親鸞聖人が人生の目的を達成され、
真実の自己を照らし出されたお言葉を「悲嘆述懐和讃」
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
浄土真宗に帰するとは雑行を捨てて本願に帰した、
しかし真実のまことの心が親鸞にはありません。
ちょっとありますということでなく全くない。
清らかな心も全くありません。
真実の自己の照らし出された世界をいわれている。
外儀のすがたはひとごとに
賢善精進現ぜしむ
貪瞋邪偽おおきゆえ奸
詐百端身にみてり
外がわは賢善精進をしている。
心の中は貪欲、瞋恚、邪偽、かんさももはし
奸とは奸計といいます。
詐は人を騙す心。
ももはしは百端ということです。
騙したり裏切ったりする醜い心が体に満ちている。
この辺は善導大師が教えられたことです。
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、
貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。
三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、
また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。
もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して
日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、
すべて雑毒の善と名づく。
この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、
これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、
因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、
三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由ってなり。
おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。
また真実に二種あり。
一つには自利真実、二つには利他真実なり。
乃至不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。
またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを
須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。
ここから言われている。
悪性さらにやめがたし
心は蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる
これも先ほど言われた
少慈小悲もなきみにて
有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき
少慈小悲もない、小さな慈悲のかけらもない。
人に慈悲をかける、そんな心思うはずもない。
阿弥陀如来の本願という船がなければどうして
この苦しみの人生を明るく楽しく渡ることができようか。
できません。
蛇蝎奸詐の心にて
自力修善はかなうまじ
如来の廻向をたのまでは
無慚無愧にてはてぞせん
善導大師もいわんとされたことはこのような自分が知らされる。
三業で良いことしていくと、結局悪性さらにやめがたい自分が知らされるのですよ、
といわれている。
それを親鸞聖人がお言葉をそのまま使われて
このように言われたのです。
御心は全く同じ。
共に大善知識と仰がれる所以です。
親鸞聖人は善導大師の御心がよく分かっておられたからこそ
善導大師の書かれた文章を受けられて、
間違いなどと一言もおっしゃっていません。
そのまま御心を受けられて進めば
このような自分が知らされるんですよ。
ここが決勝点です、ここまで善導大師が教えられたとおり
良いことをしていこう。
善導大師の心をおっしゃっておられた
親鸞聖人だからこそこの様な読み替えができるのです。
オリンピックでバトンリレーが出ますが、
親鸞聖人が善導大師のバトンをパッともたれて走られたと言う感じです。
一方が遅くて、一方が早いのでも駄目です。
共に早くないと。
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