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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年12月19日

蓮如上人からあなたへのお手紙

浄土真宗蓮如上人は、このようなお手紙を出されています。

 

朝夕は暇をねらいて、枕を友として眠り臥せらんこと、
まことにもって浅ましき次第にあらずや。
静かに思案を廻らすべきものなり。

(蓮如上人『御文章』)

 

みんな朝も夜もちょっとでも暇があったなら楽を求めていると

おっしゃっています。
楽がしたいのです。

ごろんと寝ころんで、

朝寝して夜寝るまでに昼寝して起きている間は居眠りをします。

私の場合はまくらもいりません。


いつでも寝れるのが特技という人はいないと思いますが

ただ肉体だけでなく真実に全く目覚めていません。

 

もうちょっとあなた心の闇を晴らして

未来永遠の幸せになるために生まれてきたのだと分かれば、

もうちょっと真剣に仏教を聞いてあなたの唇で仏法語っても良いんですよ。

 

こういうことを蓮如上人お書きになっているわけです。

 

けれども二帖目十二通読まれたら分かるとおり

このお手紙というのは、

仏とも法とも知らん、初めて仏法聞きに来たという人に書かれているんじゃないんです。

 

蓮如上人と御縁があって何回か後生の一大事のあることを聞かせていただいている人に対して

蓮如上人が、何と怠けたことかと何とまあ腰の重いことかと、
何とまあさぼっておることかと、もうやるせない御心で

この御文書かれているんですね。

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2017年12月18日

死後の地獄

死後の世界がなかなか分からない私たちに

蓮如上人は、この御文章二帖目十二通の中に、
等活地獄と人間の五十年というのを比べて教えられています。

 

それ人間の五十年をかんがえみるに、四王天といえる天の一日一夜に相当れり。
また此の四王天の五十年をもって等活地獄の一日一夜とするなり。

(蓮如上人『御文章』)

 

こういう風に書かれているんですが仏教の中に八大地獄が教えられています。


八大地獄の中で最も苦しい地獄無間地獄で、最も軽いのが等活地獄です。

その等活地獄と人間界の苦しみを蓮如上人は比較せられて
その苦しみの激しさやひどさが人間界で受けている1ミリの苦しみなんてものは

私たちが肉体の寿命つきて突っ込んでいく後生の苦しみ、
その中でも最も苦しみの浅い等活地獄と比べたら比較にならないと教えられています。

 

この等活地獄の苦しみと比べて全然比べものにならない苦しみが
次に黒縄地獄と教えられて、
次に衆合地獄に持っていったら比べものになりません。

これが八つの段階に分かれて最後に無間地獄です。

 

そうして見るとですね、私たちが生まれてから死ぬまでの1ミリほどの

アブクの人生でどんなに辛いことや苦しいことがあっても

人間界で受ける苦しみなんてのは未来永劫突っ込んでいく苦しみに比べたら

全く比較にならないことです。

 

ところが私たちは全く智慧がないために、

こんな試験が嫌だとか

こう言われたのが嫌だとか

お金がないのが苦しいとか

親と言い争いしたことが苦しいとか、

それは確かに現実感を帯びていて苦しいんだけどそんなのは幻のようなものです。

一息切れた後に受ける責め苦の方が遙かに苦しいんだぞ

と仏教では教えられているんですね。

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タグ:蓮如

2017年12月17日

人間の栄耀栄華と死後の浄土

私たちは生まれてから死ぬまで一生のことを普通人生って言いますね。
人間が生まれてから死ぬまでを人生と一生と、言っていますが、
この人生のことをですね、浮き世とも言われます。

 

人間生まれてから死ぬまでのことを浮き世と言ったりあるいは、
一旦の浮生と言われたりしています。
この言葉聞いたことあるでしょ。

 

どこに書いてあるか分かる?

御文章です。

これ二帖目七通ですね。
ここに二帖目七通に五戒易往というのがある。
そこを最初から読んでみます。

 

静かに、惟れば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒を持てる功力によりてなり。

これ大きに稀なることぞかし。
但し人界の生は僅に一旦の浮生なり、後生は永生のの楽果なり。
たといまた栄華にほこり栄耀にあまるというとも、盛者必衰、会者定離のならいなれば、
久しくたもつべきにあらず、ただ五十年、百年の間のことなり。
それも老少不定と聞く時は、まことにもって頼み少なし。
これによりて、今の時の衆生は、他力の信心を得て、浄土往生を遂げんと思うべきなり。

 

ここに一旦の浮生という言葉がありますが生まれてから死ぬまでの人生はあっという間なんですよと、
ちょうど、とうとうと流れていく大きな川の流れの上に
ほんのしばらくの間アブクができてやがてパチンと消えて無くなる。

そういう風に浮かんで消えるアブクのようなそういうのが私たちの人生、
ということでアブクとは水泡と書いて訓読みするとうたかたと読みます。

 

ある有名な人がうたかたの日、と書いたくらい。

そういう儚いあっという間に消える人生と言うことで浮き世と言われています。
で、ちょうど、この夢とか、幻のようなものだと。

こうも言われるつまり、夢って言うのは、夢の中では夢中になってる。
必死になってます。
大変な現実感を持っています。
しかし夢というのはやがて消えて何にも残ってません。

あんなに必死になって怒ったこともあんなに熱を上げたことも何もかも

その時は真剣なのに、何も残りません。


私たちの人生はその局面においては必死に何かを追い求めたりしているが
あぶくが消えたら何も残っていないように何も残っていません。

一旦の浮生と言うように、人界の浮生は一旦の浮生なり、
それに対して死後の世界は永生の楽果なりと言われています。

 

この世でどんなに楽しんでみても、

 

たといまた栄華にほこり栄耀にあまるというとも、盛者必衰、会者定離のならいなれば、
久しくたもつべきにあらず、ただ五十年、百年の間のことなり。
それも老少不定と聞く時は、まことにもって頼み少なし。


とありましていつどんな縁で儚く消えるのか分かりゃしないということなんですね。
あなたこの、御文章という蓮如上人の書かれたものを持っている人は
こういう蓮如上人のお言葉をあげていくときりがありません。

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タグ:蓮如 御文章

2017年12月16日

死後の世界とは

後生とは何かと言うと、後に生まれると書くように、

死後の世界です。

 

それは、100%確実な未来です。

 

ここであなたに未来と言うことについてよく考えてみたいと思います。

仏教ではね、未来のことを後生っていうんですね。
で、この未来のことを今からまだ先のこと、
あるいはただ先でも良いですが行く先とか。
こうも言われますので後生くらいと言うのは先が分からない。
ハッキリしない。

あるいは行く先がハッキリしない分からない。
こうも言われます。
でね、行く先即ち未来が分かる、力のこと、仏教で何というか。
その働きを何というでしょうか。

智慧ですね。
智慧とは何かというと行く先未来が分かるということで将棋でも名人といわれる人は
二十手先もこの先どうなるか分かる人のことを将棋の智慧のある人といわれます。

逆に智慧のない人は二手も三手も先が分からないのでヘボ将棋、
ちょっと待ったとやってしまう。
私達にとってこれから行く先、しかも100%確実の未来に
どんなところが待ち受けているのか、見えるか分かるか暗いか明るいか
と言うことは、とっても大事なことです。

 

 

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2017年12月15日

ブッダの宗教は先祖供養?

先祖のたたりがあるから先祖供養をしなさいという話には納得できません。
先祖といえば親ですから子供にたたって不幸にしようと
思うはずがありません。

そんな道理に反した教えを信じても幸せになれません。

もちろん親孝行はすべきです。

仏教にも教えられています。


仏教以外の全宗教を捨てて、仏教を信じなさい。

親鸞聖人は、
「諸の修多羅によりて真偽を勘決し、外教邪偽の異執を教誡せば」
教行信証仮土巻)
といわれています。

 

修多羅とは一切経の別名です。
一切経が大きい木の葉っぱに書かれていた。
その葉の名前です。
諸々のだから沢山あります。

 

真偽とは正しいものと間違ったものを、
勘決とはハッキリ教えることです。


外教邪義とは外道です。仏教以外の全宗教です。

 

異執とは、異なる信心。
ブッダが正しいものを一切経に説かれているので、
その根拠を挙げて間違いを正しておられます。

 

外道の者が言うことを、
ブッダが一切経に書かれていることを、
親鸞聖人があげられて教えられています。

 

真理に外れた教えを信じても幸せになれませんから、

仏教以外の宗教を捨てて、仏教を信じなさい

ブッダが教えられているのです。

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タグ:教行信証

2017年12月14日

宗教と正信偈

私達は何のために生まれて生きているのでしょうか?
生きることは苦しいことですから、もし何もなければ
苦しむために生きることになってしまいます。

 

何を信じればいいのか?

 

そこで宗教が出てきます。
宗教といってもいろいろあります。

お釈迦さまの時代は95種、
今は何百万もあります。

しかし.あれもこれも正しいのではありません。

 

「正」しいという字は「一つに止まる」と書きます。

その正しい真実の教え、
全ての人が求めてやまない真実の教えを教えられたのが親鸞聖人です。

 

「あなた、間違ったものを信じても幸せになれませんよ、
正しいものを信じねば幸せになれませんよ、
正しいものを今から書きますから、これを信じなさい」
と書かれたのが正信偈です。

正しいものはいくつもない。

 

世間では、

「鰯の頭も信心から」

といって値の無いものでも信じていれば、

その人の信心だからあれこれいう必要ないと言います。

 

しかし何でもその人が価値があると信じているのでよいのなら、
親鸞聖人は正信偈を書かれません。


「正しいものを信じなければ、幸せになれないのはあなたですよ。
 間違ったものを捨てて、正しいものを信じなさい」

 

正しいものを明らかにされたのが親鸞聖人だから
親鸞聖人は、世界の光と言われます。

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タグ:正信偈
posted by 陽葵 at 09:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心

2017年12月13日

親鸞聖人の死

親鸞聖人は90才の生涯を終えられるとき、

御臨末の御書に次のようにおっしゃっています。

御遺言です。


「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、

和歌の浦の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、

二人居て喜ばは、三人と思うべし、

その一人は親鸞なり。
我なくも法は尽きまじ和歌の浦あおくさ人のあらん限りは」

 

「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す」
親鸞聖人、私は、もういのち終わるが、

安養浄土とは、阿弥陀仏極楽浄土をいいます。
親鸞聖人は死んでどこにいくとおっしゃっているか。
阿弥陀仏極楽に往くとおっしゃっています。


ところが、親鸞聖人は、死んだらどうなるかわからないとはおっしゃっていません。
親鸞死ねば、阿弥陀仏の極楽浄土にいくとはっきりおっしゃっています。
これは、驚くべきことです。
親鸞聖人は、4歳で、お父様がなくなられ、8歳でお母さまがなくなられた。
「今度は、自分が死ぬばんだ。一体死んだらどうなるのだろう」
不安になられた親鸞聖人は、9才で出家されました。

 

その時に、詠まれたうたが、
「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」

そこで、親鸞聖人は、煩悩がくるしみの原因だとおしえられ、
その煩悩を何とかなくそうと思われた。
煩悩とは、貪欲瞋恚愚痴です。

ところが、その煩悩をなくすことはできません。

 

親鸞聖人、比叡山をおりられて、法然上人から苦悩の根元は、

心の闇と教えていただきました。

 

私たちでいえば、自分が苦しんでいるのは、お金がないから、
また、財産、地位がないから、人から悪口を言われたから、嫌われているから、
自分の思うようにことが運ばないから、嫌いな人が近くにいるから、
このような、欲が満たされないことが苦しみの原因と思っていますが、そうではありません。
心の闇であると教えられています。


自分の行き先がはっきりしない心、ちょうど真っ暗がりの中を走っているようなものです。
自分の家の中でさえも、真っ暗だと、満足にはしれません。
先に、壁があるかもしれません。
穴があいていて落ちるかもしれません。
真っ暗がりを走り続けていれば、必ずぶつかります。
「一生懸命生きろ」
「たくましく生きなさい」
親も言いますし、学校の先生も言いますが、

一生懸命生きようとしても、行き先が不安で、一生懸命になれないのです。

 

ちょうど、一週間先に、自分の将来を大きく左右するような、重大な試験があったらどうでしょう。
今から不安で、食事も喉を通りません。

 

また、3日後に、生きるか死ぬかという大手術があります。
今から、不安一杯です。
まあ、手術までのあいだ、楽しくやろうと言っても、できません。
それとおなじ、いや、それ以上の一大事が、死ぬと言うことですから、今から、安心、満足できないのです。
どれだけの、お金を持っていても、財産があっても、地位を得ていても、

好きな人と一緒にいても、そのまま、後生に向かっているのです。

 

安心、満足があるはずがありません。
苦悩の根源は、物がないこと、煩悩でなく、無明の闇なのです。
この無明の闇が破れたときに、後生明るい心になります。
行き先が明るいから、今が明るい。
この心を往生一定といいます。
死んだら、間違いなく阿弥陀仏極楽浄土にいって、

仏に生れることにさだまることがはっきりします。

 

今、生きている時に、はっきりします。
これを、親鸞聖人は、
「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す」
とおっしゃっています。

 

ですから、親鸞聖人の御一生は、たくましいのです。
この、苦悩の根源である心の闇が破れたんなら、後生はっきりして、明るい心になり、
人間に生まれてきてよかったという、生命の歓喜を体験できます。
この身になることが、人生の目的です。
ではどうすればいいのか。
阿弥陀仏の本願で、必ず、心の闇をぶち破って、
人生の目的を果たさせてみせると誓っておられます。
阿弥陀仏の本願によるしかありません。
その阿弥陀仏の本願一つを教えられたのが、仏教です。
仏教は聴聞に極まる。
聞く一つです。


仏教講座に足を運んで真剣に聞かせていただきましょう。

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2017年12月12日

お寺での戦争

お寺などの聞法会場は、

あなたが座っているところを外陣といいます。

お仏壇のあるところを内陣といいます。

 

 

内陣からは南無阿弥陀仏という弾が撃たれています。
あなたからは雑行雑修自力の心という玉が打ち込まれています。
戦争中にイネムリしていたら負けますね。
必死ですよ。
イネムリ聴聞していたらもう信心決定はできません。
常に聞法姿勢を反省しなければなりません。


戦争において一番恐ろしい大罪は、敵前逃亡です。
軍法会議に掛けられ処刑ですね。
敵の前で逃げてしまう。
たとえ殺されることが分かっていても逃げてはなりません。
進めと言われれば進まなければなりません。
上司の指示は絶対です。
これを私たちで喩えるなら、あなたが求道を断念するということです。
これは戦争でいえば敵前逃亡になります。

 

求道は絶対に諦めて欲しくない。
戦争なら敵前逃亡は射殺です。
仏教ではどうなるか因果応報によって無間地獄に堕ちるという銃殺刑になります。
私たちがやるのではありません。
この求道を辞めたらやめていない人から銃殺刑にされるわけではありません。

 

求道を断念したら、殺生罪を造っている人は、

因果の道理にのっとって、悪因悪果で地獄に堕ちるという

銃殺刑を受けなければなりません。

 

自分の種蒔きで無間地獄に堕ちて苦しまなければなりません。
そういう身にならないようにしましょう。
いくら人生が辛いと言っても地獄の苦しみに比べたら、比較になりません。
後生は大海の水の苦しみです。

 

一度きりの人生ではないか、真実を求め、偽物をぶち破り、激しく燃えようではないか。
浄土真宗は人生をかけるにあたいする教えです。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2017年12月11日

仏教学者も地獄行き

仏教学者は仏教に何が教えられているのか

分かっているのでしょうか?

 

昔からこのように歌われています。

 

八万の法蔵を知る人とても
弥陀たのまねば無益なりけり

 

八万の法蔵とはお釈迦さまの説かれた一切経のことです。

現在の仏教学は、経典歴史を調査して、インドの言葉の語源とか

当時の文化とかを研究していますが、

どんなに仏教学者でも、救われなければ、無益です。

たとえ一切経を丸暗記していても、阿弥陀仏をたのまねば地獄行きです。

ましてやあらゆる経典はお釈迦さまの説かれたものではないと言い出す

クソ仏教学者ばかりです。

仏教学者用の特別苦しい地獄が用意されています。

 

お釈迦さまが一切経を説かれたのは、どんな極悪人でも救われる

阿弥陀仏の救い一つを明らかにするためです。

 

一切経は弥陀たのむ、これに全部収まります。
このたのむという言葉に仏教の全てが収まります。
阿弥陀仏の呼び声を聞かせていただく。

 

八万の法蔵をいくら知っていても弥陀たのまねば無益、助かりません。
ここで誤解してはならないのは教学を学ぶのがどうでもいいということではありません。
ここ間違えます。

 

自分の都合の良いように解釈します。
教学を学べば、ゴールへ向かって進みますよ。
非常に大切。

 

教えを学ぶのは弥陀たのむ体験をさせていただくための教学です。
弥陀たのむ体験をするために教えを学ぶのです。
あくまでも信心決定するためです。
ここまでは絶対に気を抜いてはなりません。
同じ話を何回も耳にたこができるほど仏法を聞く目的を確認していかねばなりません。

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タグ:仏教学 歴史
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 教学

2017年12月10日

仏教講座で仏教を聞く心構え

よく聞いた 聞いた心に 腰をかけ
地獄の釜で 一休みする

 

私たちが仏教を聞く上で気を付けねばならないことがあります。

仏法は聴聞に極まる。

聞く一つで救われます。

 

仏教講座に行って真剣に聞けたときと

あまり真剣に聞けなかったときがあります。
聞けたときは安心します。
今日は砂に水が染み込んでくるような聴聞ができた。
そこでどんずわったら駄目ですよ。

 

よく聞いたこれで私は大丈夫だと、
私たちはすぐに座ろうとします。
ここまでは安楽椅子がいっぱいある。
それを仏教の先生はご説法によって叩きつぶしてくだされる。
私たちはすぐによっこいしょと坐ろうとする。
叩いて頂かないと。

 

聞いた心に腰を下ろしたらこのまま死ねば地獄ですから。
求道に小休止なし。
いつ死ぬか分かりませんから。
だから本当は年末も年始もない。
休みなんてない。
実際は必要なことがあるから、年末年始は帰省してゆっくりしますが、本当は休めない。
お盆も正月も仏法にはない。
死後の世界は念々に迫っていますから。

 

本当はあなたにゆっくり休んで貰いたい。
しかし私はなかなか言えない。
もしも休みなさいと言ったために、先生が休めとおっしゃったのだ、

仏教の先生のお言葉だと都合のいいように聞いて、
本当はもっとがんばれるのに休んで一座の聴聞がないために

救われなかったら大変です。

 

もっと御縁が持つことができるところを持てなければ残念ですから、

休みなさい、とは言われない。
私達は力一杯精根尽き果てるまで、頑張らないと。
年末年始に家に帰ってもただ五欲の生活では勿体ない。
少しでも仏縁が深まるように頑張らないと。
求道に小休止なしです。

一日も片時も急がなければならないのが後生の一大事の解決です。
一休みしていたら駄目ですよ。
千載一遇のチャンス。
これが最後の仏縁となるかも知れませんから、

一回の御縁を大切に、

真剣によくよく聞かせて頂きましょう。

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タグ:聴聞
posted by 陽葵 at 18:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法