私はこういうものだったと知らされて
主著の教行信証などに書かれたお言葉がいっぱいあります。
つまりブッダのお言葉間違いなかった。
私の事だったと
本当の私の姿が疑いなく知らされた姿を書かれ、
それがそのまま全人類の姿であった。
自分の姿を通して全人類の姿を明らかにされています。
親鸞聖人ほど自分の罪悪に苦しまれ自分の罪悪に苦しまれた方はない。
親鸞聖人ほど罪悪観の深い人はないと評されます。
心と口と体
法律では一番中心は体。
体で人を殺したなら逮捕。
あんなやつ死んでしまえと心で思っただけで逮捕ということはない。
心で思っただけで逮捕、昔そういう映画もあった。
未来を予言する能力を持った人が特殊警察みたいなのに囲まれて明日ここでこういう事件が起きます。
明日殺人事件が起きるイメージ。
殺される人と殺す人が全部わかる。
明日殺人事件を起こす人を今日逮捕する。
これが完璧に行われれば殺人によって死ぬ人は0になる。
最高の防犯だというのが開発されたという映画。
だけどそこに問題があって、それを逆手にとって犯罪を犯すものがあったがそれは映画を見てください。
そういう映画を考えつく人は体でやってしまったら
ダメだけど体でやるものは必ず心で思ってからやるはずだから心が重い。
こっちが先だということ。
しかしながら仏教では2600年前から、口や身体よりも、心を最も重く見られています。
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