親鸞聖人は90才の生涯を終えられるとき、
御臨末の御書に次のようにおっしゃっています。
御遺言です。
和歌の浦の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは、三人と思うべし、
その一人は親鸞なり。
我なくも法は尽きまじ和歌の浦あおくさ人のあらん限りは」
「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す」
親鸞聖人、私は、もういのち終わるが、
安養浄土とは、阿弥陀仏の極楽浄土をいいます。
親鸞聖人は死んでどこにいくとおっしゃっているか。
阿弥陀仏の極楽に往くとおっしゃっています。
ところが、親鸞聖人は、死んだらどうなるかわからないとはおっしゃっていません。
親鸞死ねば、阿弥陀仏の極楽浄土にいくとはっきりおっしゃっています。
これは、驚くべきことです。
親鸞聖人は、4歳で、お父様がなくなられ、8歳でお母さまがなくなられた。
「今度は、自分が死ぬばんだ。一体死んだらどうなるのだろう」
不安になられた親鸞聖人は、9才で出家されました。
その時に、詠まれたうたが、
「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」
そこで、親鸞聖人は、煩悩がくるしみの原因だとおしえられ、
その煩悩を何とかなくそうと思われた。
煩悩とは、貪欲、瞋恚、愚痴です。
ところが、その煩悩をなくすことはできません。
親鸞聖人、比叡山をおりられて、法然上人から苦悩の根元は、
心の闇と教えていただきました。
私たちでいえば、自分が苦しんでいるのは、お金がないから、
また、財産、地位がないから、人から悪口を言われたから、嫌われているから、
自分の思うようにことが運ばないから、嫌いな人が近くにいるから、
このような、欲が満たされないことが苦しみの原因と思っていますが、そうではありません。
心の闇であると教えられています。
自分の行き先がはっきりしない心、ちょうど真っ暗がりの中を走っているようなものです。
自分の家の中でさえも、真っ暗だと、満足にはしれません。
先に、壁があるかもしれません。
穴があいていて落ちるかもしれません。
真っ暗がりを走り続けていれば、必ずぶつかります。
「一生懸命生きろ」
「たくましく生きなさい」
親も言いますし、学校の先生も言いますが、
一生懸命生きようとしても、行き先が不安で、一生懸命になれないのです。
ちょうど、一週間先に、自分の将来を大きく左右するような、重大な試験があったらどうでしょう。
今から不安で、食事も喉を通りません。
また、3日後に、生きるか死ぬかという大手術があります。
今から、不安一杯です。
まあ、手術までのあいだ、楽しくやろうと言っても、できません。
それとおなじ、いや、それ以上の一大事が、死ぬと言うことですから、今から、安心、満足できないのです。
どれだけの、お金を持っていても、財産があっても、地位を得ていても、
好きな人と一緒にいても、そのまま、後生に向かっているのです。
安心、満足があるはずがありません。
苦悩の根源は、物がないこと、煩悩でなく、無明の闇なのです。
この無明の闇が破れたときに、後生明るい心になります。
行き先が明るいから、今が明るい。
この心を往生一定といいます。
死んだら、間違いなく阿弥陀仏の極楽浄土にいって、
仏に生れることにさだまることがはっきりします。
今、生きている時に、はっきりします。
これを、親鸞聖人は、
「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す」
とおっしゃっています。
ですから、親鸞聖人の御一生は、たくましいのです。
この、苦悩の根源である心の闇が破れたんなら、後生はっきりして、明るい心になり、
人間に生まれてきてよかったという、生命の歓喜を体験できます。
この身になることが、人生の目的です。
ではどうすればいいのか。
阿弥陀仏の本願で、必ず、心の闇をぶち破って、
人生の目的を果たさせてみせると誓っておられます。
阿弥陀仏の本願によるしかありません。
その阿弥陀仏の本願一つを教えられたのが、仏教です。
仏教は聴聞に極まる。
聞く一つです。
仏教講座に足を運んで真剣に聞かせていただきましょう。
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