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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年10月20日

定めなき風・無常

人生の目的を果たす上で大事な歌です。

しっかり理解して貰いたい。

 

定めなき風にまかせて散る花を
花とばかりに思い眺むる

 

この花と言いますのは私たちの命を喩えています。
風は無常の風のことですね。
定めなき、定めがない。
いつどうなるか分からないのが私たちの命です。
定めがない常がない。

 

この世は無常です。
花は、風にまかせて散ってしまう。
風が吹けば花は散る。
無常の風が吹けば、

無常の風とは私の死。
命がなくなってしまう。
儚い命を持っている私たち。
いつ無常の風が吹くか分からない。

 

私たちは花が散っているとき風流だと

自分のことだと思わないで見ているが、
人が死ぬのを見ても自分が死ぬとは毛頭思えない。

 

昔の人は花の散るのを縁として無常をといつめ、

真剣に求めたと言います。


この世の有様を見て無常を観ずる。

 

宿善が薄いことを自覚したら、

テレビやラジオで様々な事件が報道されている。
それを人の死とばかり眺めないで、
今度はお前の番だぞ今日は明日は我が身だと

無常を問いつめる御縁としなさいと。


その心がけがなかったら臨終まで間に合いません。
定めのない風に任せて、今日とも明日とも知れない。
風に任せてどんどん散っている。
どんどん人は死んでいる。
それを人の死と思って自分が死ぬことを忘れている。
それでは駄目ですよ、目を覚ましなさいと教えておられます。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2017年10月19日

人生の目的を果たしたらこんな心になります


親鸞聖人が人生の目的を達成され、

真実の自己を照らし出されたお言葉を「悲嘆述懐和讃」

 

浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし

 

浄土真宗に帰するとは雑行を捨てて本願に帰した、
しかし真実のまことの心が親鸞にはありません。
ちょっとありますということでなく全くない。
清らかな心も全くありません。
真実の自己の照らし出された世界をいわれている。

 

外儀のすがたはひとごとに
賢善精進現ぜしむ
貪瞋邪偽おおきゆえ奸
詐百端身にみてり

 

外がわは賢善精進をしている。
心の中は貪欲瞋恚、邪偽、かんさももはし
奸とは奸計といいます。
詐は人を騙す心。
ももはしは百端ということです。
騙したり裏切ったりする醜い心が体に満ちている。
この辺は善導大師が教えられたことです。

 

外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、
貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。
三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、
また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。
もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して
日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、
すべて雑毒の善と名づく。
この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、
これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏
因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、
三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由ってなり。
おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。
また真実に二種あり。
一つには自利真実、二つには利他真実なり。
乃至不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。
またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを
須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。

 

ここから言われている。

 

悪性さらにやめがたし
心は蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる

 

これも先ほど言われた

 

少慈小悲もなきみにて
有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき

 

少慈小悲もない、小さな慈悲のかけらもない。
人に慈悲をかける、そんな心思うはずもない。
阿弥陀如来の本願という船がなければどうして
この苦しみの人生を明るく楽しく渡ることができようか。
できません。

 

蛇蝎奸詐の心にて
自力修善はかなうまじ
如来の廻向をたのまでは
無慚無愧にてはてぞせん

 

善導大師もいわんとされたことはこのような自分が知らされる。
三業で良いことしていくと、結局悪性さらにやめがたい自分が知らされるのですよ、
といわれている。

それを親鸞聖人がお言葉をそのまま使われて
このように言われたのです。
御心は全く同じ。
共に大善知識と仰がれる所以です。

 

親鸞聖人は善導大師の御心がよく分かっておられたからこそ
善導大師の書かれた文章を受けられて、
間違いなどと一言もおっしゃっていません。

 

そのまま御心を受けられて進めば
このような自分が知らされるんですよ。

 

ここが決勝点です、ここまで善導大師が教えられたとおり
良いことをしていこう。
善導大師の心をおっしゃっておられた
親鸞聖人だからこそこの様な読み替えができるのです。

オリンピックでバトンリレーが出ますが、
親鸞聖人が善導大師のバトンをパッともたれて走られたと言う感じです。
一方が遅くて、一方が早いのでも駄目です。
共に早くないと。

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posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2017年10月18日

御仏壇の線香の意味

お線香はたてているかな。
灰がこぼれて危ないときは寝かせても良いです。
普通、二つに折って両方に火をつける等。
線香たてるのは仏前の匂いを香しい物にするため。

 

人間は体臭がありますからその匂いを消すため。

りんはお勤めの前にならします。
正信偈の前に二つならします。
あれは、どういう意味ですか。


チーン、チーン、今からお勤めを始めますという合図
というのと二回ならす、間をしめすということです。

 

初めの早さを設定する。
チーン、チーンで間をあなたに知らせる。

正信偈終わった後、そして最後に三つ。
ただし、夜中はりんが響くのでならさないこともあります。
線香も危ない場合は小さくても火なので燃えることもありますので

あえて線香を炊かない場合もあります。
最近は落ち着く心のケアの為に焚くこともありますが。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年10月17日

頑張ったら人生の目的が果たせる?

「光に向かって進む者は栄え、闇に向いて走るものは滅ぶ」

これは仏教の教え
仏教の教えは多くの人に勇気を与えてくれる。

 

 

ここでいう「光」とは何か、これを考えてもらいたい。
実際に良いことをすれば幸せになることはできるが、

それは相対の幸せであって、人生の目的ではない。

 

これを考えるのが仏法者。

光とは人生の目的の事です。

 

人生の目的は日常生活の善根によって達成できるか。
これはできない。

ではどうして善いことを勧められるのか。

阿弥陀如来が、19願で勧めておられるからです。

 

ですから、
私たちの行う善は、すべて宿善になります。

浄土和讃
「諸善万行ことごとく 至心発願せるゆえに

 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり」
良い事すべて(一つの例外もない)、往生浄土の方便の善となる。
この往生浄土の方便の善が、宿善です。

 

人生の目的は、往生一定の身になること、
私達は未来がハッキリして初めて、現在が明るくなる。

 

その身になるための方便の善、
私たちのやった善が間に合って往生浄土できるというということではない。

教行信証信巻

一切凡小一切時の中に、貪愛の心常に能く善心を汚し、瞋憎の心常に能く法財を焼く。

急作・急修して頭燃を灸うが如くすれども、衆て「雑毒・雑修の善」と名け、

また「虚仮・諂偽の行」と名く。「真実の業」と名けざるなり。

この虚仮・雑毒の善を以て、無量光明土に生ぜんと欲す、これ必ず不可なり。
 

すべての人は常に、欲望によって私たちの善心を汚してしまう。

法施をしたり財施をしても、怒りの心や嫉妬の心が起きてくる。

 

諸善万行を六つにまとめられたのが六波羅蜜(ろくはらみつ)

その一番最初が布施行。

仏法を人に施すということは最も素晴らしい善です。

仏教の講座に友達や家族と一緒に参詣した、これは法施です。

 

またご法礼や御報謝、これは財施です。

いずれも尊い善です。

しかし、われわれの善では絶対に往生浄土できない。

ではどうして善を勧められるのかというと、

「諸善万行ことごとく 至心発願せるゆえに

 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり」

人生の目的達成に近づくことができる、方便になる。
それは「至心発願せるゆえに」至心発願するからです。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 宿善

2017年10月16日

仏法者の集まりとは?(智慧と慈悲)

傷の舐め合いでは仏法者とはいえない。

皆で真剣勝負でのぞもうじゃないか。

また、途中でくじけてはいけないぞ、皆頑張ろうじゃないか。

一人でも求める人があるならば、なんでもします。

そういった両面をもった仏法者でありたい。

 

親鸞聖人はこの両面が一体となって真実を開顕して下された方。

真実の自己を知らされ、十方衆生が後生の一大事を抱えているぞと

大変厳しく教えられた。

それは何とか解決してもらいたいという慈悲の面。

また大変おやさしい面がある。

 

会社なんか行くと、叱ってくれる人もいない、

困っているのに助けてくれる人もいない。

 

そんな世の中で、厳しく叱ってくださる、

本当に幸せなこと。

仏法から離れようとする、これは本当に勿体ないこと。

知らない人ばかり、何の間違いでか知らされた智慧と慈悲を持った

法友にならせて頂くことが大事。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年10月15日

なぜ親鸞聖人は厳しいのか

親鸞聖人はお優しい方か、厳しいお方か。

この両面が際立っておられる場面が歎異抄第2章。

 

親鸞聖人の厳しい姿と優しい姿がある。
「面々のおん計らいなり」

障子をピシャッと閉められる。


しかし、その心は

「みなみな信心決定あれかし」
という底知れぬ優しさがあります。

 

厳しさと優しさは南無阿弥陀仏を全領して、信心獲得された、
その信心から出るもの。

 

智慧と慈悲に生かされる。

厳しさは智慧から来る。
仏智を体得して、何が知らされるか。
弥陀の本願まことだった、もしこの身に救い摂られることがなかったら、
親鸞あの千尋の谷におちておった。

 

あなた、そんなのんきなことでいいんですか、という厳しさ。

 

私たちが思う一大事と、聖人の知らされた一大事とぜんぜん違う。
「かげろうは明日を知らず、せみは春秋をしらない」
過去世も未来世も知らず、生々世々六道を水車のごとく回りながらそれすら
知り得ない私たちはおおばか者である」

 

かげろうは、明日を知らない。
「かげろうさん、あの太陽が山の向こうに隠れることがあるんだよ」
「せみさん、この木は黄色くなって、やがてくさーい銀杏ができるんだよ」
といってもわからない。
私たちも後生の一大事、ピンともかんともわからない。

 

うなぎを取り出して料理する、そういう高級料理店があります。
うなぎ同士が会話している。
「おいおい、最近友達が少なくなったと思わんか」
「そうは思わんが」
「実は、俺たちを人間という鬼が取り出すそうな」
「頭を打ち付けられるそうな」
「身体を三枚に裂かれるそうな」
「みを炭火でじゅーっと焼かれるそうな」
「ええっそんなことあるわけないよ」

 

私たちが思っている一大事と

親鸞聖人が教えておられる
後生の一大事はぜんぜんちがう。

 

井戸のぞく子を呼ぶ親は命がけ

 

子供が井戸をのぞいている。
もうちょっと覗いたら落ちてしまう。
それをみた親は、「なにやっているの!」

私たちは不定の命を持ちながら、よもやよもやと自惚れている。

 

オーストリアのケーブルカー事故、
小学生が居眠りのトラックで死んだ、
「私は関係ない」と思っている人が次々と死んでいる。

私たちは他人事でぜんぜん気にしない。

 

善知識は

「今日とも知らず明日とも知らず、いつまでそんな気になっているのか」
うなぎ、それ一つでもどれだけ罪を作っているか。

 

今まで頭打ち付けられたことのある人。
いない。

 

人間に生まれた果報。
けれど、その罪を一身に受けていかなければならい後生の一大事が、
ここにブログがあるよりもハッキリしている。

そういう南無阿弥陀仏の智慧によって後生の一大事を
明らかに知らされた善知識は、
「何をいい加減なことをしているのか」
と大変厳しくご教導くださる。
後生の一大事あるのは、私たちだけじゃない、全人類である。

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2017年10月14日

仏法を伝えると増える

 

無形の財産は人に与えても減らない。

 

増える。
普通リンゴ五5つある中、2つ与えたら、普通は3つになるが、

仏法は7つになる。

 

法あるところ財あり。
これ仏の金言です。
無形の財産は無尽蔵。
与えても与えても減らない。
与えるほどどんどん増えていく。
そう言うものあなたは手に入れているんですから。
手に入れようとしているのですから。

今学ばずして学ぶときはない。
今教学を疎かにしていたら後で必ず後悔するよ。

 

少しでも若いとき。

年をとると今以上に時間のあるとき、

頭の冴えているときはないから。
しっかり学んで貰いたい。

 

一秒も 休む暇なし 前進す

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 実践

2017年10月13日

蓮如上人が教学をどのように学ばれたか

蓮如上人、お若い頃どのような御苦労をされたか。
蓮如上人はお若い頃非常に教学を学ばれた。

 

蓮如上人は大谷に近いところが修学の場があったといわれる。

元は存覚上人の寺院で沢山の聖教があった。

 

昔は、昔の学問は現代のように教科書があるわけではない。
まず学ぶお聖教を書写する。
これが勉強法。
自分が学ぼうとする本を書き写す、学ぼうとするものをそのまま書き写そうとされる。
これが学問を学ぼうとするものはそうしたそうです。
実際蓮如上人が書写されたものが今もたくさん現存しています。

親鸞聖人の教えをそのままお伝えしようとなされたのが蓮如上人のご念願でありました。
もちろん勉学の中心は教行信証ですね。
ご本典である教行信証
そしてその注釈書が六要鈔。
十巻あります。

これ表紙を何度も取り替えるほど読まれたそうです。
余程のことですよ。
そう言う教学があってこその御文章ですから、御文章は正に教行信証のエキスです。

その学ぶためにどれ程御苦労されたか。
御一代記聞書145にこうある。

よろづ御迷惑にて油を召され候はんにも御用脚なく候間、
ようよう京の黒木を少しづつ御とり候て、聖教など御覧候由に候。
又少々は月の光にても聖教を遊ばされ候。

 

教学で言うなら、こういうご苦労。
非常に御苦労された。
たとえば、油をめされ候わんにも…これは夜お聖教を
拝読されたいと思っても油を用意することができなかった。

ではどうされたか。
なたね油。
今のように夜勉強しようと思っても電気がないから、灯油。
それを求められなかったので黒木。
これは30pほど切った木を竈で求め、それを焼いてお聖教を拝読された。

月夜は縁側に出られて月光でお聖教を拝読された。
こういう人があるか。
電気代もないと。
とめられても外、電気けっこうついていますから。
まさか月の光はいないでしょう。

こういう御苦労があってその苦学、大変ご苦労されて学ばれた。
それが後年花を開き見事な実を結ぶ。
徹底して教学を学ばれ、それが真宗改革の大きな礎になった。

親鸞聖人も蓮如上人もお若い頃徹底して学ばれている。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 教学

2017年10月12日

主観と客観

冥福・慰霊などの話。
人が死んだ時に、冥福を祈ったり、慰霊祭をせずにおれない感情。

特に肉親を無くした人。
なぜかその人の幸せを念ぜずにおれない。

 

共産主義でもそう。
ホーチミン大統領が死んだ時。

共産主義なのに冥福を祈る。

 

死んだ後、どこにいるのかと思う。

「思う」というのは主観。
ようするに、「そう思うにすぎない」
しかしまた、「思う」ということは、そう思わせる何かがあるということについて客観的。

 

今日の彼は何か違う。
知識の面ではいつもと変らない。
しかし、何か違うと感じた。
そう思わせる何ものかが彼にあったと言う点では客観的。
いじめにあった日の教室。
誰かが見ている。
聞き耳を立てているようなきがする。

人間の「情」は、気のせいというときもあるが、なにか思わせる何ものかがある。

知識だけで片付けていいのだろうか、という疑問を起こしなさい。

 

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2017年10月11日

仏教は間断なく聞け

仏教は間断なく聞けといわれる。


間断なく聞けとは、間を断って聞けということ。
極力間を断って聞けといわれている。
続けて続けて聞きなさいといわれている。

 

どういうことかというと、世の中で固いものは石といわれる。
この世の中で一番固い石に、世の中で一番やわらかい水が穴をあけるということがあるか。
どうすれば割れるかというと、同じところを続けて、ポトポトと雨だれから続けて続けて落ちることで、

一滴や二滴じゃない。

 

続けて落ちることで、最後にドカーンと割れる。
一週間に一回落ちる、二週間に一回では割れない。
何を言われているかというと、人生の目的は簡単にはできない、

簡単にできるのなら人生の目的といわれない。

 

一回の聴聞しても、何か変わらんのではとおもう。

 

石に一滴落ちる。
一回ぐらい変わらないのではと思うけれど、その一滴一滴は微々たる物であっても確実にきいている。
一滴一滴を重ねていくことによって最後バりーんと割れることがある。

その心強ければ強いほど、重ねて重ねて心に入れてもうさば信心決定できる。
だから重ねて重ねて聞いてくださいといわれている。
仏法は聴聞に極まる。

 

聴聞とはあなたがどのような心で聞くか、
あなたがどんな気持ちで仏教を聞かせていただくかにかかっているので
真剣に聞き求めていってもらいたいと思います。

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タグ:聴聞
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法