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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2018年01月08日

救われた人のすべきこと

親鸞聖人は、

阿弥陀仏に救われた人はこのようにしなさいと

教えられています。

 

他力の信をえんひとは
仏恩報ぜんためにとて
如来二種の廻向を
十方にひとしくひろむべし
(正像末和讃)


「他力の信をえん人は」とは信心獲得した人は
「仏恩報ぜんためにとて」とは
阿弥陀仏に救われたご恩に報いる為に

「如来二種の廻向を
十方にひとしくひろむべし」
とは、
阿弥陀仏の本願を広めなさいということです。

 

「如来二種の回向」=阿弥陀仏の本願です。

なぜなら
親鸞聖人の主著『教行信証』教巻の初めに
「慎んで浄土真宗を按ずるに二種の廻向あり」
といわれています。

浄土真宗=阿弥陀仏の本願です。
「按ずるに」とは、聞かせて頂くと
「二種の回向」とは
「回向」は差し向けるという意味です。

阿弥陀仏から私たちに差し向けて下される2つのもの

ということです。


これは阿弥陀仏の本願にお約束されていることですから
阿弥陀仏の本願です。

 

救われた人は、阿弥陀仏の本願を一人でも多くの人に伝えなさい

と親鸞聖人は言われています。

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posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2018年01月07日

限られた命での聞法

私たちは限られた命です。


限られた時間を体力をお金を
いかに真実へ向けていくかが求道であり聞法です。

 

二河白道を進み南無阿弥陀仏と一体になります。
吸う息吐く息が喜びです。

普通の幸せは、色あせた記憶を過去においていくものばかりです。

 

ところが仏凡一体無碍の一道は、
今の一息が喜び尊い
生命の歓喜で満ち溢れる幸せです。

 

僧侶だった親鸞聖人は比叡山で求められましたが、
私たちは仏教講座に足を運び、
また日常生活で求めるのです。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2018年01月06日

怒りと嫉妬で苦しむ

私たちは、怒り嫉妬で苦しみます。
むしゃくしゃして苦しむのです。

上野動物園のカバ妊娠しました
もっといい場所へうつそうとしたがカバが怒りました。
その後死産しました。
怒りによって毒素が出たそうです。

怒りは相手を傷付けるだけでなく自分も苦しみます。

 

愚痴というのは、ねたみや嫉妬です。
虱のような醜い心です。

 

怒り愚痴煩悩です。

 

私たちは、煩悩で苦しんでいます。
これなら分かります。
リアルで分かりやすいです。

これをおさえ遮り断ち切る
これは認識に乗ります。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2018年01月05日

なぜ仏教は聞きがたいのか

お釈迦さまは仏法聞き難しといわれています。

仏教は聞きがたいということです。

 

どうして仏教は聞き難いかというと、
真実の仏教を教える先生が少ないからです。

 

仏教には、
真実と方便が教えられています。

 

聖道門と浄土門を教えられた仏教の事を真仮といいます。

 

教行信証後序に親鸞聖人は、
「諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず」
といわれています。

「諸寺の釈門」とは、日本中のに住まいする僧侶のことです。
日本中の坊主よ!おまえら仏教に真っ暗ではないか?
ということです。

 

「真仮の門戸」とは、
「真仮」とは、真実と方便です。
「門戸」とはイロハです。

 

仏教を家に譬えるとその敷地に入る門さえ分かっていない
仏教のイロハも分かっていない。

 

仏教には、真実と方便が説かれています。
真実の仏教を浄土門他力の仏教といいます。
方便の仏教を聖道門自力の仏教といいます。

 

聖道門自力の仏教に共通するのは、

私たちの心、仏性があるそれが煩悩の錆によって覆われている。
だからそれを磨けばよいと教えています。

 

しかし、私たちは煩悩でできているので、
どこまで磨いても煩悩をなくすことはできません。

 

それに対して浄土門仏教は、
煩悩ではなく、苦悩の根元を抜き取って、
煩悩あるがままで絶対の幸福に救うのです。

絶対の幸福になられた親鸞聖人は、
「愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや、
西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、遇い難くして今遇うことを得たり、
聞き難くして已に聞くことを得たり。
真宗の教・行・証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知んぬ。
ここを以て聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなり。
(教行信証総序)」
と聞き難い仏法を聞かれ、救われたことを慶ばれています。

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タグ:教行信証
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2018年01月04日

占いや祈祷、新興宗教の発生源

外道邪教の発生源は何か?

苦しみの人生からの救出を求める叫びは充満しています。


薬物や秘儀、儀式にて、物理的、人工的に、

てっとり早く助かろうとするあせりが、
外道、邪教、異安心の発生源であることを、
かつてオウム事件は露出したと言えます。 

 

てっとり早く助かろうとするあせりが、

占い祈祷、新興宗教を生み出すのです。

 

焦りとは不安のことです。

何が幸せにするのか、なにが俺を不幸にしているのか。
心に闇がないところから外道邪教が露出してきます。

ブッダが徹底摧破されたことは無論です。 

 

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2018年01月03日

神道と仏教の信心の違い

神道では、死んだ人間や畜生を宮に祀ると、

その霊魂が鎮座して、

禍福を与える力を持つと信じてとしています。

 

これが神信心です。

では、仏教の信心はどんなものでしょうか。

仏教の根幹である因果の道理を信じることです。

 

仏教では、人間や畜生の死後は、

その人間の生きていた間のカルマ)によって、

善因善果、悪因悪果、自因自果

因果応報の因果の道理にしたがって

地獄へ生まれて苦果を受けるもの、

餓鬼道へ堕ちて苦しむもの、

畜生界修羅・人間・天上界等の六道といわれる

6つの迷いの世界に生れ変るのだと教えられています。

 

特に我々人間は、罪業が深重なので必ず無間地獄へ堕ちると説かれています。
これを経典には「必堕無間」と説かれ、

「後生の一大事」と教えられています。


この仏の真実の教えによれば、死んだ人間の霊魂なるものは、

絶対にこの世の1ヶ所に永住できるものではないのだから、

ましてや、その霊魂なるものが、

生きている人間に災難や幸福を与えたりする力など

絶対にありうるはずがないのです。

 

神信心と仏教の信心には

このような大きな違いがあります。

 

 

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2018年01月02日

浄土真宗のお寺の僧侶の死守すべきもの

親鸞聖人は名号を聞いて助かるのだから、
浄土真宗の正しい御本尊は名号だと教えられています。

 

 

親鸞聖人の教行信証は6巻になったのは、
名号本尊でなければならないのを教行信証に書かれてあるのです。

 

親鸞聖人の教えを正確に伝えられた蓮如上人も
浄土真宗の正しい御本尊は名号だと教えられています。

 

最も大切な御本尊について、
このような親鸞聖人や蓮如上人の明らかな教えを公然と踏みにじり、
金ピカの大きな仏像を仰々しく飾りたてているのは、
お賽銭にひびくからです。

 

最初から名号は難しいから、
ご縁の浅い人の為に木像にしている、
と言う僧侶もあります。
つまり金ピカでおどさないと愚衆どもが有難がらないから
ということです。

 

しかし御本尊は、根本に尊ぶべきものですから、
変えてはならないものです。
死守すべきものなのです。

 

こんなことでは親鸞聖人が、それまで寺院などで用いられていた、
弥陀三尊の絵図などをすべて捨て去って、
ただ六字の御名号を本尊となされた重大な意味は、
まったく無視されていますから、すべてが親鸞聖人の教えに反したことばかりに
ならざるを得ません。

 

伝え方はいろいろ変えていかねばならない部分はありますが、
御本尊については、たとえどんな迫害などあろうが、
守らなければならないものです。

まことに悲しいことです。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2018年01月01日

浄土真宗の蓮如上人の姿勢

親鸞学徒は親鸞聖人、蓮如上人のいわれる事に従っていきます。
それは蓮如上人がそういう方だからなのです。

 

蓮如上人へある人申され候。開山の御時のこと申され候。

「是れはいかようの子細にて候」と申されければ、仰せられ候、

「我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも、開山のめされ候ように御沙汰候」

と仰せられ候。(御一代記聞書159)

 

あるとき、ある人が蓮如上人にお尋ねしました。

開山とは親鸞聖人のことです。

 

「親鸞聖人がこんなことをなされた、

 こんなことをおっしゃったとお聞きしますが、

 これはどうしてなのでしょうか?」

 

蓮如上人は、

「私も知らん。しかし親鸞聖人のなされたことは、

絶対に間違いのないことなのだから、私はそのようにする。

あなたもそうしなさい」

とお答えになられました。

 

蓮如上人はそういう方だったのです。
親鸞聖人の事を開山聖人、一宗一派を開かれたということです。

そして蓮如上人は、中興上人と言われています。
途中で起こされた、という意味です。

 

その当時、親鸞聖人は忘れ去られた人だったのです。
しかし、それを親鸞聖人のみ教えを手垢をつけずに

そのまま伝えられた方だったのです。

一器の水を一器に移すがごとくに伝えられています。

 

そして今日、浄土真宗は、日本の仏教の最大宗派となったのです。

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2017年12月31日

仏教で絶対曲げてはならないものは教え

仏教の教えをどうしたら効果的に伝えられるでしょうか。

 

これを考えるあまり、俗諦ばかり考えると、真諦まで曲げる人が出始めます。

絶対に曲げてはならないものは何か、ということを知らねばなりません。


親鸞聖人の決死的文章と言われる

主上・臣下、法に背き義に違し、忿を成し、怨を結ぶ
このお言葉は天皇批判です。

 

菊タブー、鶴タブーというのがあります。タブーとは、禁止事項ということです。
菊というのは天皇、
鶴というのは創価学会です。

創価学会というのは、日蓮宗から分かれた新興宗教です。

学会を叩くと、部数に響くからです。


週刊誌でさえ、創価学会は非難しても、天皇批判はしません。

昔は天皇は権力の中心でした。
それを親鸞聖人は真正面から非難されました。
許してはおけない、ということで非難されました。

 

天皇中心論と言う時代に、国家権力の圧力で、

浄土真宗本願寺派は祖師である親鸞聖人の教行信証を墨で消しました。

 

それどころか、

「戦争で死んだら、靖国浄土へ行け」

と門徒を煽ったり、法主が神社に参拝しています。

 

仏教の教えを曲げる自殺行為をどんどんやっています。
絶対にやってはいけないことをやっています。
こういうことをやると、真実を曲げてしまいます。
真諦を曲げてはなりません。
絶対に曲げてはならない真実を知らされている人しかできません。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 実践

2017年12月30日

阿弥陀仏と死んだらどうなる

後生の一大事とは、死んだらどうなるの一大事です。

後生の一大事が一大事だから、それを解決される
阿弥陀仏に心をかけないといけないのです。

 

後生の一大事を心にかけて、
一向専念無量寿仏に向かうことが光に向かっているすがたです。

 

年末年始の時期になりますと、
浮かれた雰囲気で目的を忘れがちです。
沢山懐かしい人に会えた!!とか
そんなことに一喜一憂しているのは
我が身の後生の一大事を忘れていることです。

 

逆に仕事ばかりで年末も年始もないからといって

落胆することもありません。

 

我が身の後生の一大事の解決が目的ですから。

俺はもっと他の立場で求めたかったのにとか
不満をいうことありますが、後生の一大事とその解決の道、
一向専念無量寿仏の教えを守るということ忘れては
仏教を聞く意味が失われます。

 

後生の一大事を心にかけて一向専念無量寿仏を守りぬくと
求めているままが光に向かっている姿です。
仏教を聞く原点をよくよく確認させていただきましょう。

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