秘事法門の人は、
「信心は人それぞれ違う」
といます。
人それぞれ違うなんて、
お釈迦さまはどこにもおっしゃっていません。
本願成就文に、
信心歓喜乃至一念
とあります。
あらゆる人々が、その名号を聞いたときに、
信心歓喜とハッキリするということです。
「信心」とは心の闇が破れて明るい心になったということ。
本願では「信」です。
「歓喜」とは楽しい心になったということです。
本願では「楽」です。
そういう心になれますよと。
「一念」は、時剋の極促といわれ、何億分の一秒よりも短い時間のきわまりです。
ハッキリしないわけないでしょう。
どんな人でも、すぺての人が「その名号」を聞いた一念でハッキリするんだよと、
おっしゃっています。
どこに「後からだんだん」なんて書かれているか。
「乃至じわじわ」と説かれていますか?
ないでしょ。
人間の行いが一人一人違うから信心が違うと言ったら、それは自力の信心だ。
信心同異の諍論をもう一度開いてみましょう。
信心のかわると申すは自力の信にとりてのことなり、
すなわち智慧各別なるが故に信また各別なり。
他力の信心は善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、
源空が信心も善信房の信心もさらにかわるべからず、ただ一なり。
我が賢くて信ずるにあらず。
信心のかわりおうておわしまさん人々はわが参らん浄土へはよも参りたまわじ、
よくよく心得らるべき事なり。
(御伝鈔)
浄土宗を開かれた法然上人の下された判決です。
各別というのは、各々別と言うことです。
業が一人一人違うから、信心も違ってくる。
これが自力の信心。
「この法然と異なる信心の者は、極楽へは往けないぞ。
後生の一大事、よくよく心得よ」といわれています。
秘事法門の僧侶は、外見上は
お寺に住んで、葬式や法事をやっている場合もあるけど、
「信心は人それぞれ違う」というだけでも
いかにいい加減な連中かと言うことが分かります。
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