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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年11月19日

方便の大切さ

親鸞聖人の教えにおける方便といいますのは、
真実の世界に送り込む為に必ず必要なものですので、とても大切なものです。

 

真実と方便を比べたら、方便のほうが劣るように思う人あると思います。
しかし真実が大切ならば方便も同じくらい大切。

 

方便が大したことないと思っているのはそれだけ真実が分かってないんです。

また、方便というのは誰でもかれでも使えるものではありません。

 

ちょうど夢からさめた時に初めて夢と現実が分かるように、
真実の世界に出て初めて方便というのがどのようなものか分かるのです。

 

ですから、気安く安直に何でも「方便」といっていたら、
危険なことだということが分かります。

 

「あなた、仏教を聞きに行くってご家族に何て言ってきた?」
「日本シリーズ見にいくって言ってきました(笑)」
「えっ!?ついたの?」
「いやいや方便ですよ(笑)」

 

こういう時に「方便」を使う人、あるかもしれません。
そう言いたい場合は「配慮」したというのが適当です。

方便が使えるのは仏様か善知識です。
仏様が説かれる方便は「善巧方便」

善知識が説かれる方便は「権仮方便」といわれます。
ですので、何でもかんでも「方便」と使うのはどうかと思われます。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2017年11月18日

阿弥陀仏の四十八願の三願とそれ以外の願の違い

さて、この48願の中に摂生の三願というものがあります。
この世のすべての人を相手に必ず助けると誓われた願、
約束の相手が十方衆生になっている願、
これが48願中に3願しかない。
18願19願20願の3願です。

 

48願の中で、どうして摂生の三願が問題になるのかといいますと、
すべての人、という無条件の願でなければ、
つまり、これこれこういう修行のできた人でないと助けないという願であっては、
私達は助からないんですね。

 

ですから、私達の救いに関係あるのは、摂生の三願だけなんですね。

 

 

ここが麻布高校だったとしましょう。
そして私が先生。
俺は偏差値60以上の奴しか相手にしない。
60以上の奴は必ず東大に入れてやる。
こういう願を立てたとします。

 

しかしそうなると、偏差値60に満たない者は、合格できないんです。

 

48願の中で、摂生の三願以外の願を見ますと、

約束の相手が違っています。

「國の中の菩薩」

が相手になっています。
「國の中の菩薩の智慧弁才」
とかいうのもある。

 

この3願だけは「十方衆生」と約束されています。

すべての人を救うということです。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年11月17日

六道輪廻から出る方法

迷いの世界をぐるぐる回っていることを六道輪廻

迷っている世界から魂の内止めをすることを六道出離といいます。

 

いまやはや一夜の夢となりにけりゆききあまたの仮の宿々
人生はよく旅人に例えられます。
今時分のように早く日がくれるようになると人生の寂寥を感じます。
旅人というのは同じところにとどまっていないよね。

 

例えば江戸から京都を目指している旅人は違った山、道を通ります。
そしてこれ以上進めないとなると宿をとります。
そしてそこで一晩だけそこにいる人と一緒に酒でも飲んでいきます。
しかし、一晩寝れば夢のようなものになります。
そしてまた夕暮れ時になるとまたそこで宿をとってまた新しい人と出会います。
そういう仮の宿の繰り返しが人生。

あなたも中学校のとき友達がいたと思います。
しかし、高校いったらみんな友達ではない。
また、高校といったらいろんな友達がいるよ。
そしてしばらくその友達と楽しみます。
しかし、大学にくるとまた違うよね。
大学って宿はまた違う宿。
まったく違ったところからきた人達。
それは何かの御縁があって一緒にいるの。
ところが、3、4年のうちにまたさよならをいう。
人生っていうのは出会いの数だけ別れをしなければならないの。

その宿のなかで苦しみのうち止めをできる宿があったかというとそういうのはないの。
そうして考えてみると、次の世界次に世界とへめぐってその世界を楽しもうとしているだけで

根本的に解決しようなんて考えていないの。

 

これ仏教の教えからいうと人間界に生まれからも流転輪廻をしているけど、

 

死んでもまた次の世界、次の世界と六つの迷いの世界を

無始よりこのかた輪廻転生し続けていると教えられている。

 

そういう迷いの命のあることを知ってその迷いのうちどめをするのが人間界に生れて、

仏教を聞くより他にない。
人間界に生まれたって心が人間らしい心になったときにしか仏法をきけない。
その迷いの魂を知らせてくれるかたは仏教の教え。

仏教講座に行ってみよう。

 

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2017年11月16日

畜生界のすがた(生きる意味は何?)

源信僧都の横川法語という言葉があります。

まず三悪道を離れて人間に生まるること、大なるよろこびなり。
身は卑しくとも畜生に劣らんや、家は貧しくとも餓鬼にはまさるべし。
心におもうことかなわずとも地獄の苦にくらぶべからず。

 

 

私達が見ることができるのは畜生界
いいイメージがあるかそうでないかは人によって違うが、
この畜生界というのは、猫でも何か物音がすると耳を立てて、
あたりを警戒する。

弱肉強食で戦々恐々としている。

 

人間でも動物的な人がいる。
食うとか寝るとかそのことしか考えていない。

 

「食て寝て起きて糞たれて子は親となる子は親となる」

 

養豚場にいくと、一定の柵の中に閉じ込められている。
一定の時間がくると、食べ物が流れてくる。
匂いにひかれて目をさましてむしゃぶりつく。
胃袋が一杯になると、水が流れてくる。
そうするとことんと寝ちゃう。

しばらくすると便をする。
そうやって夜がきて朝がきて、時間がくるとご飯が与えられる。

どうして飼育係が三食昼寝つきでやるのか。
太らせて食べるため。
豚にはそんな智慧なんてない。
今自分の目の前にあるご飯がおいしければなんの文句もない。

よく考えてみると私達の人生というのもあまり変わらない。
朝がくると食べる。
学校にいって寝てる人もある。
勉強をして一定のマナーや知識はあって、

この世どう生きるかということについては豚よりちょっとましなだけで、

年とって死んでいく。

これでは生きる意味がない。

 

目先の欲が満たされたりすると満足で、

自分がその後どうなるのかについては無関心でいる。
「人生は食うて糞して寝ておきてさてあとは死ぬるばかりよ」

豚にも天敵があって、ビクビクビクビクしている。

そういう中で人間に生まれて生きている。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年11月15日

仏教講座と通信講座

後生の一大事の解決には、

一念の決勝点を突破するにおいては他力の本願力によって
一味平等に出させて頂くということを

正しい仏教の先生から聞かせて頂かなければ
自他力廃立できない。

 

そういうようなことに腰掛けて抜け出す事ができなくなった人は

正しい仏教の先生が話をされる仏教講座に行っていないから。

 

そういうところに昔行ったことがあるから

ていたからわかっている

ということなんて言えない。

 

私たちにはどういうところにいっていいか

聴聞によらなければ絶対にわからない。

 

だから仏教講座というのは貴重な御縁。

もしそういう機会がないときに、

仏教の通信講座などで聞く。

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タグ:聴聞
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2017年11月14日

仏教講座に足を運ぶと?

心の闇を病といわれているもの。

 

2帖目13通(御袖)。
5帖目12通(御袖すがり)。
無明業障の恐ろしき病

 

蓮如上人がかかれたときも違うのに同じ事を2回書かれている。

 

光明の縁にあいたてまつらずは、

無始よりこのかたの無明業障の恐ろしき病の、
なおるということはさらにもってあるべからざるものなり。

とある。

 

これは表と裏と読める。
この光明にあわなかったら無明業障の病は治りませんと読めるし、
また光明の縁にあえば、救われるとも読める。


それは蓮如上人の今こそ明らかに知られたりという体験からきている。
それでハッキリするということも教えられている。

この光明の縁とは何かというのは阿弥陀仏の本願であり、
仏教講座に足を運ぶということ。

弥陀の光明の強くかかるところ。
それはとてもつもない縁。
それは何が何でも自分がいかなければならないのはもちろんだが、
それならば1人でも多くの人をお誘いしていかなければもったいない。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 実践

2017年11月13日

善知識を半因縁と考えるから救われない

「善知識を半因縁と考えるから救われない」

これはある種の誤解をまねくお話しでもある。


私たちのこと仏法に関しては、苦悩の根元というのも全く分かっていない、
無明の闇ということも全く分かっていない、
仏法のことについては全く分かっていない。

それを1から10まで教えて頂く。
だから善知識でなければ進ませて頂くことができない。


もし善知識にあわなければ絶対に救われないと

蓮如上人も五重の義であげられている。

 

善知識を全因縁とか半因縁というのは、あなたの気持ちを言われたもの。

 

絶対に間違えないと心中できるのなら全因縁で、
納得できることなら従うというのが半因縁。

 

これは2つに別れるのではなく、ピンからキリまである。
心中できる善知識にあうことができた人は全く幸せです。
赤尾の道宗が近江の湖を1人して埋めよといわれて
「かしこまりたる」と言う。
無条件で服従する気持ちが強かった。

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タグ:蓮如
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 善知識

2017年11月12日

日本神道の神の生まれ変わり

平安時代の「権力者」というのは「天皇」のことです。

 

天皇というのは「現人神」といわれまして
「あら!人だったのね神様」という感じで、
の生まれ変わりが天皇だぞ、と教えるものです。

日本神道もそうですね。

 

ですので、天皇に従うということは、
信心にならねばならないということです。

聖道諸宗、自らの勢力を強くしようと思ったならば、
天皇に逆らうわけにはいきません。

ですので、天皇を接待する。


銀行が大蔵省を接待するならまだ分かりますが、
聖道仏教の連中が天皇を接待した。
「もとは一緒だったから仲良くしましょう」
と言って『神仏一体説』なるものを打ち立てたわけです。

 

に向かってもイイじゃないか、
お釈迦さまが教えられたように

「一向専念無量寿仏」なんて言ってたら
彼女とクリスマスも過ごせない、
友達と初詣にも行けないぞ、
なんて言ってに仕えてもいいと言い始めたんです。

 

彼らには、後生の一大事がまったく頭にないんです。
苦悩の根元なんて全く問題になってないんです。
少しも悩んでない、苦しんだこともない。
考えているのは自らの保身のみです。
どう生きるかしか考えてない。

 

本当に後生の一大事が問題になったなら、こんな気楽にはいかないのです。

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2017年11月11日

日蓮宗

日蓮宗の「南無妙法蓮華経」は、
「妙法蓮華経」というのは「法華経」の正式名称です。

 

これに日蓮が勝手に「南無」とつけてしまったんです。
ですので「南無妙法蓮華経」というのは
お釈迦さまの経典には一回も説かれていない、
日蓮の造語です。

 

もともと「法華経」というのは自力の出世本懐経ともいわれますので、
非常に大切なお経ですが、
この「南無妙法蓮華経」をいかにもヒゲ文字チックに書いたものがあって、
それを拝めば「病気治し」「借金無し」というゴリヤクがあると教えます。

 

今日新興宗教と呼ばれるもので最大のものは創価学会です。
もとは、日蓮宗の最小派閥であった日蓮正宗から喧嘩別れしたものです。
そこからものすごい勢いで宣伝活動して今日のように広まったわけです。
その他いろいろの新興宗教ありますが、この「南無妙法蓮華経」から出ているもの多いです。

 

それに対して親鸞聖人の浄土真宗の教えは「念仏」「南無阿弥陀仏」の教えです。
「南無妙法蓮華経」というのはお経には出てこない言葉です。
「南無阿弥陀仏」はお経に根拠があります。
観無量寿経』にも出てきます。

 

仏教とは、お釈迦さまが説かれた教えを仏教といいますので、

お経に説かれていないことを教えるのは、仏教とは言えません。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 教学

2017年11月10日

なぜ太ったのか

私なんでこんなに肥ったんだろういやだわ。

あんたが食べたからだ。

 

お腹壊した、いやだ、あんたが変なもの食べたからだ。
自分だろう。
私カルシウム大嫌いその報いは骨粗鬆症。
おれ骨大好きだ。
そんな人はカルシウム多すぎて、腎臓結石できる。
誰のせいだ。

何であなた、そんな甘いもの食べるの。
私が太るのじゃない。
そんなことはない。

 

食べたあなたが肥る。
食べないあなたが痩せる。

悪いことをしたあなたが地獄に堕ちる。

それだれが解決する。
自分で解決するしかないじゃない。
誰か変わりに死んでくれるかな。
おれ地獄嫌だ、変わりに死んでくれるか。
いやでしょ。
人の地獄誰が堕ちるか。
自分しかないね。

必ず堕ちる自分の地獄
自分がこの世でハッキリするまで求めるしかないじゃないですか。
自分の一大事だ。

 

自分の受験だれか代わってくれたか。
試験会場で誰か見せてくれた?

誰も見せてくれない。

 

分からないのは勉強してないから。
死ぬときに心真っ暗だ、誰のせいか、自分のせいだ。
言い訳はきかない。
ハッキリすると言われているのだからハッキリするまで求めないとハッキリしない。
解決できるから解決しなさいと言われるんです。

そう言う仏教の教えです。

 

この仏教の教え、

平生業成の教えをハッキリ自分のみで体験するところまで

求め抜いていかなくてはならない。

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