2014年12月15日
バングラデシュでの1泊トランジット!
ヤンゴンから飛行機でバングラデシュの空港に着いた。ダッカで1泊して、明日カトマンズへと再度飛び立つ。とりあえず、荷物が出てくるレーンで待っていると、バックパックが引裂かれてレーンの上を回っているのが何個かあった。衣類などが散乱していて初めて見る光景だったが、自分のがきちんと出てくるのか心配で仕方なかった。被害を受けた欧米人の女性が泣きながらバックパックを取り、散乱した衣類を集めていた。飛行機から荷物を出してレーンに乗せる際に現地のバングラデシュ人が物取りをして切り裂いたのだろうがダッカに着いて、いきなりのショックだった。結局、4人のバックパッカーが犠牲になり、3人の女性・1人の男性のバックパックがレーンを酷い姿で流れていた。もう使い物にならなくなっているので、どうやって、この場を凌ぐのか不思議だったが自分のバックパックは何にもされずに出てきたのでバックパックを取り出口へと向かった。空港を出る時に、鉄の柵で空港に一般人を入れないようにされていて、鉄の柵の外には凄い人達が空港の出入り口を見ていた。まるで暴動が起きているかのようだったが、案内されたバスに乗込み出発を待っていると、バックパックを引裂かれた4人も同じバスに乗ってきた。1人の女性は泣き崩れてしまいバスの中で顔を上げる事はなかった。確かにバングラデシュの最初が、こんな事件で始まるとは誰も予想してなかったのでショックを受けるのは当たり前だが、そんな重い空気の中、バスは出発した。エアコンの付いてないバスで、熱風が中に入ってきて汗だくになる。バス内ではダッカでの行動について話が現地担当者が話し出した。あくまでもトランジットなので、ダッカ市内に行ってもいいのだが、外泊は出来ない事。明日の早朝に出発するので、その時に居なかったら待たずにバスは空港へ行ってしまうと2点説明があった。夜飯はホテルで出るので、特にダッカへ行こうとは思わないが、どんな町か見てみたかったので、ちょっと出掛けてみようと思っていた。ホテルの到着すると、すぐに部屋を割当られた。自分の部屋は3人部屋で日本人2人と欧米人1人になった。バックパックを置いて、外でタクシーを拾いダッカ市内へと入って行った。町中は人・人・人でリキシャーと歩行者と車両で大渋滞。とりあえず適当な所で降りて、現地通貨を持っていなかったのでアメリカドルで前もって話していたので支払った。2時間ほど適当に歩いてみたが面白くもないので帰る事にして、ホテルの住所をタクシーに伝えて帰った。ダッカのインフラの悪さにビックリしたが、アジアの中でも最低ランクの貧困国であるので仕方ないのかな?と感じながらホテルに着いた。ホテルの中はエアコンが効いていて飲み物はフリー。ホテルのランクは中級くらいだが、ホットシャワーが出るので自分にしてみれば一流ホテルだった。夜飯もビュッフェスタイルで好きなだけ食べれたし、味も悪くなかった。部屋のエアコンは調子が悪いのか効いたり効かなかったりして温度調整が手動になってしまっていて、面倒なので一番冷える温度にしておいた。部屋の日本人と話をしたりして夜は過ごしていたが白人が先に寝てしまい、迷惑も掛けれないので寝る事にした。夜中にエアコンの効きが良くなり、部屋の中は冷凍庫状態に感じて布団に包まって寝た。リモコンは白人の所にあるのだが、全く動じずに寝ていたので寒くないのかな?と思ったが、そのまま寝てしまった。朝になると一番早く起きたのが、友達になった日本人だった。昨夜、寒すぎて寝れなくなり、朝まで起きていたそうだ。白人も起きてきて寒くなかったか聞いたら、分からなかった。と言っていた。結局、日本人の彼は朝食を食べた後にバスの中で寝てしまった。ホテルをチェックアウトする前に全員揃っているか確認されたのだが、バックパックを引裂かれた人達は、どこで買ったのか分からないが糸でバックを繋いで直していた。全員、盗まれた物はなかったと聞いて安心した。泣いていた女性も何事もなかったかのようにバスに乗っていた。たった1泊のダッカの旅であったが中々濃い1日を過ごした感じがした。飛行機はネパールのカトマンズへと向かった。
2014年12月12日
ミャンマーの旅28〜SAYONARA〜
ミャンマーを出国する朝がきた。朝はホワイトハウスの宿が出してくれるので、ゆっくりと朝食を食べた。昼の便なので急がずゆっくりとチェックアウトする事が出来て、宿の前から空港行きのバスが出ているので大変便利だった。お世話になった人に挨拶をしたり、いつも清掃してくれるミャンマー人の人達にもを別れを告げたりしてバスの到着を待っていた。ホワイトハウスのロビーにはバックパックが数個並んでおり、「おや?」と思ったら、欧米人がチェックアウトして空港へ行く用意をしていた。ここの宿から空港へ行く人が多いから、宿の前から出発するバスがあるというのは、なるほどね。と思った。自分もチェックアウトを済ませて、自分のバックパックをロビーに並べバスを待つ事にした。バスは定刻通りに来て、一路空港を目指した。空港に向かう途中、昨日通った道を通ったのだが、やはり物々しい感じで軍人が所々にいる。やはり、アウンサンスーチーが自宅監禁されている所が近いんだなと感じてバスは空港に向かった。空港は国際空港言えども小さくて、日本の地方空港並みの大きさで、特に見る所もないので出国手続きをしてゲートへと向かった。乗るのはビーマンバングラデシュ航空。人生で今回くらいしか乗らないような航空会社だが、その機体に乗るのは、ほとんどが欧米人ばかりであり、あとは日本人バックパッカー数名とバングラデシュ人らしき人達。ぼーっと外を眺めながら時間は過ぎていったが、目の前にビーマンバングラデシュのマークが入った飛行機が見えてきた。最初は小さい飛行機かと思ったら、中型機で搭乗が始まった。飛行機の中へ入ると、先に客が乗っていた。恐らくバンコクあたりから飛んできて、ヤンゴンに途中降りて、ダッカに向かう飛行機だと感じ自分の席に着いた。30分もしないうちに飛行機は出発してダッカへと向かった。飛行機の中は比較的空いていて、隣に誰もいなかったので横に足を乗せて、しばし飛行機の旅を楽しむ事にした。短い距離の移動なのに機内食が出たのにはビックリした。結構まともなサービスを受けられるのかと感心。飛行機はアッと言う間に飛んでしまったが、ミャンマーよ!いつ来れるか分からないけど人の優しさに感動した国だった。ありがとう!また来れる事を祈っている。いい思い出だった、この先のネパール・インドでも良い思い出を作りたい。SAYONARA!ミャンマー!
ミャンマーの旅27
ヤンゴンの最終日の朝がきた。長いようで短かったミャンマーの旅であったが訪れて良かったと感じていたが、最後にどうしても、アウンサンスーチーさんが居る所を見てみたかったので、ヤンゴンで得た情報の基に出かけてみた。ヤンゴン中心地から北へ歩く事、30分ほどで近くに来ているとは思っていたが、次第に軍人の数が増えていき、しまいには軍人に捕まってしまった!ここで、アウンサンスーチーに会いたいとは言えないので散歩していると返答したが、かなり疑われてしまい、道端で所持品・身体検査を受けて、ここから先は行くなと言われてしまい追い出される形となって中心部に戻るはめになってしまった。会う事は不可能だとは思ったが、徹底して軍人を大勢配備しているのにはビックリした。一見、穏やかに見えたヤンゴンの日常とは違い、これがミャンマーの軍事国家の正体なのかと思ってしまった。拘束されて変な所に連れて行かれなかっただけでも感謝しないと。と思い、自分の軽率な行動が事故に出くわすと緩んでいた危機意識を引き締め治した。ミャンマー最終日に何とも味気悪い日にしてしまうとは思わなかったが、ミャンマーの人達の暖かさには感謝する事ばかりであった。明日、自分はネパールへ向けて出国するのだが、また訪れてみたい国になっていた。宿に戻ると昼過ぎになっていて、食事を取って早めにバックパックの片付けをして航空券、パスポートのチェックをした。チケットには、ヤンゴン発ダッカ経由カトマンズ行と記載されており、1泊バングラデシュに泊まる事になっている。どんどんディープな国へと進んでいる事に満足でもあり、確実に日本から遠ざかっている自分自身にエールを送った。その夜は宿で知り合いになった日本人と屋上でビールを飲みながら語りあった。残念ながら夜空の星は見る事は出来なかったが暑い所で冷たいビールを飲むのは格別に美味しかった。
2014年12月11日
ミャンマーの旅26
ヤンゴンの滞在まで、あと4日しかなくなっていたが、ほとんどする事もなく時間だけが過ぎて行くだけなので、ヤンゴンで知り合った英語を話せる男性と安宿の前で話していたら、「自分の村に来ないか?」と言いだしてきたので、断る理由もないのでピックアップトラックを改造してバスにしている車両に乗り込んだ。ヤンゴンから30分も走ると田園地帯に入り、田舎の風景になる。ヤンゴンから1時間ほど走って、ようやく着いた所は貧困の村であった。簡素な家の造りが並び道は未舗装で歩きにくく、第一印象はとんでもない所に来てしまったな。。。と感じた。村の中心にカフェがあり、そこで待っていて欲しいと言うので暫くコーラを飲みながら待っていた。日本人は足を入れる事のない場所なのか、やたらと村の人が話掛けてくるのでいちいち対応しているのが疲れてきた。15分ほど待つと男が戻ってきて、家に招待しようと思っていたらしかったが、家族に反対されたらしい。ふと、男が「マリファナいるか?」と言ってきたので、こんな国で捕まりたくなかったので、要らない!と一言返事。次第に雨が降ってきて、どうやらスコールのようだ。これでは雨が上がるのを待つしかないので、カフェでやり過ごすしかなく、男も連れてきてごめんと謝っていた。こんな所に来る事も出来ないので、こういう機会があって良かったと伝え、雨が上がったのでバスでヤンゴン市内へと戻った。ヤンゴンの郊外では、こんな貧しい暮らしをしている人達がいるんだと分かっただけでも、事実を見る事が出来て良かったと思った。しかし、雨は久しぶりだったが未舗装の道路を歩いたので足は泥だらけになっていた。
2014年12月09日
ミャンマーの旅25
ついにお別れの日がきてしまった。多少二日酔いであったが、バックパックに荷物を詰めてチェックアウトした。飛行場行きのバスターミナルまで一緒に同行して、てっちゃんと西森さんはバスに乗り込んだ。バスが出るまで十分程度しかなかったが、バスに乗り込んだ2人が窓を開けて、最後の会話をしている時にバスは出発して行った。ここから、1人になる寂しさと3人で色んな国を周った楽しい思い出が脳裏をよぎり、自分は寂しく安宿のホワイトハウスを目指した。誰かしら日本人や欧米人がいるので寂しさを紛らわせる事が出来ると思ったからだった。案の定、安宿にはバックパッカーが沢山いた。なんと、バンコクのカオサン通りにいた時に知り合いになった人がいたのが嬉しかった。その人は、先日にヤンゴンに着いたばかりで市内の情報が不足していると言っていたので、自分の知る限りの情報を教えたり食事の美味しく安い所も案内したりして、残りの1週間を共に過ごす事になった。ある日、ミャンマーの通貨のチャットが不足したので5ドルの両替をする為に朝早くスーレーパゴダまで足を伸ばしてみた。相変わらず、闇両替の人達がいて顔見知りなので、すぐに両替は終わった。その時に、サンダルを履いていた自分は道の端に釘が出ているのを知らず、足の親指を深くまで切ってしまった。血は止まらず、闇両替の人達が近くにある商店で消毒液とバンソウコウを買ってきてもらい何とか止血が出来た。この事件に自分もビックリしたが、優しく介護してくれた人達に感謝感激だった。勿論、その代金を支払いお礼を言って、宿へと戻ったが、時間が経つにつれて痛みが増してきた。朝早く1人で行動したのが仇となってしまった。その日は外に出る事なく、テラスでバックパッカーと話したりして時間を潰して療養した。
2014年12月08日
ミャンマーの旅24〜友よサヨナラ〜
ついに明日、てっちゃんと西森さんがミャンマーを離れて、バンコクに戻ってしまう。自分は、あと1週間このヤンゴンで過ごしたあとにネパールへと旅経つ予定。最終日に3人で特に買う物もないのだが、ヤンゴン市内をグルグル見てお酒を買いこんで宿の冷蔵庫に入れておいた。宿にオーナーにも3人は明日チェックアウトをするので支払いと済ませておいた。オーナーも寂しくなるね!と言ってくれたのだが、出会いあって別れあり。これは、どこに行っても同じ事を繰り返すのだが、中国の広州で出会った、てっちゃんと西森さんとは、その後にベトナム・カンボジア・タイ・ミャンマーの旅を共にした掛替えのない友達であった。この半年弱一緒にいたのに明日が別れだと思うと悲しくなってくる。お互いに旅が終わったら日本で会おうね!と夜に冷やしておいたビールで乾杯し、自分が中国で買った偽物SONYのウォークマンを出してカセットテープを入れて音量を最大にして、ちょっとしたバーに早変わり。酒は沢山買っておいたので、みんな泥酔状態になり、踊り明かして、その夜を楽しんだ。一緒に旅をしてから、こんなに飲んだのも初めてと言うくらい飲み過ぎたが気持ちの良いお酒だった。何でも相談が出来て、信頼関係が築けた仲間と飲み明かすのは、とても楽しかった。いつの間にか3人は知らないうちにくたばって寝ていた。深夜の大騒ぎが終わった。
2014年12月06日
ミャンマーの旅23
シュエダゴン・パゴダは広くて金色に光ってるパゴダが多い。灼熱の暑さの中に訪れたのだが、なんと靴を脱がないといけないと言われて、足が焼けるほど熱くて、地元のミャンマー人は熱さに慣れているのか平然と歩いているが、自分達は日陰から日陰に逃げるように走った。写真を撮って見る所を急いで見て、シュエダゴン・パゴダを後にした。シュエダゴン・パゴダから帰る時に初めて軍人、軍事車両の大軍を見かけた。軍事国家という事を、すっかり忘れていた。暑い中、途中で水分補給しながら、スーレーパゴダに向かったが、ミャンマーで冷たい水分は主にミネラルウォーターかコーラ等の炭酸水しかなく、ポカリスエットやウーロン茶が欲しくなる事が多くなってきた。特に炭酸系には飽きがきていた。炭酸は暑い所で飲むと喉を潤してくれるのだが、さすがに毎日3本、4本の瓶を飲むと飽きる。タイでは、炭酸の他にも缶コーヒーやポカリスエットのような飲み物がコンビニで買えるので不自由しなかったが、ミャンマーでは日本のようなコンビニもなくて飲料水に関しては、まだラインナップが揃っていないのが現状であった。
しかも、炭酸は、正規のコカコーラがあるわけでなくて「スターコーラ」と言うバッタモンのコーラしかない。
味はコーラなのだが、やはりコカコーラの方が美味しい。7upなども同じくバッタモンしかなかった。
2014年12月05日
ミャンマーの旅22
ヤンゴンのエアコン付の安宿にチェックインしてから快適な毎日が送れ、夜はぐっすり寝る事も出来た。宿のオーナーとも親しくなり、フロントもエアコンが効いていて快適な場所となっていた。ミャンマーと言えば思いつくのが、軍事国家、アウンサン・スー・チーさんなので、オーナーにアウンサン・スー・チーはどこにいますか?と聞いてみた。オーナーはビックリした顔をして「誰だ?そんな人知らない!」と大声で返答してきた。これは結構予想通りでもあったが、こんなに血相を変えるとは思わなかった。アウンサン・スー・チーと言うのは、ミャンマーでタブーの事でもあり、名前を出すだけでミャンマー人は知らないと言う。そう言うしかないからだった。町の中には秘密警察が紛れ込んでおり、民主主義などを口にするだけで拘束されるのは知っていた。オーナーが必至に知らないと言ったのは、町中で聞いた訳でもなく室内で聞いたのだが、どうやら盗聴器が仕掛けられているらしいと聞いた。盗聴器の事は、後から知った事だったので、オーナーに悪い事をしたな。と反省した。ヤンゴンに戻り、あと3日で、長い時を一緒にした「てっちゃんと西森さん」とのお別れがついにやってくる事になってしまった。てっちゃんは、バンコクに戻りシンガポール、インドネシアに行く予定、西森さんは、バンコクに戻り今後の予定を組むとの事。自分はヤンゴンからネパールに行く事になっていた。楽しい思い出ばかりで、ずーっと一緒に旅をしたかった。喧嘩も一切なく、ここまで旅をしてこれたのは本当に2人がいたからだと思った。残りの日をヤンゴンの観光にあて、シュエダゴンパゴダに行ってみた。
2014年12月04日
ミャンマーの旅21
バゴーからヤンゴンへ戻ってきた。安宿のホワイトハウスは朝食付きだったが、夜が暑いのでスーレーパゴダ前にある安宿にチェックインをした。昔は日本企業が入っていたみたいで、その後にフロアを改造・仕切りを付けて安宿に変えたとオーナーが話していた。なんと、ホワイトハウスと同じ料金で個室になっており、嬉しいエアコン付!もっと驚くのは朝食が付いていた事だ。最初からヤンゴンでは、ここに泊まっておけばよかったと後悔した。トイレ・シャワーは共同だったが、清掃が行き届いており、清潔で綺麗。元の造りが良いので、すべてが綺麗だった。自分達は3人部屋にしてもらい、自分はエアコンの真下のベッドを取った。高温多湿の35℃の外からエアコンの効いた24℃の湿度40%ほどの部屋に入ると天国であった。ただ、停電になるとエアコンは使えないとミャンマーの電力事情には悩まされた。個室に入るとロビーで知り合った日本人や欧米人も、個室に入ってしまうので夜はほとんどコミュニケーションが取れないのがつまらない所だったが、自分達は3人いるので談笑するには個室でも構わなかった。部屋には窓がなくて、外が晴れているのか雨なのかも分からなかったが、エアコンが付いているだけで幸せだった。外に出ると目の前には、ヤンゴンの中心のスーレーパゴダがあり、闇両替の人達がたむろしている場所でもあり、少額の紙幣でも両替出来たので便利な場所であった。昼食は、相変わらずの中華レストランかサフランとカレーの店のどちらかしか行かなくなっていた。
2014年12月01日
ミャンマーの旅20
朝食を取り終わったあとに、可愛い女性がいる店へと戻った。日本語が話せる唯一の人だったのもあり、寝釈迦のある場所を聞きたかったからだ。この暑さで歩いて行くには、ちょっと遠いみたいだが歩いていけない距離でもないとの事なので、店でミネラルウォーターを買って、3人で目的地まで歩いて行く事にしてみた。灼熱の太陽が肌に突き刺さるように痛いが、未舗装道路を突き進んだ。地図を持たずに、ただ真っ直ぐに歩くのみだが暑くてたまらない。寝釈迦まで、あと何キロあるのだろうか。。。10分歩けば、かなり体力が奪われる状況の暑さで、なんとか目的地に到着。寝釈迦(スリーピングブッダ)の入口は閑散としており、本当にこんな所にあるのかな?と疑いたくなる場所だった。奥に進んで行くと人間がちらほら増えてきて、いきなり「どーん!と現れた!」かなりデカイ!よく造ったな。と言うのが、第一印象であった。おまけに寝釈迦の上には屋根まで付いていて手入れも行き届いているので綺麗であった。しばし、寝釈迦を正面にして見とれていた。あとから観光客も到着して混雑し始めてきたので、写真を撮って町に戻る事にした。戻る際にバゴーに行く人がいたので、小さいトラックの後ろに乗せてもらい、あの女性からもらったヒマワリの種を食べながら帰宅した。バゴーの町に着くと行く所は、食堂か、あの女性のいる店しかない。汗をかきまっくたので一回宿でシャワーを浴びて店へと出かけて、ビールを買った。冷たく冷やされているビールは格別に旨い!どこで日本語の勉強をしたのかと聞いたら、独学でバゴーに来る日本人から教えてもらったと言っていたが、バゴーに来る日本人男性なら、こんな可愛い女性に日本語を教えたくなるのは必然だと思った。いつかは日本に行きたいと言っていたが、恐らく日本人男性が黙っていないだろうから、すでに日本人と結婚をしているかもしれない。旅には出会いあり、別れありばかりである。ヤンゴンまでは2〜3時間で着いてしまうほどの距離であるから、バゴーにもうちょっといてヤンゴンに帰る事にした。