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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年10月30日

秘事法門とそれに類するものは人工信心の2つの特徴

僧侶や坊主などの親鸞聖人の教えを

伝えなければならない人間の中にも迷信や邪教、異安心の者がいる。

特に秘事法門とそれに類するものは人工信心。

 

その特徴は、

 

聴聞しても獲信できない。
・獲信にはコツがある。

 

ということを言うのが大きな特徴。

 

あせるとついついこんなことに引っかかってしまう。
一応聞くだけでも聞いてみようかなとなるでしょう。

 

だいたい聴聞しても獲信できない、と言うが
ならばどうしてお釈迦さまは「その名号を聞いて」

と説かれたのか。

 

本願成就文其の中で、どうしたら助かるのか、といことについて
「その名号を聞いて」と説かれている。
だから、蓮如上人も「仏法は聴聞に極まる」と言われている。

 

ましてや「コツがある」というがコツとはなんだ?
信心決定は阿弥陀仏のお力によってされること、人間のすることではない。
コツがあるとすればそれは自力の信心だ、自分の力で作り上げる信心。

信心は人それぞれ!?

 

『獲信したときは分からなかったが、後からじわじわ知らされてきました』
『はっきりする人もいる、しないひともいる。人それぞれ違う』

はっきりしないというが。

 

「あらゆる衆生、その名号を聞いて信心歓喜せんこと乃至一念せん」
と本願成就文にある。
あらゆる人が一念で信心歓喜の身になる。
はっきりする。
その本願成就文のとおりの信心が真実の信心、
あらゆる人がまったく同じ体験をする。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心

2017年10月29日

無常は無情

今まで、あなたはどんなものに心をたてていましたか?

 

「仕事」
「お金と科学と家族」
「趣味」

 

私の知っている人で、お金儲けの上手な中国人と結婚した女性がいて
ご主人が大変お金に執着の強い人で、若い奥さんである彼女に
沢山宝石を買ってくれた、それがご主人の生きがいだった。

ところがある日泥棒に入られて、ごっそり盗られた。
ご主人はそれ以来生きる気力を無くしてしまい、
その2年後にしょんぼりとしたまま亡くなってしまった。

 

川中みゆき、好きで結婚した夫が覚せい剤所持

 

三田佳子、昔も息子が覚せい剤所持でつかまり、
さらに何回もつかまる。
三田さんにすれば、息子に裏切られたということになる。

 

まちがいない人、この人は自分にとって力になる人、大切な人、
そういう人に裏切られたときの苦しみは大きい。

 

そのなかでも「まだまだ自分は死なない」という

自分の命に裏切られたときが一番ショックが大きい。
自分が死ぬなんていうことはまったく実感が持てない。

 

アルプスにスキーの修学旅行に言った中学生が5人亡くなった。
日本人は全部で10人
その中に慶應大学の女の子もいた。
法学部の女の子は、来年から就職が決まっていた。

 

さあ来年からは社会人になって、いっぱい恋もして結婚して、

いっぱい幸せになろう
そんな思いが瞬く間に吹き飛んでしまう。

 

無常は無情」

というが、死という無常は情け容赦ない。
「ちょっと待ってくれ」
「自分は慶応大学の学生なんだ」
といくら言っても立場やいい訳は全く通用しない。

しかし、そういった無常の世にあって、

仏教の救いはまったく揺るがない。

永遠に変わらない幸せになれる。

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タグ:結婚 科学
posted by 陽葵 at 13:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2017年10月28日

目先に一喜一憂しては遠大な未来を見通せない

目先に一喜一憂しては遠大な未来を見通せない。

 

ふだんの生活の中で嬉しいこと悲しいこと、
ついつい一喜一憂、嬉しいことで喜び悲しいことで悲しむ、

連続の人生で一喜一憂している内に終わってしまう人生、

それだけでは人生何のために生まれたのかと思う。

 

私達は生まれてきた目的を見ている。
人生の遠大な未来、生涯をかけてもみなければならない未来を見据えている。

そこまで寂しいこと、悲しいこともある。
これをしっかりと見据えて確実に前進していってもらいたい。

だからといって日常がどうでもいいということでない。
試験で一喜一憂していては……とそんなことではない。
バイト、時間だ忘れたでも一喜一憂してはね、遠大な未来を見ないと。
それとは違う。
一喜一憂しない人も困るが。
そこら辺が大事。

 

本当の生きる意味という大きな問題を凝視して

なおかつ足下を見失ってはならない。
一歩一歩足下を確実に前進していきましょう。

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タグ:生きる意味

2017年10月27日

雪山童子といろは歌

これはブッダの過去世の求道物語として、
本生譚に説いておられる事ですが、
過去私は雪山童子といわれヒマラヤの奥地で悟りを求め修行していた、
求めても求めても悟りが得られない、
修行に疲れて一体どうしたら悟りが開けるのかと思い悩んでいたその時、
どこからともなく貴い声が聞こえてきた。

諸行無常是生滅法」

と言う言葉だった。
漢字にすればわずか八文字の言葉が耳に載ってきた。
これを聞いて雪山童子
「何という貴い言葉か、私の求めてきた真実の言葉だ。
しかしこれでは悟りの半分しかあらわしていない。
後の半分、どうしても聞きたい」

残り半分を聞きたい、それでこそ完全な悟りが開けると
雪山童子は思った、だがあたりをみわたしても誰もそんな人はいない。
鳥や獣はいるが人間の言葉を発するような人影は見あたらない。
人っ子一人見えない山奥。
しかし聞こえたからには誰かが行ったに違いないと思い
雪山童子は辺りをさがしまわった。
ところがゆけども言葉を発する者はいない。
空耳か、いやそんなはずがないと探したがいない。
出会えなかった。
後の半偈を教えてくれる人がいないかとあきらめかけたとき
フッと見上げると断崖の上に一人の羅刹が立っていた。
羅刹とは鬼です。
鬼の形相をした者が仁王立ちにたってジッと修行者を見下ろしていた。
この人がひょっとしたらこの言葉を発したのか、しかし鬼である。
こんな鬼が悟りを開いているとは考えられない。
→鬼の姿になって悪果を受けている

→すべては因果応報であるから、そのような悪いたねまきをした。
さとりを開いているとは思えない。
しかしものを言うものはこの羅刹しかいない。
この人か。
こう思った雪山童子
「先ほど貴いさとりの半偈が聞こえてきましたが
その言葉を仰有ったのはあなた様でしょうか」
羅刹は「ばかをいえ、見てのとおりわしは鬼だ、
こんな悪報を受けている私がそのような貴い悟りの言葉をしるはずがない」
といったが、しかしこの人以外にはいない。
「しかしあなた様以外にあのような悟りの言葉を語れる方はありません。
もしや何か先ほどいわれたのでは」
「お前もしつこいな、俺がそんな悟りをひらいているはずがなかろう、
俺はそれより腹が減ってもう一言もものを言う気力がない、
しかし先ほどうわごとのように何かつぶやいたかも知れないな」
それを聞いてやっぱりこの羅刹か、
今でこそ恐ろしい報いを受けているが、
きっと貴い方でかすかな記憶で言葉が出たのだと思い
菩薩よ、きっとあなた様がこのお言葉をおっしゃってくれたに違いありません、
しかしこれは悟りの半偈、半分しかあらわしていません。
どうか私のために残りの半偈お聞かせいただきたい」
羅刹は
「お前は自分のことしか考えない奴だ。おれは腹が減ってもう何も言えない、
これ以上無理なことは言うな。これ以上しゃべる気力はない」
しかし、この羅刹以外に悟りの道を教えてくれる方はないと思い
「これは大変ご無礼致しました、では菩薩よ、
あなたは何を召し上がられるのか、私が用意しましょう、
それを用意した上で悟りの半偈を教えていただきたい」
「ワシが何を食べるか、そんなことを言わせても無駄だ、
お前には用意できないものだ」
冷たく言う羅刹に
「私は命をかけ悟りを得ようとする修行者、何なりと仰せください」
「それ程まで言うなら教えよう、俺はな、木の根っこや草は食べない、
俺の食べるのは肉だ、それも死んだ動物の肉はくわん、
生き血したたる人間の生肉しかくわない、
どうだ、ただ一回の殺生もできないお前によういできるわけなかろう、
だから帰れと言うのだ」
氷のように冷たい羅刹の言葉、しかし雪山童子は喜んだ
「わかりました、用意いたしましょう」
「バカなことを」
「いえいえ、菩薩よ、私の肉でも宜しいでしょうか」
「おまえは何と言うことをいうのか、わしはそれでもかまわんが」
「しかし私の肉を食べていただいた後では悟りを開くことはできません、
必ずお約束いたしますからどうかまず残りの半偈を聞かせていただけないでしょうか」
「そんなこといって悟りを開いてから逃げるのでないか」
「いえいえ、嘘はもうしません、必ず私の身体差し上げますのでどうか
教えていただきたい」
手をついて何度もたのむ。
「では言おう」
初めて残りの半偈を言った。
「生滅滅已寂滅為楽」

残りの半偈を口から発した、

 

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽

いろは歌は、これを和訳したといわれます。

それを聞いた童子が
「まさに悟りの言葉だ、完全な悟りを開くことができた。
われの出世本懐は成就せり」
と飛び上がって大変な満足を得た。
その様子をみて羅刹は
「喜ぶのは結構だが約束は忘れてないな」
「勿論です。この悟りのため命をかけていたのですから
肉体はいつでも差し上げましょう。
しかしせっかくの悟りの偈文を後々の人にお伝えしたいので
どうぞ今しばらく時間をお与え下さい」
と雪山童子はあちらこちらの木に刻んだ。
そして自らも悟りを開き、後のひとに教えを残し
「では大士よ私の肉体をさしあげます」
高いところから大きな口をあけて待ちかまえる羅刹めがけて身を投げた。
そのまま口の中に飛び込み食べられるかと思ったその時
がっしりと羅刹が雪山童子を受け止めた。

何が起きたかと目を開けると鬼の形相をしていた羅刹は
その瞬間に帝釈天と変わり、
雪山童子に向かって
「善いかな善いかな、そなたのその覚悟があればこそ悟りをひらけたのだ」
と褒め称えた。

実は羅刹は仮の姿で、本当は帝釈天が
この雪山童子の求道心を試すために鬼の形相をして
彼の覚悟を問うたのです。
その帝釈天の試練に見事雪山童子は合格したというとが説かれています。

 

雪山童子はこの悟りの半偈、
この言葉を聞くために自分のみを投げ出し命を捨てた、
命がけになって開けぬ悟りはない、
その命がけの覚悟が完全なる悟りを開かせることができた。

「仏法は身をすててもとめよ、身を捨てて求むる心より信は得られる」

蓮如上人も言われるように、
雪山童子が悟りの半偈に命かけたように私達は
弥陀の呼び声一つに命をかけねばならない、
ということを教えてくれる話です。

何れも命がけの求道、聞法、法を聞きたいと言う気持ちが大切なことを
教えられています。

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タグ:蓮如
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2017年10月26日

親鸞聖人が臨終に言われたこと

親鸞聖人が弘長2年11月28日に亡くなられる前に言われたお言葉。

「わが歳きわまりて安養浄土に還帰す」
死んだら自分の魂がどうなるか、はっきりとおっしゃっている。

死んだら極楽浄土へ行く。
では極楽浄土に行ったら楽して寝ているか。
すぐに戻ってくるとおっしゃっている。

 

「謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向有り。
一には往相、二には還相なり」

 

浄土真宗とは阿弥陀如来のお働き。
按ずるに二つの下さりものがある。
これが二種の廻向。
一つは往相、二つに還相。
これを往還二廻向という。
何れも阿弥陀如来からいただくものだから
「往還廻向由他力」
正信偈にある。


曇鸞大師、他力とは阿弥陀如来のお力のことだから、
ともに阿弥陀如来からいただくもの。

これを聖人は教行信証の最初にかかれている。
「往相の廻向に就いて、真実の教・行・信・証有り」
ここから教行信証の名前になっている。

 

往相廻向とは、往生浄土の相状を与えて頂く。
略して往相。
いま私達がいるのは娑婆、堪忍土。
堪忍とはお互い我慢する、堪えないとやっていけない、
俺が俺が、では苦しみばかり。

細い丸太の上でこっちと向こうでお前どけとやっていると、お互い落ちる。
譲り合い、我慢しないとやっていけない。
人と車なら赤信号でゆずる。
国と国でもここまでがうちの土地だ、これではいけない。

庄松同行にある人が
「この世は娑婆ですから、お互い堪忍していきましょう」
「いやいや私はあなたに堪忍していただいて、生かされております」
私ではなく相手に堪忍してもらって生かされている、ということ。
自分が身を引いてどうぞと渡ってもらってからのほうが早い。

だけどこんな我慢せねばならんのはもう嫌、苦しみばかりの難度海、
こんな苦しみをはなれて、苦しみのない極楽浄土へ行く、
これを往相という。

 

そして極楽浄土から娑婆に戻ってくるのが還来廻向の相状。
略して還相。

還相を与えて頂くのが還相廻向

 

娑婆は色々ある。
アメリカ大統領選、どこまでもお互い譲らない。
金と時間がかかるのが民主政治。
チャーチル「デモクラシーは最低の政治形態だ。
ただしこれまでのすべての政治形態を除けばだ」
結局、人間世界はどっちに転んでも苦しい。
こんな娑婆を離れて極楽浄土へ行きたい。

 

この往相、還相どちらも阿弥陀如来の働き。
それは何の働きか。
それは南無阿弥陀仏の名号の働き。
そこにおさめられた智慧と慈悲の働き。

 

南無阿弥陀仏を与えて頂くことによって

往還の二つの力を与えて下さる。
これは南無阿弥陀仏の妙用。
妙用とは働きのこと。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年10月25日

踏まれても根強く忍べ道の草 やがて花咲く春の来るまで

踏まれても根強く忍べ道の草
やがて花咲く春の来るまで

 

 

これ多くの人が好む歌。
あなたも好きになって貰いたい。
私たちは雑草の如くたくましさで進まなければならない。
踏まれても負けない信念。
一つの目標に向かって進むときは多くの苦しみが待ちかまえている。
しかしその苦しみに負けていては勝利者になれない。
船でも止まっていたら波の抵抗はないが、

求道が進めば波の抵抗が激しくなる。

その苦しみに負けていては人生の勝利者になれない。
どんなに苦しいことがあってでも雑草の如くのたくましさで頑張って貰いたい。
道の草。
雑草はものすごく強い。
どんな困難があっても負けないという気持ち。
私たちの努力は報われる努力ですから。
たとえこのサークル辞めても苦しみは変わりません。
どんな生き方をしても苦しみからは逃れることはできません。
仏教を聞いても聞かなくても、苦しみは変わらない。
必ず後悔する。

さだまさしの歌。
生生流転という歌。

逃げたあと悔やむより、悔やまずに血を吐いてひたむきに歩けるほど勇気と力が欲しい。

実はさだまさし、東本願寺の寺の子供だそうです。
だから彼の歌には浄土真宗の教えがこもっているところがいくつある。
これ生々流転という歌の歌詞。
人生の目的を断念して逃げた人はみんな後悔している。
絶対良かったとは思えません。
仏教から離れるということは、生きる意味を疎かにする人ですから。
人生をいい加減にしていて世間でも成功するはずがない。
人生に対して不真面目な人がどうして世間に出てうまくいくか。
人生いい加減な人は何をしてもいい加減です。
絶対後悔しないために、どんなに苦しいことがあってでも、

ひたむきに歩いていきたい、生きていきたい。
歩いていけるほど勇気と力が欲しいといっていますね。
よし与えて上げようと言いたいけどね。
これは若者の気持ちでもあります。
逃げたら後悔するのは分かるから。
絶対オレは逃げない。
あなたも逃げたら駄目です。
血を吐いてもひたむきに歩く。
どんなに苦しくても生きていく勇気と力が欲しい。
人生に目的が有れば、ハッキリ目的が定まっていたら勇気と力が沸いてきます。

 

親鸞聖人の教えがハッキリ分かればどんな困難があってもよーしやるぞ

というひたむきに生きる力が沸いてくる。
私たちの努力は報われる苦労。
宿善となってやがて信心決定という結果となって現れる報われる苦労ですから。
どう生きるかのみの苦労は報われない努力です。
どうせ人生、苦しむなら報われる苦労をして貰いたい。
ひたむきに生きる力が浄土真宗の教えにありますから。
今の種蒔きが豊かな未来を創り上げる。
やがて春が来て花が咲くのです。
いわゆる信心決定。
必ず蒔いたタネが生えるから。
過去の種花を開いて実を結ぶときが来ますからそこまで頑張りましょう

と昔の人は教えられている。
最後どういう覚悟で生きる意味を求めたらいいのか。

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タグ:生きる意味

2017年10月24日

子供が死にました。

夢の世をあだにはかなき身と知れと
教えて還る子は知識なり

 

和泉式部は救われていたかどうかは分かりませんが、
こういういい歌を残している。


これは、産まれたばかりの赤ん坊が亡くなった。
その時の親の悲しみは大変です。
しかしそれが縁となって仏法を聞く人がある。
わが子の死を縁として。
また友達の死を縁としてより真剣に仏法を求める人がある。
親鸞聖人は両親の死を縁として今度は自分の番だと知らされ、仏道を求め、救いに預かっておられる。

 

私たちは決して人の死を無駄にしてはならない。
この人生私たち夢の世でありながらなかなか分からない。
その私たちにあだにはかない身であるぞと目の前で見せて下さっている。
私たちが信心決定するにはこの人生、夢の世と分かる人ほど早く信心決定できる。
アッと言うまだなと知らされた人ほど。
あだなる身。
あだとははかない。
今日とも明日とも知れない。
産まれたばかりの赤ん坊も死んでいく。
儚い身である、産まれたばかりの赤ん坊でも死んでいくんだぞと無常を教える。
夢の世だぞ儚い身で有るぞと教えて、阿弥陀如来極楽浄土へ帰っていった子供は善知識である。
ひょっとしたらその子供は仏様の化身であるかも分からない。


お経を読んでみると仏様は私たちを救うために人間と形を変えて無常を教えてくれる場合もある。
これは仏にならないと分からないが色々私たちを救うために形を変えて、私たちを導くことがあるとお経にあるから。
実際亡くなった人が仏が姿を変えて現れたかどうかは信心決定して阿弥陀如来極楽浄土往生しないと分かりませんがそのよう
に味わうことが大事。
あだに儚い身と知りなさいとこう私たちに諸行無常を教えるために子供となって産まれた。
そして目の前で亡くなっていった。
それが仏様なら地獄ではなく極楽に帰りますから。
私からすれば善知識。
本当の幸福に導く善知識と味わわずにおれない。
あなたの周りにもそう言う方。
お婆さんとかお爺さんの死とか。
決して肉親の死を無駄にしてはならない。
今度は我が身だぞ。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2017年10月23日

別れが辛いとき、恋しいときは?

親鸞聖人が平太郎に送られた歌。

恋しくば南無阿弥陀仏を称うべし
われも六字の中にこそ住め

 

平太郎は親鸞聖人との別れが非常に辛かった。
その平太郎に対して。
信心決定した人は善知識に対して恋人以上の思いになる。
非常に善知識との別れが辛くなる。
その平太郎に対してこの私を恋しいと思うなら、

南無阿弥陀仏を称えなさい。

 

もちろんこれは信心決定して出てくる、お礼の念仏
南無阿弥陀仏を称えたら、私も六字の中に住んでいますから。
信心決定した人は南無阿弥陀仏と一体になっているから。
これ全部南無阿弥陀仏。
頭叩いても南無阿弥陀仏。
手を叩いても南無阿弥陀仏、立った姿が南無阿弥陀仏。
信心決定したなら南無阿弥陀仏と称えたならば、いつでもあえる、どこでもあえる。
心は通じ合う。
肉体は離ればなれでも心はいつも一緒にいるような気持ちです。
いつでもあえる今でもあえる。
南無阿弥陀仏と称えたらいつでもあえる。
この信心決定は孤独地獄から救われた世界。
これを親鸞聖人は広大会と言われている。
大会衆ともいわれている。
信心決定の世界は広大会。
意味は広くて大勢の人がいる賑やかな世界。
心が通じ合える。
信心決定したならば、お釈迦さま、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と心が通じ合える。
孤独地獄から救われているから、心であえる。
肉体は離ればなれでも何時でもあえるどこでもあえる、そう言う世界です。
諸仏の仲間入りするから。
正定聚。
間違いなく仏になることに定まった人達。
いつ死んでも弥陀の浄土のど真ん中に産まれることが今ハッキリするから。
諸仏の仲間入りを今させていただける。
そういう世界に生かされるから、そう言う賑やかな世界。
肉体はひとりぼっちでも心は日本晴れ。
南無阿弥陀仏と称えたならば、親鸞聖人といつでも会える、どこでもあえる。
信心決定したものだけが同じ兄弟だと喜べる。
先に信心決定した人は兄であり姉。
遅れて信心決定する人は弟であり妹。
それで信心決定した人は兄弟といわれる。
 

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 善知識

2017年10月22日

南無阿弥陀仏を頂いた

食うてみて見れば見るほどうまいのに
それがゆけずば病なりけり

 

南無阿弥陀仏を、食べると言うことで言われている。
南無阿弥陀仏は食うてみて、非常に美味しいもの。
それを飲まなかったならば、頂くことがなければ病は治りませんよと言われている。
一切経はこの六字の名号の解説書。
この薬がいかに素晴らしいか。
いかに美味しい食べ物か。
これ一つを釈迦は至る所に教えられている。
これを頂いてみなさい。
こんな美味しいもの。
これ頂いたらこの世から無上の喜びに満ちあふれる。
変わらない満ち足りた心。
毎日が明るく強く逞しく三拍子揃った豪快な生き方ができる。

われ生きるしるしありというファイトが湧いてくる。
それは六字の名号を頂いたときにこういう幸せとなれる。
頂いたものからすればこんな素晴らしいものはない。
それが頂くことがなかったならば病はいつまでたっても治りません。
心の闇は晴れない。
心の闇を抱えたまま死ねば無間地獄ですよと言わずにおれません。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2017年10月21日

本当の生きる意味を知らない限り人生は苦しい

ただ見れば何の苦もなき水鳥の
足にひまなきわが思いかな

 

これは御三家の水戸光圀。
水戸黄門で有名な水戸光圀が作った歌だと言われる。
人生は苦なり。
表面上と内実は違う。
外面と内面は違うと教えています。
水戸黄門自分を水鳥にたとえてあらわそうとしている。
いくら立場や地位が上でも苦しみはみんな同じ。
表面上は何の苦しみもないように見える。
私たち水鳥を見たとき、何の苦しみもなく気持ちよく泳いでいる。
それを見ると幸せだなあと思うかも知れないが、人の見えないところ、

水の中で一生懸命足を動かしてこいでいる。
非常に苦労している。
苦しんでいる。
表面上は明るく振る舞っても心はみんな苦しんでる。

 

あなたの周りでも楽しそうに騒いだりしている人も心からではない。
あなた空しい心を持っているから

それを紛らわせるために飲めや歌えやの

どんちゃん騒ぎで紛らわせているに過ぎない。

 

表面上は明るく振る舞っても心はみんな空しい心を抱えている。
みんな苦しんでいる。
世間からは水戸黄門と言われ幸せだなあとうらやましがられても

立場があったらあったで苦しみは変わらない。
全人類の姿を現した歌。
表面上で判断できない。
ただ表面上を見たら何の苦しみもないように思いますが、

実際は人の見えないところでみんな苦しみ悩んでる。

 

人生は苦なりを表した歌です。
だから本当の生きる意味を知らない限り

本当の幸福には絶対になれないことを

これでも知ることができる。

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タグ:生きる意味