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2020年12月18日

中央では古墳時代、東北・北海道では続縄文から擦文文化へ。防御性集落と律令制度。北との交流。そして、「日本の神聖なる使命」

中央では古墳時代、東北・北海道では続縄文から擦文文化へ。防御性集落と律令制度。北との交流。そして、「日本の神聖なる使命」

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 日本の歴史では、縄文時代の後に弥生時代をあてている。この弥生時代は、稲作による水田経営によって人々は土地と深く結び付き、やがて広い土地を有し、収穫の多い人が支配するような社会構造を生ずるに至った。

 古代の王権担当者は、国家権力というおのれの支配下に、どれだけの民人がいるかを、簡単に掌握する方法として、水田農耕を国の大本と定めたにすぎない。

 戸口に編入して定住させる。居住地からの離脱、つまり亡命逃散は、これを罪と見なし処罰する。これによって権力者は、否応なく農民からの年貢を徴収することができた。

 最終的に、それぞれ耕地を割り振って、人々を泥田にはい回らせる。コメが取れようが取れまいがである。それを「政治」と考えたらしい古代王権の支配が及ばなかった東北・北海道は縄文時代後期末にコメの存在は知っても、長く狩猟・漁撈・採集を主たる生業として平和に暮らしていたようだ。

 本州に稲作文化が普及した後も、東北では北海道を代表する土器が各地で造られ、使われていた。
 

 青森県下全域、総計二十カ所以上の遺跡から発見され、南下ルートとしては、函館の東の汐首岬あたりから下北半島大間アあるいは尻屋アに入り、八戸をへて岩手県へ下るコース。または渡島半島白崎岬あたりから竜飛アに入り、岩木川をさかのぼって秋田北部へ下って行くコースなどが考えられている。

 古墳時代にほぼ併行する時代になると、北の続縄文文化の後北式に代わって北大式と呼ばれる土器が広く使われるようになり、宮城県北部まで分布が見られる。

 
 十世紀頃には、「防御性集落」というものが見られるようになる。これは、集落を環濠や土塁で囲むことを最大の特徴としており、おおよそ三つのタイプがあるという。

 第一のタイプは、十世紀半ばに成立したとされているもので、その集落の支配者(首長層)たちの竪穴式住居のみを空堀などで囲み、集落の主体部はその外側に広がるものである。だいたい40~50メートルあたりの丘陵(ないし急な崖)の先端部に空堀をめぐらして囲郭したりするものがある。

 第二のタイプは、やや遅れて十世紀後半に成立したとされ、集落全体を環濠や土塁などで囲郭するようになり、環濠自体もかなり立派なものとなる。土塁が堀の外側に設けられているところに特徴があり、これは弥生時代の環濠集落を共通するつくり方であって、実践本意ないし軍事優先の場合の典型的な集落のつくり方であるという。

 第三のタイプは、おもに岩手県域にみられるもので、海抜400メートルをこえ、麓との比高差でも200メートルをこえるような高い山頂か尾根筋につくられた、典型的な高地性集落ともいうべきものである。堀や土塁はあまり発達しておらず、集落というよりは戦時の避難場所ないし逃げ城的性格をもっている。

 東北北部から北海道南部までの「北緯40度以北」の地域にかけて100近く確認されているが、北海道には今のところ、渡島半島南部の原口館遺跡(松前町)・ワシリ遺跡(上ノ国町)・小茂内遺跡(乙部町)の三ヶ所しか発見されていない。

 これは北方産品をもたらす擦文人との交易関係を確立し、その権益を守ろうとする津軽蝦夷が、そこに介入する国衛・城柵・王臣諸家各勢力に対して防御のために造営したものと推定することができる。つまり、擦文人と津軽蝦夷の主たる交易の場とはならなかった道南地方には、本格的な防御性集落をつくる必要はなかったのだろう。

 
 阿倍比羅夫の「北征」で都に知られた粛慎(あしはせ)は、何者だろうか。

 推測されるのは、大陸東北部から樺太・北海道北部に渡ってきたツングース系部族。彼らは鳥の羽を木にかけて旗印としたり、滅亡に際してみずからの妻子を殺すといった風俗を持っているという。

 五世紀から十三世紀にかけて、サハリン南部・北海道のオホーツク海側・千島列島に展開したオホーツク文化の担い手であり、食料の多くを海に依存した海洋民族ではないか。

 道北を拠点にした粛慎は、日本海を還流するリマン海流・対馬海流にのって航海したらしく、『日本書紀』欽明天皇五年条には、佐渡に粛慎が現れて、その異様な風体から、彼らを「鬼魅」とよんでおそれたとみえる。この一族は、中国や朝鮮・日本が鉄器文化の時代に入っても、なお石鏃を使う習慣を保持しており、その石鏃をつけた楛矢という強力な武器を持っていた。

 北海道には、続縄文文化の時代にオホーツク文化をもつ粛慎が渡来していたようだ。

 阿倍比羅夫の三度目の「北征」の際、一行は渡嶋蝦夷の拠点・岩木川あたりに到着した。すると対岸の海辺に渡嶋蝦夷1000人余りが軍営を構えて「粛慎の水軍がたくさんやってきて、我等を殺そうとするので、川を渡ってそちらの軍の配下に入れてほしい」と大声で叫んだ。そこで比羅夫が船を対岸に出して、粛慎の居場所とその船の数を聞きだし、使者を粛慎のところにやってよびだしたのであるが、出て来なかった。

 その後「沈黙交易」は失敗し、戦闘に至るのだが、比羅夫軍は粛慎を打ち破り、粛慎は柵にいた妻子をみずから殺して滅亡したという。

 渡嶋蝦夷の視点からは、北から南下する「粛慎」に対して、北上してくるヤマト王権の軍事力を利用して対抗するという図式が成り立っていた。

 これ以降、渡嶋蝦夷は古代国家の強い影響を受けながら独自の社会を形成する途を模索することになる。


 これと同じように、「日本」の歴史として残っているものとは別の「地方」の歴史は数限りなく存在していることと思う。

 九州の熊襲、沖縄王国、他にも名を知られていない独自の物語がひっそりと伝承やおとぎ話、習慣や習わしなどとして受け継がれてきたことだろう。独自の文化や慣習が大事に守られていた時代には守護となっていた神々が大化の改新やGHQの政策に寄って、抹殺され、貶められてきた。

 日本の自然崇拝による信仰が薄くなってしまい、信仰と崇敬に寄って力を得ていた神々の力も弱くなっている。つまり、日本の守りはどんどん薄くなってしまっているということだ。

 戦争を語れる世代も少なくなってきた今、日本固有の数々の歴史を掘り起こすことはもはや不可能に近い。 

 それでも、日本国土固有の血を受け継いできた我々日本人は、その血が示す通り、内側にある聖なる祈りの文化を、自ら学んで継承していくことは出来る。禅や瞑想に代表される「氣」の文化や、仏教の経典、神社の祝詞など神社・仏閣の教えの真髄を学ぶことは出来るだろう。


 『国家の品格』を著した藤原 正彦氏の言葉に、「ああ、その通りだ!」と感銘を受けた文章がある。

「人間中心主義というのは欧米の思想です。欧米で育まれた論理や合理は確かに大事です。しかし、その裏側には拭いがたく「人間の傲慢」が張り付いています。
 欧米人の精神構造は「対立」に基づいています。彼らにとって自然は人間の幸福のために制服すべき対象であり、他の宗教や異質な価値観は排除すべきものです。これに反して、日本人にとって自然は神であり、人間はその一部として一体化しています。この自然観の違いが、欧米人と日本人の間に本質的差違を作っています。
 日本人は自然に調和して生きてきましたから、異質の価値観や宗教を、禁教令のあった時期を除き、頑なに排除するということはしませんでした。それをいったん受け入れたうえで、日本的なものに変えて調和させてきました。
 精神に「対立」が宿る限り、戦争をはじめとする争いは絶え間なく続きます。日本人の美しい情緒の源にある「自然との調和」も戦争廃絶という人類の悲願への鍵となるものです。
 日本人はこれらを世界に発信しなければなりません。欧米をはじめとした、未だ啓かれていない人々に、本質とは何かを教えなければなりません。それこそが、「日本の神聖なる使命」なのです。」








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2020年12月16日

十三湊、その興亡。蝦夷、奥州藤原氏、源義経北紀行との関わり。

十三湊、その興亡。蝦夷、奥州藤原氏、源義経北紀行との関わり。
〜参考文献、高橋克彦氏、山崎純醒氏、伊藤孝博氏、沢史生氏の著書より


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 享保年間(1317〜19)に書かれた『十三湊新城記』に十三湊の繁栄振りが書かれている。

「福島城は八十余町(九キロ)四方の規模を持ち、周囲に濠や土塀をめぐらし、築地を設け、その中に数千の家臣の家と数万の領民が甍を並べて住んでいた。白棟五七〇、出城一二、水軍船七〇隻、堂宇宿坊百社、異国の教会とインド人、中国人の館が建ち並び、十万の人々で繁栄していた。城外の草原には。数千頭の馬が放牧され、湊には、出船入船が賑やかに、水夫たちの唄声や囃し声をひびかせ、アイヌ・朝鮮・京からの船が群れをなして舳先を並べている」

 昭和三十(1955)年、東京大学の江上波夫教授(当時)らの福島城柵発掘調査が行われた。

 その際、城址は六十五万五千平方メートルの規模だったことが明らかになったほか、出土した磁器などから土三湊が博多港並の国際貿易港だったことも分かったという。

 平成三(1991)年から平成五(1993)年にかけて、富山大学と青森県教育委員会・市浦村教育委員会・中央大学などが行った発掘調査では、十三湊の全貌が明らかになっている。

 それに寄ると中央部を幅四〜六メートルの直線道路が町屋の中央部の道路と交差し、砂嘴の北端から南八百メートルほどのところに、高さ一・五メートルの土塁が造られ、南側に武家屋敷や短冊形の町屋敷が整然と並んでいたことが分かった。

 十三湊の山王坊の僧、弘智法印(1363没)が貞治二(1363)年に著した『十三往来』によると、十三湊は、インドの王舎城、中国の長安、我が国の平安京に匹敵する大都市であったという。

 十三湊にはサセラン人もいたといわれており、湊の遺構から中国の白磁、青磁、サセラン文様の陶器が多数出土している他、越前焼、珠洲焼、古瀬戸焼、唐津焼なども出土していて、国内中とも交易していたことが窺える。中国鴨緑江河口近くには、安東王国の分庁舎(大使館)とされる安東城が建っていたと中国の歴史書にも記されているそうだ。安東水軍の蓄えた富は、奥州藤原氏の富をはるかに凌ぐものだったと『安東水軍抄』(寛文二年著)に記されている。

 
 さて、津軽の民が古代から信仰していた神にアラハバキがある。御神体は黒光りする鉄の塊という謎めいた神で、未だに正体は解明されていない。

 ヒッタイトでは鉄製品をハパルキと呼んでいた。アラジャ・ホユックのハパルキが転じて、アラハバキになったのではないかという考えもあり、土器の類似性から、相当古い時代に龍を崇める民が日本に渡って津軽辺りに住みつき、縄文時代を作り上げた可能性があるのではないかと考えられる。

 そして津軽を中心に東北のアラハバキ神社を調べていくと、御神体はほとんどが鉄鉱石である。岩木山の麓にある岩木山神社もアラハバキを祀っているが、御神体は黒い鉄のような石だ。十三湊に近い荒磯崎神社も鉄鉱石を御神体にしている。


 それからこんな神々からの視点での物語もある。

 神武帝の時代、大和で神武帝の軍勢に徹底抗戦したナガスネの兄をアビといい、神武帝が東征に出て安芸の経営に七年の歳月を要したのは、このアビの軍勢に苦戦を強いられたからという『東日流(つがる)外三郡誌』の伝承がある。

 武運つたなく、東北の津軽地方に落ちのびたナガスネ(記紀ではナガスネは大和で誅殺されており、アビは登場しない)は、「たとえ、わが身は敗るるとも、日向族へのこの恨みをば、子々孫々に伝え伝えて撃ちてしやまむ」とうたい、大和奪還を誓い合ったという。のちの朝廷が、都から東北(うしとら)に当たるみちのくの津軽を、鬼門と定めたのはこれに寄ってではないかと言われている。

『備後国風土記逸文』には、昔、北の海にいた武塔の神が、南海の神の女子(むすめ)のところへ婚(よばい)に行き、蘇民将来の家に泊まった。このとき武塔の神が「おれはスサノオである」と名乗ったことが記されている。

 この武塔の神が泊地としたのは疫隈(夷住の意か)の国社で、広島県郡山市から芦田川をさかのぼった同県芦品郡新市町江熊の疫隈神社だという。疫宮(えのみや)(疫病神の神社)である。そこにはアビがいた。

 そのアビのところには、武塔の神ことスサノオが婚にきている。恐らくスサノオはアビの地を奪いにきて、和議が成り、アビの妹を妻としたのだろう。ここにスサノオはアビの義弟となり、アビの地を安堵したうえ、おのれの前線司令官に任じた。このはなしが『東日流(つがる)外三郡誌』のいうアビとナガスネの兄弟説なのではないかと考えられる。つまりスサノオとナガスネは同一神だったということである。

 スサノオの武塔天王は、「タケアララ神」とも呼ばれる。一方のナガスネには「アラキ神」、「タケアラキ神」、「アラハバキ神」の名がある。

 王権が未開野蛮の地としたみちのく津軽には、十三湊という日本海随一の良港がはやくから開かれていた。しかも徐福伝承まで残されているように、朝鮮や中国との古代の往来は、中央での想像以上ににぎわっていたと考えられる。


 学識者による従来の対蝦夷観は、「みちのくには個々の部族首長がいて、それぞれ独立戦を行っていた」といいうものだった。しかし、北倭・津軽の十三湊に、彼らの本拠があったと考えるべきではないか。そして伊治公砦麻呂にしても、大墓公阿弖流為にしても、彼らは北倭前線の防衛司令官として、王権の侵略を阻止する任に当たっていたのではないだろうか。 

 按察使・紀広純を殺害したあと生死不明となった砦麻呂や、胆沢を脱出して十カ月も姿をくらましていたアテルイが、実は津軽に立ち寄って、ナガスネヒコ以来のアラハバキ王・安東丸と、事後の方策を協議していたと見れば、脱出以後の彼らの空白に納得がいくのではなかろうか。

 中尊寺のある平泉町西南に達谷窟(たっこくのいわや)がある。坂上田村麻呂の討伐を受けた蝦夷の首領・悪路王の本拠があった場所といわれ、悪路王をアテルイに擬する史家もいる。その達谷窟は、洞窟の奥が津軽・外ヶ浜に通じていたという。外ヶ浜は津軽半島の陸奥湾沿岸の海岸である。十三湊を(北倭の)執政府と考えなければ、この地名は誕生しなかったであろう。

 その道は洞穴の通路ではなく間道だったと思われる。達谷窟からの抜け道は、多くの間道の一筋であり、すべての間道は十三湊に通じていた。砦麻呂やアテルイは、こうした間道伝いに十三湊に到達したのではなかったのだろうか。

 しかし、その十三湊は、南朝年号の興国二年、暦応四(1341)年十月十一日に二十メートルをはるかに超える未曾有の大津波に襲われ、都市全体が泥に埋まり、一夜にして滅んだと言われている。

 安東官僚代官の調書によると、人命十二万余、牛馬五千頭、船舶二百七十艘、黄金三十万貫、米六万俵、水田六百町歩、家屋三千二百十七戸、出雲大社並みの宏壮ぶりを誇っていた浜の明神をはじめ、神社仏閣二百七十棟がことごとく狂涛にさらわれ、消失している。そして大津波以降の十三湊は、アラハバキ王国の富と力を昔日に挽回させるべくもなく、一地方豪族として衰退の一途を辿って行ったのだ。


 最後に、奥州藤原氏の時代。藤原泰衡は、源義経を殺していない。亡き父秀衡の遺命どおり義経を逃がし、十三湊へ向かわせたのではないか、という源義経北紀行伝説がある。義経一行は、最終的に十三湊の福島城で、安東(藤)秀栄(ひでひさ)・秀元父子の出迎えを受けたのだと。


 負けた側の歴史は抹殺される運命にある。
 文字を持たなかったアイヌや蝦夷の東北の歴史は残っていない。





2020年12月13日

蝦夷の阿弖流為、アイヌのコシャマイン、シャクシャイン、クナシリ・メナシの戦い〜大和人による侵略の歴史

蝦夷の阿弖流為、アイヌのコシャマイン、シャクシャイン、クナシリ・メナシの戦い
〜大和人による侵略の歴史

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 阿弖流為は、中央政府の侵略に対して戦った東北蝦夷のヒーローである。

 宝亀十一年(780)、アテルイの戦いの前景としてアザマロの乱があった。陸奥国伊治郡一帯の俘囚長だった伊治公砦麻呂(これはるのきみのあざまろ)が反乱を起こしたというものだ。伊治は此治などとも記され、やがて栗原に転じたともいわれる。現在の宮城県の栗原地方である。

 俘囚とは大和国家の支配下に組み込まれた蝦夷を指すが、いったんは大和国家に帰服を余儀なくさせられた人々には鬱積した怨みが積もっていたのではないかと言われている。

 アザマロの蜂起は個人的恨みが切っ掛けで起こったというのが通説らしい。

 宝亀十一年(780)二月、陸奥国府から朝廷に対し、「覚鱉城を造りたい」との申し出があり、造営の勅が下った。胆沢地方の蝦夷の反抗を防ごうとするもので、予定地は今の宮城県北部か岩手県南部だったと見られている。

 同年三月、陸奥守(陸奥国の最高位)の紀広純(きのひろずみ)が、伊治城に入った。

 これを迎えた伊治公アザマロが、広純と彼に同行してきた牡鹿郡の大領・道嶋大楯を殺害したのが始まりとなる。大楯も元は蝦夷出身の俘囚長だったが、アザマロを「夷俘」と蔑んでいたからだという。
 
 
 アザマロの乱が勃発し、朝廷はなかなか平定出来ずにいる間に九年後の延暦八年(789)、いつの間にか姿を消したアザマロと入れ替わるかのように、アテルイが記録に登場する。

 アテルイは大墓公阿弖利為や大墓公阿弖流為などと記されている。年齢や前半生のことは全く分からないという。朝廷側の記録が東北先住民のリーダー格の名に「〜公」や「〜候」などを冠する場合、その人物が勢力圏にしている地名であることが多い。通説では、「たも」は、今の奥州市水沢区羽田町あたりの旧名である「田茂山」にかかわると考えられている。

 大和政権のあからさまな領土拡張と制服への夢に振り回され、犠牲になった大和軍とアテルイの郷の人々。

 アザマロの乱の平定時も、アテルイの郷への侵略も、大和軍はやる気がなかったらしい。無理やり動員されて前線に送られ、何の恨みもない俘囚の人々と戦わされるのだから、士気が上がらないのも当然だったとのこと。

 
「夷俘たちは、攻めれば山や藪に逃げ込み、手を緩めれば城塞を襲ってきて掠め取る。伊佐四古(いさしこ)、諸絞(もろしめ)、八十嶋(やそしま)、乙代(おとしろ)ら賊軍の首領たちは、一人で千人の兵士に相当する」


 胆沢城建設工事に寄ってその地方一帯が朝廷による行政管轄下に置かれることを強く印象づける作戦に出た田村麻呂に、「停戦和平」を働きかけられたアテルイとモレ(「盤具公母礼」(いわぐのきみもれ))は、田村麻呂とともに大和に赴いた。そして、延暦二十一年(802)八月十三日、河内国杜山で斬首された。

 アテルイたちが武器を置いて都に赴いたのは、一種の「朝具儀礼」の形で帰順の意を示し、せめても胆沢地方の同胞の安寧な暮らしを願ってのことだったろう。


 コシャマインの戦いは、「アイヌ民族の歴史」関口明・田端宏・桑原真人・瀧澤正 編 山川出版社によると、1457(長禄元)年五月に勃発した。きっかけは前年アイヌの男性と鍛冶屋との間でマキリ(鉄の小刀)の善し悪しをめぐる争いであり、鍛冶屋が男性を刺殺したことにあった。

 コシャマインをリーダーとするアイヌ軍は、道南十二館のうち、二館を残し、つぎつぎと攻め落とした。個人間の些細な諍いが大規模な戦いに発展するほど、「三守護体制」成立期にはアイヌ民族と和人の交易に軋轢が生まれていたのであろう。これは、アテルイの時代の蜂起とよく似ている。大和朝廷の侵略が招いた悲劇。

 この戦いを指導したコシャマインは『家記』によると、「頭部の酋長」とあり、根拠地は亀田半島の東部から、噴火湾沿いの地とみられる。おそらく「日ノモト」アイヌが戦いの主体であったのであろうと言われている。

 『記録』によれば、この戦いは武田信広がコシャマイン父子を射殺し、他のアイヌを惨殺したことによって、「凶賊悉く敗北」したことになっている。ここでも勝者に寄る歴史は一方的な正義を語る。

 
 不平等な交易に虐げられてきたアイヌ。シャクシャインの戦いは、松前藩がアイヌの人々が松前へ出向いて交易することを禁止したことに寄って引き起こされた。当時、三守護体制が敷かれた渡嶋半島(北海道)では、アイヌは蝦夷地各地を訪れる和人の商人を待って、その商人とのみ交易をしなければならないとなっていた。その和人優位の仕組みのもとでは、「押買」(無理に安値で買い取る)などの横暴も目立ち、数量や金額を誤魔化したり騙したりは日常茶飯事だったらしい。

 抗議のために松前へ出向いたヨイチアイヌの長老は、首を切る、ひげを切るなどと脅され、憤慨して帰郷し、蜂起を呼び掛けたこともあったという。

 すでに不満は積み重ねられており、シャクシャインに呼応する勢力も多かった。1669(寛文9)年六月下旬からは各地で和人への襲撃が始まり、東蝦夷地ではシコツ(勇払郡、千歳市)〜シランカ(白樺)の間の八ヶ所、西蝦夷地ではヲタスツ(歌棄)〜マシケ(増毛)の間の七ヶ所で和人が襲撃され、三百数十人以上が殺害された。

 松前藩はクンヌイを固め、鉄砲の威力でアイヌ勢を撃退し、城下をうかがわれる危機を乗り切っている。そして、鉄砲の威力でアイヌ勢を威圧、シャクシャインの本拠地シブチャリ(静内)へ迫った。

 シャクシャインは和議交渉の場に出て行かざるを得なくなり、その和議成立の祝宴の際に殺されてしまった。これも、アテルイの最期を彷彿とさせる。騙し打ちだ。


 1789(寛政元)年五月初め、クナシリのトマリで目付竹田堪平が殺害され、クナシリの各地でも襲撃が始まり、殺害された和人は二二人、クナシリ対岸の北海道側メナシでも五月中旬に蜂起が始まり、各地で四九人が犠牲となったという。

 蜂起の理由とは、アイヌの人々は自家用の食料準備の暇がないほどに和人に使役され、その割には手当はひどく少なく、クナシリ惣長人は毒酒で殺され、薪でたたかれたり、薬を飲まされたりで、殺された者もいたという。女性に対する理不尽な「密夫」もひどく、抗議するとかえって脅され、理不尽な扱いが続いていたことに寄る。

 ここでも最終的に出頭してきた者たちは取り調べのあと、斬首。斬首執行中に牢内に残っていた者たちが暴れたため、鉄砲を撃ちこまれて全員が殺害されたという。


「エミシ」の語義について。「ユミシ」=「弓師」がエミシに転訛したのではないかと言われている。

「エゾ」は樺太アイヌの「エンチウ」(enchiw=人・男の意)によるといわれているそうだ。もともとは擦文人(渡嶋蝦夷)が使っていた「夷語」ではないかと。それが「エンジュ」になり、「エンジョ」、「エゾ」に転訛したのではないか。

 八世紀後半頃から、朝廷側ではということだろう、「蝦夷」の表記は、次第に「賊」や「敵」という表現に変わり、九世紀以降には「異類」。

 蝦夷の狩猟民性から本来は「ユミシ」と呼ばれたものが、音の類似性から水底を動き回る「蝦」と、中国の方位に基づく野蛮人の表現法「東夷」の合成語として「蝦夷」が成立したのではないかという。


 1646(正保3)年に、松前景広が編纂した『新羅之記録』によると、源頼朝が藤原泰衡を追討した時に、多くの人が「糠部津軽」から蝦夷へ渡り、一部は「奥狄」に逃れ、その子孫が狄(アイヌ)化したと記されている。

 つまり、東北の蝦夷と呼ばれた人々とアイヌは同じ時代を同じ場所で生きたことがあったのかも知れない。そして、混血が進み、同じ縄文人の流れを築いていったのではないだろうか。



追記として。『閉ざされた神々』黄泉の国の倭人伝 沢史生 著 彩流社 より

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2020年12月03日

出雲大社と因幡の素うさぎ 〜歴史は常に勝者によって編纂されていく〜

出雲大社と因幡の素うさぎ
〜歴史は常に勝者によって編纂されていく〜


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 教科書では縄文時代が終わってもっと進んだ弥生時代が始まった、という風に習った。しかし、当時すでにその論に疑問を投げかけていた友人がいた。

 縄文時代の土器が弥生時代の土器より時代が古く劣っているなんてそもそも間違っている、縄文時代の土器の方が技術的にずっと優れている、と友人はそのとき言った。

 そのときはあまりピンとこなかったが、どちらが優れているかどうかは別として、時代が変わったために土器が変わった訳ではなく、そもそもまったく別の人たちが作ったものが残っているから時代が変わったと看做されていたのだろうと思う。

 
縄文時代:狩猟採集社会(紀元前145世紀〜10世紀)
弥生時代:農耕社会(紀元前10世紀〜紀元後3世紀)


 135世紀も継続した縄文時代は平和な時代でもあったのだろう。自然と一体化した精神性の高さはアイヌに名残を留めているように思われる。それから、東北のアテルイの時代も。

 その太平の日本に、九州北部あたりに外から入ってきたのが稲作文化を持つ弥生人だ。フロー(流れる)文明にストック(資本蓄積)文明が入ってきた。ストック文明は土地がほしいので、弥生時代になると一転、争いの国土となっていく。


 国譲り神話では、大国主神は、「私には何の異存もありません。ただひとつ、国を譲る代わりに私の住居として、大きく立派な御殿を建てていただきたい。自分の子供たちは、事代主神が率先して天つ神(あまつかみ)の子孫に仕えるのであれば、それに従わない者はいない」と、自ら退いたように語られている。
 

 素ウサギ神話というのは。

 オオナムジ(大国主命)は、スサノオ命の子のひとりで、80人もの兄弟神(八十神)がいた。兄弟神たちは、皆、稲羽の八上神を妻にしたいと考え、連れだって稲羽に向かった。オオナムジは袋を背負わされ、従者のようなかっこうでつき従っていった。

 やがて一行が気多の前にさしかかると、そこに赤裸に皮をむかれたウサギが伏せていた。
 赤裸にむかれて苦しむウサギに向かって、兄弟神たちはいった。

「おいウサギよ、海の塩水を浴びたあと、風にあたってみたまえ。高い山の尾なら、風もずいぶんふきさらしだろうから、そこに伏せているとよくなるだろう」

 いわれたとおりにしたウサギは、一層ひどい痛みにもだえ苦しんだ。そこにオオナムジが通りかかり、わけを問うた。

「私は於岐の島のウサギでございます。かの島からこちらに渡りたいと思いましたが、方法がございません。そこでワニをだまして彼らをズラリと岸まで並べ、その背を跳びながらこの岸に渡ったのですが、そのときついた嘘がバレて赤裸に皮をむかれ、おまけに八十神の教えに従ったらこのざまです」

 そこでオオナムジは、真水で身を洗い、蒲英をまき散らしてその上を転がると癒えることをウサギに教えた。いわれたとおりにしたウサギの体はもとどおりになり、稲羽のウサギ神となった。そのウサギ神の申すよう―。

「あなたの兄弟神は八上姫を得ることはできますまい。袋などかつがされているとはいえ、八上姫と結ばれるのは貴神です」

 という物語である。

 ウサギは月と結びついている。これは広く東アジアの伝説中に見ることができる。中国では月を「玉兎」という。また、ウサギを「名月の精」ともいう。中秋の名月を楽しむ風習は、もちろん日本だけのことではない。中国では「兎児爺(トルイエ)」という牡ウサギの土人形を月神に見立てて飾った。月の中に住むウサギはオスだ。このオスが月を定期的にはらませる。というのも、月は女性、あるいは無意識の普遍的象徴だからだ。

 このことから、ウサギは無意識世界と意識世界を結ぶ動物だということがわかる。


 さて、九州に上陸した外来の弥生人が、土着の縄文人を支配していく。そして支配がなった後に、それを正当づけるために編まれるのが歴史書(「古事記」(712年)や「日本書紀」(720年))だ。

 記紀の中で、葦原中国(あしはらのなかつくに=日本)は、高天原(たかまがはら)を拠点とする天津神(天の神:弥生勢力?)によって平定されている。国津神(国の神:縄文勢力?)の最後の抵抗勢力は大国主(スサノオの子、出雲大社の祭神)だったようだ。記紀の中では、その大国主が国を譲って天津神は正当な統治者となる。これが権威の根源である。

 縄文日本には津々浦々まで龍神が祭られていた。伊勢の地にも、ニギハヤヒ(別名:天照大神アマテルオオカミ:男神)と一対で祭られていた龍神(女神)がいた。それが瀬織津姫である。

 持統天皇は、全国的に勢力を持つ瀬織津姫を封印しなければならなかった。それが縄文(国津神)の女神だったからだ。そこで、伊勢神宮の祭神を天照大神(アマテラスオオミカミ)の女神(一神)とし、記紀から瀬織津姫の名を省き、地域の各神社の祭神を瀬織津姫以外に変えるように命令した。

 持統天皇は、「千と千尋の神隠し」で千尋の名を奪った湯婆婆のごとく、瀬織津姫の名を全国から奪っていった。抵抗する神社は迫害にあったり、殺されたりすることもあったようだから容赦はない。命まで奪っていく非常さの裏に、凄まじい孤独と不安の闇が見える気がする。

 この、持統天皇は女帝でありその生い立ちは数奇なものだった。

 大化の改新(645年)の中心人物である天智天皇(中大兄皇子)は、蘇我入鹿を打ち破ったときの同志である蘇我石川麻呂の娘遠智娘(おちのいらつめ)を嫁(の一人)としてもらう。が、右大臣となり勢力を増す石川麻呂に脅威を感じたのか、「裏切り」の濡れ衣を着せて攻め滅ぼす。夫に両親を殺された遠智娘は悲嘆のあまり亡くなり、2人の娘が残された。

 その次女が13歳の時に天智天皇の弟大海人皇子に政略結婚させられた。その次女が後の持統天皇である。

 夫(父の弟)に祖父母及び母の仇である父を討たせた持統天皇は、天武崩御後、実権を掌握。子に先立たれたが、孫のバックについて日本初の上皇(太上天皇)となって政治を支配し続けた。

 このように見ると、家庭崩壊、一族滅亡、国家滅亡までも見せられてきた持統天皇は、何が何でも安定した強い国作りをしようとしたのではないだろうか、と家族カウンセリングを行うカウンセラーさんは見ている。法治国家を推進したのも(「大宝律令」を完成(701年))、中国に倣って日本で初めて都城制による城郭都市を建設(藤原京)したのも、不退転の決意と執念を感じさせる。

 策略家と言われている持統天皇だが、内実は、怯えた女の子(外から見ればブラックホール)が完璧な安心を得るために、自分を守る城塞、人を罰する刑罰など、あれもこれも整備していったのかもしれない。

 生まれてこの方、人の裏切りを見過ぎてきた持統天皇。壁を作り、罰則を作っても安心できない。問題は人の心の中にあるからだ。そこで、人々が決して自分に向かってこないように、自分の権力を絶対的なものにする必要があった。そして人々の心を権威に向かって統一する必要があった。悲しい人生である。


 素ウサギは、出雲と深い関係があり、ウサギが無意識に関係するということは、魂の故郷にも通じているのではないかと思われます。

 神話の世界を旅してみると、日本人のルーツにも思いを馳せることが出来ます。各地に残る伝承、文字を持たなかった地域の歴史を探ってみると思わぬ宝物が埋もれていることに気付くかも知れません。
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2020年11月27日

陸奥蝦夷の首領・阿弖流為と征夷大将軍坂上田村麻呂、古代日本人と自然との関わり

陸奥蝦夷の首領・阿弖流為と征夷大将軍坂上田村麻呂、古代日本人と自然との関わり

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 阿弖流為を語る際には、その最期を招いた人物として坂上田村麻呂を抜きには出来ない。東北には、この坂上田村麻呂が創建した神社が数多くある。
 坂上田村麻呂は758年に坂上苅田麻呂の次男または三男として誕生。(※坂上田村麻呂の具体的な誕生日は不明です)
801年、坂上田村麻呂は4万の軍勢と5人の軍艦、32人の軍曹を率いて平安京から蝦夷(えぞ)最大の根拠地、胆沢(岩手県)に出征します。ちなみに蝦夷(えぞ)とは日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称。
(※蝦夷の読み方は「えぞ」以外にも次の2つで呼ばれることがあります。「えみし」「えびす」)
そして坂上田村麻呂は胆沢攻略に成功し、従三位・近衛中将に任じられる。
802年には胆沢に胆沢城を築き鎮守府をここに移したとされる。それと同時に坂上田村麻呂が降伏した蝦夷の首領2人を都に連れていく。蝦夷の首領二人とは、阿弖流為と盤具公母礼だよなぁ、と。
坂上田村麻呂は蝦夷の首領2人を処刑することを最後まで反対し、嘆願したと言われているが、これに懐疑的な意見も実はある。結局、蝦夷の首領2人は処刑される。そして、「怨霊」ないし「御霊」と化して祟りをなした悪路王が誕生することになる。朝廷側は祟り鎮めのために、リアルな頭形つまり生首の木像がつくらせ、これを祀ったという。
祟ったということは、大和の側がよほど汚い手を使ったか、あるいは奸計にはめて殺害した可能性をうかがわせるだろう。そもそも、うしろめたいから鎮魂するのである。

『アテルイ〜はるかなる母神の大地に生きた男(ひと)〜』愚安亭遊佐・又重勝彦著 自然食通信社に寄れば、文字を必要としなかったアテルイ達エミシの残した記録はない。しかし、記録されなかったアテルイ達の生きた残照は、現代にも見ることができる。盆や正月に帰ってくる先祖の霊魂の話は、仏教では説明がつかない。正月のしめ縄も、現代の神道では説明がつかない。お供えもそうだという。
 文字を持たなかった我々の先祖は、記録がないために、その後好き勝手な伝説を語られている。この「悪路王」も、「むかし、陸奥一帯を支配し、大和朝廷の東北支配に対抗した「蝦夷」の大王のことである。悪路という用字にも明らかなように、そうとう手強い大王だったようで、朝廷が派遣した軍隊と互角以上にわたりあった。いや、しばしば朝廷軍に強烈なパンチを食らわせた。そこで坂上田村麻呂が悪路王を退治し、蝦夷たちを大和に帰順させたという話になる。」と、あらまたひろし(作家)さんは語る。
 先祖の霊魂の話は、仏教より、アイヌ民族の死生観で説明したほうがしっくりくるという。
 お供えはとぐろを巻いた蛇、しめ縄は、交合する蛇。蛇の姿に神を見た信仰がなくては、説明がつかない。他の生き物をきちんと観察することで、人間を超える力の存在を見つけられた人々だけが持ちえた信仰。世界共通と思えるほど、蛇に対する信仰が広がっていた時代があった。その後、蛇は殺されていく。その時期が、文明の始まりに重なっている。蛇の脱皮は、死と再生に見えた。
また、諏訪の御柱、青森のねぶた祭、岩手の鬼剣舞、鹿踊り、等々、何を持ち出して説明すればよいのだろう。
 
 「アテルイ」という芝居のシナリオに、蝦夷の暮らしと叫びが見事に再現されていると思う。
『あたしたちは、ここに、あたしの母の母の母の、さらに遥かな母のときから、幾百幾千の夏の季節と冬の季節を経巡り、ここで暮らしてきた。
ここはあたしたちの大地。ヒタカミ。
いや、あたしたちだけじゃない。天地の狭間に生きる、すべての生き物の命を尊び、敬い、木の恵み、大地の恵みに、感謝と祈りを忘れないものにとっては、誰のものでもある大地。』
『それが、あたしの母の母の母の母の母のある日、あの人たちがここへやってきた。
そして、いきなり宣言した。
「ここは肥えて広くて、金も取れれば鉄も取れる。たいした、いいとこだから、ここを、おれたちによこせ」
だから、戸惑いながら答えた。
「あんたたちもここに住みたいでしょう? ヤマトから来たんでしょ。いままでも、ヤマトから来た人で、ここに住んでる人がいるよ。あたしたちは、住みたいって言うのに駄目とは言えないでしょう。ここは誰のものでもないのだから」
次に、あの人たちが来た時、手に斧と、鍬と、鋤を持ってきた。しかも、大勢で。
そして、みんなで木を切り出した。大地を掘り返し始めた。
それを見て、あたしの母の母の母の母の母の人たちは青ざめ、必死になって叫んだ。
「あんたたち、なにするの。そういうことしちゃ、だめなんだよ、木に許しをもらった? 大地がいいって言った? 祈りは済んだ?」
そしたら、あの人たちは、斧や鎌や鋤を振りかざした。
後ずさりしながら、あたしの母の母の母の母の母の人たちは叫んだ。
「木が痛いと叫び声をあげてるのが、あんたたちに聞こえないの。大地が嫌だと言ってるのが、あんたたちに聞こえないの」
「だめだよ、木、切れば、だめだ。祈りも、感謝もなく、ただ、切るなんて、だめだ。そういうことすれば、生き物たち、生きていけなくなる。生き物たち、生きていけなくなれば、人間も生きていけなくなる。そんな罰当たりのこと、しちゃあ、だめ。やめてください、お願いします。やめてけろ、やめてけろって、やめてけろ、やめてけろ、やめろ、やめてけろ」
みんな必死になって叫んだ。』

 征夷とか討伐とかっていうのは、中央政府側からの言葉であって、こちら側からすると侵略だ。
 狩猟採集民(縄文人)と、農耕民(弥生人)はそもそもまったく別のヒトビトだ。狩猟採集民は農耕民に比べて心優しい人たちだったとも言われる。何故なら、彼らは土地に拘泥しないから、土地を確保するために攻めに行く必要もない。だから阿弖流為たちの戦いは、そもそも専守防衛だけの戦いだったのだと。
 アイヌに魂送りの祭のイヨマンテが残っているように、あらゆる生きている命を奪って生きているがために、命への感謝の祭を忘れなかった人たちが東北の縄文人だったと思う。
 
『岩手県市町村地域史シリーズ24 紫波町の歴史』岩手県文化財愛護協会編 川村迪雄著に寄ると、
『奈良時代末期から平安時代初期の志波地方は、胆沢地方とならんで、北上川中流域の蝦夷社会の中心をなしていた。そして大墓公阿弖流為(おおはかのきみあてるい)とか磐具公母礼(いわぐのきみもれ)、あるいは胆沢公志波阿奴志己(いさわのきみしわのあぬしこ)などの指導者を中心に、連合体としての強大な勢力が組織化されるようになっていた。
 『続日本記』によれば、宝亀(ほうき)五年(774)以降たびたび征夷作戦が展開されている。宝亀七年(776)の志波村の蝦夷の反乱では、出羽の国府軍が敗北し、翌八年十二月にも志波村の蝦夷が出羽に出撃して、国府軍を破った。
 このころの記録には、“志波村”の記事がたびたび出ていて、志波地方の蝦夷の勢力は組織的に強化されていて、優秀な指導者がいたことがうかがわれる。』



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田舎で完全予約制の鍼灸院をやってます。 田舎とは言っても、車で30分くらいでイオンもあり(田舎じゃん!)、バスは一日に数本あり(超! 田舎じゃん!)、でも、JRの駅が徒歩圏内(ま、はいはいって感じ)にあります。
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