか声を掛けてこない。彼らの目的はトレッキングに同行・案内をして、その料金を取る仕組みだが、トレッキングに行きたいと思わなく、彼らも自分がトレッキングに興味がない事が分かるとシツコクして来なくなったからだ。彼らは貧困層で定職に就けなくて、旅行者をターゲットにしているので、自然と英語・日本語・フランス語を話せるようになっていくのだ。日本で就職したら、語学が堪能な人材なので企業は正社員として欲しいだろう。しかし、彼らには、そのチャンスさえないので可哀想だと思った。特に彼らはボッタくる事はしないのだが、地元の旅行会社がトレッキングの手配をしてくれるので、観光で来ている人達は旅行会社に頼んでしまい、トレッキングの案内の仕事も満足に出来ないのである。道端にたむろしているネパール人に声を掛けられてトレッキングに行く人は、そんなにいないのが現状であった。そして、自分は自分の世界に入りこんでしまい、沈没の生活を毎日繰り返すだけになってしまっていた。