親鸞聖人が流刑にあわれてまで徹底され、守られてきた
仏教の結論、
一向専念無量寿仏
ですが、親鸞聖人の長男の善鸞、最も明らかにしなければならないのに、
権力者にいじめられた、このこっぱ役人が、
眉毛がびびびびっと震えて曲げてしまった。
村人が良いですかと尋ねに来た時に、
他の親鸞聖人のお弟子達が、絶対にダメだ、という中に、
善鸞だけ、「まぁいいんじゃないか。
世間でも神仏一体と言うし、お礼の気持ちでなら」
こうして絶対に曲げてはならないものを、段々段々、許してゆく。
しまりがないのです。
自分の都合によって、曲がってゆくのですね。
権力者にいじめられた。
村人に、近道を教えてくれ、と言われるとか。
権力者にこびを売る事を始めに、一向専念無量寿仏をゆるめた。
ここに大罪があります。
蓮如上人、一向専念無量寿仏をゆるめる事を、雑行をゆるす、
と言われている。
親鸞聖人は、雑行をゆるされなかった。
されば自余の浄土宗はもろもろの雑行を許す、
わが聖人は雑行をえらびたまう、
この故に真実報土の往生を遂ぐるなり。
この謂あるが故に別して真の字を入れたまうなり。(御文章)
一向専念無量寿仏を、命をかけて守られて、大変な弾圧にあって。
それを、大変に近い、善鸞が、いじめられた事で、これを許してしまう。
それて、関東の者が、動乱してしまう。
ここに、自分の都合とか、自分の欲とかによって、
教えを曲げる事の恐ろしさを学び取らなければならないですね。
人間の心は、盆の上の卵のように、ころころ変わるから、心、という。
関東の同行も、善鸞も、次第に変わってゆく。
あなたも、子供の時の気持ちと今の変わる。
お母さんやお父さん、あるいは友達がやってきて、
あんたがやっている事は、何よそれ。
こう言われる事は、ままあると思います。
考えてみると、人間、何も問題がなくて、お金もある、時間もある時に、
一つのお話として聞いている時は、簡単に聞けるけど。
簡単に聞けなくなる時に、お釈迦さまの教えられた教えに
従うかどうか、が肝心な事です。
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