親鸞聖人には、罪に大小ないと仰有ったお言葉があります。
口伝鈔に
もとより罪体の凡夫大小を論ぜず、三業みな罪にあらずということなし
と教えられています。
私たちを「罪体の凡夫」と言われます。
罪に非ず、ということなしとおっしゃっておられます。
己の本当の姿が照らし抜かれますと、
もとより私達は罪の体、
悪の作りづくめの凡夫だと知らされます
三業皆罪でないものはない。
悪の作りづくめが私であるとおっしゃっています。
この疑問は当然なんですね。
これを分かっていただくためには
あるイタリアの童話が分かりやすいと思います。
イタリアの童話にこんな話があります。
あるところに暗い真っ暗闇の中で、ろうそくが現れました。
ろうそくがこの世で私ほど明るいものはないと自慢しました。
するとそこへひょろりとランプが現れました。
何を言うか、私の方が明るいんだぞ
こう言いました。
確かにろうそくよりはランプの方が明るいです。
ところへそこへ更に電気が現れました。
私の方がもっと明るいぞ。
こう言ったところ、ランプも何も言えなくなりました。
闇に比べたらろうそくは明るい。
しかし、ろうそくよりもランプの方が明るい。
ランプよりも電気の方がもっと明るいです。
これを相対といいます。
比較しますと確かにこういう順番がつきます。
ところがこのあと、東の空から物凄い明るいものが現れました。
太陽が現れますと、たちまちろうそくもランプも電気もみんなまっくらになります。
自慢話はたえたといいますね。
太陽は絶対をたとえています。
絶対の光。
太陽の光が出るまでは
ろうそくよりもランプ、ランプよりも電気が明るいですけれど、
ひとたび太陽が出たらみんな真っ暗です。
こう言えますね。
ちょうどこれと同じなんです。
太陽という光が出るまで、ということは
己の絶対悪が知らされる、機の深信です。
機の深信とは本当の己の姿です。
それが知らされるまではこういう順番で教えられ、
またこれが正しいですね。
しかしこの心の闇が晴れて己の本当の姿が知らされたらみんな同じだと。
十方衆生一人残らず逆謗の屍。
差はありません。
阿弥陀如来の絶対の光明に照らし抜かれますと、
みんな同じ極悪人であることが知らされます。
これで言えばみんな真っ暗です。
人間には差があるように思いますが、それは自分の本当の姿を知らない。
ひとたび自分の本当の姿が照らし出されたら、みんな同じです。
罪に大小ない、日々みんな
心常念悪、
口常言悪、
身常行悪、
曽無一善
です。
これが古今東西すべての人の姿であることが、
阿弥陀如来の絶対の光明に照らし抜かれますと、
知らされます。
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