また、仏教の信心、と他の宗教の信心との違いを東洋思想で信疑一如といわれます。
信疑一如という言葉自体は仏典やお経には出ていないと思います。
しかしながらこれは、信ずることと、疑うことが一つのごとし
とありますから、おかしいな、と感じます。
普通、この2つは反対だと思います。
ところがよく考えると、
これは同じ、一つのようなものなのです。
1足す1は2です。
こういう時には信じるとは言いません。
信じるとはどういう時に使うかといいますと、疑いのある時に使うのです。
あまりにもはっきりしている時には信じるという言葉は不要になるのです。
信じる、というのは疑いがあるからです。
ロッキーで親友が、おまえは負けないと信じる、
おまえの勝利を信じている、と何度もいいます。
その相手は強いからそういうことをいうのです。
今度の相手だけは危ないかもしれない、という時にそういう言葉が出てくるのです。
それはロッキーが負けるかもしれないと思って疑っているから。
疑いがむくっと出てくる時に、それを押さえつけるためにいう言葉。
あまりにも明らかな事は信じるとは言わないのです。
マークシート、7問目が分からない。
今までBが多かったから今度はCじゃないかと信じる、それは疑いがあるから。
また、あなたの夫は浮気していますよ、と言われて、
私は夫を信じます、と言うのは、疑う心を強く押さえつけているのです。
そういう時に遣う言葉が信じると言う言葉です。
ところが仏教の信心は、
無疑の信心です。
つゆちりほどの疑いもなくなった信心です。
明らかに知らされる体験が信心決定です。
兎の毛でついたほどにも疑いがなくなります。
仏教の信心と他の宗教の信心は、この点でもまったく違うのです。
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