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2015年09月15日
“たそがれの時代”を読んで……
この本は、はっきり言って、読んでいて憂鬱になる本です。
しかしながら、最後まで読まずにはいられない本です。
団塊世代の私は、21世紀に入り少子高齢化が急速に進む中、人口構成の変化や社会構造の変化等々の諸問題について、各種メディアで溢れる情報を通じて何となく理解しているつもりでした。
私は若い時(40代後半)に大病(胃がん)を患ったものの、その後は概ね元気。65才になって介護保険が健康保険から外されて請求が来て始めて自分が「高齢者」だと気づくくらいに、自分の老いについては無自覚でした。
大病からの回復後、地元に帰り、地域活動にも積極的に参加。地域の子ども達に関する諸活動に参画して「確かに少子化が進んでいるなあ」と思い、そして民生委員活動で「高齢者が多いなあ……」と感じる事はありましたが、少子高齢化についてどこか楽観視している所もありました。
しかし、この本「たそがれの時代」を読んで、少子高齢化社会の諸問題が思っていたよりも遥かに深刻である事を改めて痛感しました。(※続きを読む)
しかしながら、最後まで読まずにはいられない本です。
団塊世代の私は、21世紀に入り少子高齢化が急速に進む中、人口構成の変化や社会構造の変化等々の諸問題について、各種メディアで溢れる情報を通じて何となく理解しているつもりでした。
私は若い時(40代後半)に大病(胃がん)を患ったものの、その後は概ね元気。65才になって介護保険が健康保険から外されて請求が来て始めて自分が「高齢者」だと気づくくらいに、自分の老いについては無自覚でした。
大病からの回復後、地元に帰り、地域活動にも積極的に参加。地域の子ども達に関する諸活動に参画して「確かに少子化が進んでいるなあ」と思い、そして民生委員活動で「高齢者が多いなあ……」と感じる事はありましたが、少子高齢化についてどこか楽観視している所もありました。
しかし、この本「たそがれの時代」を読んで、少子高齢化社会の諸問題が思っていたよりも遥かに深刻である事を改めて痛感しました。(※続きを読む)
2014年12月27日
『仮想通貨革命(著: 野口 悠紀雄)』についてAmazonレビューを書いてみました
(※“IkeMan”というペンネームでレビューを書いています。
このリンク(↓)を押した先で全文を読めます)
(以下、見出しと全文の一部を抜粋)
【「仮想通貨」が「次世代通貨」となる時】
「仮想通貨」という用語を見て、当初は「胡散臭い」と思っていましたが、
この本を最後まで読み通してみて、考えを改めるべきという認識を持つに至りました。
そもそも貨幣制度と言うのは人間社会における「契約の1形態」であり、
「断片化・単位化された契約の履歴」とも解釈できますが、
その解釈に従えば、充分な信頼関係が醸成されている家族間の「お手伝い券」や
ヤップ島原住民の間で用いられていた「石のお金」、そして円やドルやユーロでさえも
「断片化・単位化された契約の履歴」としての本質に差異は無く、
「仮想通貨」もまたこれらと本質的に差異は無い、という事になります。
貨幣制度にまつわる大きな問題の1つは「契約の履歴における虚偽や改ざんをいかに防ぐか?」という事です。
家族間のお手伝い券は家族間の信頼がそのまま虚偽や改ざんに対する抑止力となり、
石のお金の場合は加工したり移動したり契約の履歴を刻み付けたりする行為に対するハードルの高さが抑止力となり、
円やドルやユーロの場合は集約された国家権力が抑止力となります。
仮想通貨の場合は、何人たりとも歪める事ができない数学の法則(特に整数論における法則)が、抑止力の基礎となります。
「1+1=2」ではない数学体系を人間の常識に無理矢理ねじこもうとしても、ねじこもうとした者にとって不毛な結果に終わるでしょうが、
仮想通貨を支える数学的概念を誰かが恣意的に歪めようとしても、やはり歪めようとした者にとって不毛な結果に終わるでしょう。
仮想通貨を支える数学的概念を実用的なアイデアに変えるには今日のようなIT技術の発達を待たなければなりませんでしたが、考えてみれば、
ほんの半世紀ほど前までは通貨の価値の裏付けとして至上の物であり現代でも価値の貯蔵体として重宝される
『金(ゴールド)』ですら、【金属加工技術が発達していない時代ではただの石コロ】であった事を忘れるべきではありません。
このリンク(↓)を押した先で全文を読めます)
(以下、見出しと全文の一部を抜粋)
【「仮想通貨」が「次世代通貨」となる時】
「仮想通貨」という用語を見て、当初は「胡散臭い」と思っていましたが、
この本を最後まで読み通してみて、考えを改めるべきという認識を持つに至りました。
そもそも貨幣制度と言うのは人間社会における「契約の1形態」であり、
「断片化・単位化された契約の履歴」とも解釈できますが、
その解釈に従えば、充分な信頼関係が醸成されている家族間の「お手伝い券」や
ヤップ島原住民の間で用いられていた「石のお金」、そして円やドルやユーロでさえも
「断片化・単位化された契約の履歴」としての本質に差異は無く、
「仮想通貨」もまたこれらと本質的に差異は無い、という事になります。
貨幣制度にまつわる大きな問題の1つは「契約の履歴における虚偽や改ざんをいかに防ぐか?」という事です。
家族間のお手伝い券は家族間の信頼がそのまま虚偽や改ざんに対する抑止力となり、
石のお金の場合は加工したり移動したり契約の履歴を刻み付けたりする行為に対するハードルの高さが抑止力となり、
円やドルやユーロの場合は集約された国家権力が抑止力となります。
仮想通貨の場合は、何人たりとも歪める事ができない数学の法則(特に整数論における法則)が、抑止力の基礎となります。
「1+1=2」ではない数学体系を人間の常識に無理矢理ねじこもうとしても、ねじこもうとした者にとって不毛な結果に終わるでしょうが、
仮想通貨を支える数学的概念を誰かが恣意的に歪めようとしても、やはり歪めようとした者にとって不毛な結果に終わるでしょう。
仮想通貨を支える数学的概念を実用的なアイデアに変えるには今日のようなIT技術の発達を待たなければなりませんでしたが、考えてみれば、
ほんの半世紀ほど前までは通貨の価値の裏付けとして至上の物であり現代でも価値の貯蔵体として重宝される
『金(ゴールド)』ですら、【金属加工技術が発達していない時代ではただの石コロ】であった事を忘れるべきではありません。