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2021年04月17日

正負の数の計算

毎年、何人かの生徒が、「正負の数の計算」で落ちこぼれる。
場合によっては、それが中3にまで響き、さまざまな障害を生む。
というわけで、今回中1学年の数学の授業をコントロールできる立場になったので、「正負の計算」を工夫して教えることにした。

まずは加法と減法なのだが、( )をつけない計算から始めた。
つまり、(-3)+(+2)などの括弧つき符号つきの計算ではなく、-3+2をいきなり教えるという方法である。

例えば、3+2の計算系には4パターンある。
3+2=5
-3+2=-1
3-2=1
-3-2=-5

これと本質的には同じだが、2+3にも4パターンがある
2+3=5
-2+3=1
2-3=-1
-2-3=-5

これらの計算を、温度計の変化で説明して、ひたすら演習する。

できたら、見た瞬間に答えが浮かんでくるようになるまで、何度も練習して、さらにスピードもアップする。

この計算を全員が習得したら、次の段階として括弧つき符号付きの計算を行い、
括弧、符号を省略して、この計算に帰着させる、という作戦である。

最初から括弧や符号つきを教えると、いろいろな規則があって、なかなか一斉理解が難しいのだ

この方法なら、温度計の説明だけで生徒を納得させることができる。

ちょっと荒技かも知れないが、まずは「分かる」、「解ける」を目指して、その後のテストで、「取れる」状態に持ち込みたい。

この方法で、どれだけ正負の数の計算ができるようになるか。
6月の中間試験の結果がどうなるかは、後日ご報告ということで…。
posted by 丹澤三郎 at 11:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 数学

2021年04月16日

朝のメッセージ

中学校のほとんどの教室の黒板に、毎日、生徒向けのメッセージが書かれている。

「みんなおはよう。昨日も、私はみなさんに癒やされました。みなさんたちの笑顔はとても素敵です。笑顔が私のエネルギー源です…。」

こんなメッセージが毎朝黒板に書いてあるのは、生徒たちも嬉しいだろう。

私にはこの発想はなかった。
「書かないで、口で言えばいいじゃないか…」、という古い時代の人間の一人だ。
だが、面白い方法だとは思う。

口で言いにくいから、文字にするのだろう。
古来、そんな風に、手紙も使われてきている。

黒板にメッセージを書くというのは、私も高校時代に経験したことがある。
当時、私はある部の部長だったが、一年後輩の副部長と交換日記のようなものをしていたのだ。

そのとき、ちょっとしたメッセージは、黒板に書いた。
他の人には分からない、中国語で書いたのだ。
同じく中国語を勉強してた後輩には、内容が理解できる。

メッセージを受けたら、その返信も中国語で書く。

他の人は何だか分からないだろうが、なんとなく秘密の交換みたいで面白かった。
もちろん、勉強したての自分たちに、それほど難しい中国語が書けるわけもなく、ほんの短いフレーズだが、今から三十年ほど前の出来事を、懐かしく思い出す。

「何だろう…。」
と、気になって読めば、心にも残る。
それが注意であろうと、祝福であろうと、記憶にはとどまるはずだ。

高校時代、非常勤の若い先生に古典を習ったことがある。
この三月で学校を去るというその先生は、最後に一人ずつノートにメッセージを残してくれた。

『颯爽と風に吹かれる人生であれ。さらば。』

その言葉今でも覚えている。
「颯爽」という漢字はこのとき初めて見た。

恐らく二十代であったであろう、その先生のメッセージを、高校生だった私は、きちんと受けとめ、三十年経っても覚えている。

教育とはおもしろい…。




2021年04月15日

三密

コロナが蔓延した際、官邸は、「密閉・密集・密接」を「三密」と称し、国民に避けるべき指針として提示した。おそらくは、科学的検証もないまま、感染学者の考えのもとに、総理大臣が発表したものであろう。

だが、私が言いたいのは、この「三密」ではない。
密教(仏教)における『三密』である。
「蜜」とは、秘めたものという意味があるが、この『三密』は、悟りに到るための三つの方法と言ってもよいものである。

「身密」、「口密」、「意密」を『三密』と言うが、「身」は行い、「口」は言葉、「意」は心のことで、要は、「心を正し、言葉を正し、行いを正す」ということである。(密教では、さらに具体的な修行徳目のことを言う。)

間違った言葉が出てしまうのは、心の中が間違ったことを考えているからであり、そうした状態では、正しい行為(日々の生活)を行うことは困難である。

霊的世界では、思ったことが相手に伝わるので、言葉と心(思い)は直結している。

『三密』は、「三密」によって、ずいぶん穢されたものである。

「正しい生き方をして、人生を全うしよう」、という思いは、たとえコロナ渦であっても、変わることのない考え方である。

この世を刹那的で、欲望のままに生きることは間違っている。
それが理解できるかどうかは、宗教的素養を持っていることと、その後の教育による。

悟りを高めてゆこうとする考え方が、正しく生きる道であり、まずはその正しさとは何かを知ることが、第一歩なのであろう。

「三密」の中には、人と人とのコミュニケーションが失われる。
そのストレスは、逆に免疫力を引き下げる。

ある意味、『三密』の対極にあるとも言える。

心を正し、言葉を正し、行いを正す。

教員としてのあるべき姿であると共に、人間としてあるべき姿ではなかろうか…。

2021年04月14日

整理整頓

ベネッセの学力推移調査の試験監督で中3の教室に行ったら、クラス全員の鞄が一列に綺麗に並んでいて感動した。

「鞄が一列に並んでいて、気持ちいね。すごいね。格好いいね…。」
と、褒めてあげれば良かったのだが、マークシートのミスなどの指導をしているうちに忘れてしまった。

指導のたまものなのだが、「揃える」ということに注視すると、さまざまな場面で磁場を整えることができる。

学年の先生の指導のたまものだ。
廊下には、昇降口の下足箱の靴を綺麗に揃えた写真も掲示されていた。

部活動でも、バックや靴、脱いだ服が切れに揃っていると美しい。
その美しさは、「やらされた整頓」から、「自分たちでやった整頓」に変わったとき、さらにその輝きを増す。
チームが強そうに見えるし、一体感があるし、何より、細かな所まで気を配ることができるチームであることの証左だ。

整理整頓はその頂がない。
究極と思うそのさらに上に、もっと究極がある。

最終的には『心』にまで関わってくるからだ。
整理整頓して、綺麗にすることによって、何を得るか、何をつかむか、というところにまで達する。

いずれにせよ、見かけだけではなく、その心の状態まで美しさを求めることで、終わりなき整理整頓の旅が始まるのだ。

美しく整頓された姿は、必ずどこかで誰かが見ているものだ。

逆に、見られているかどうかに関係なく、自然体で行動できれば、ホンモノの「整理整頓」に近づくに違いない。

この際、精一杯褒めてあげよう。





2021年04月13日

先生、何年生ですか?

先生、何年生ですか?

このところ高校生からよく、「丹澤先生、何年生ですか?」、と尋ねられる。
要は、何年生担当なのかを聞いてくるのである。

今いる高校生は、皆、私と関わりのある生徒だ。
私が直接教えていない生徒もいるが、私を知らない生徒は誰もいない。
新年度になり、私がどの学年なのか、興味あるのだろう。

高校生は自分が歩んでいた中学校時代と、今の中学生を比較する。
「自分たちのときと比べて、今はどうなのか」が気になるのだ。

だから、しばしば、
「俺らのときと比べて、今の中学生はどうですか?」
と尋ねてくる。

実は、この言葉にはもう一つの意味がある。
高校生にとって、中学生の言動は、あまりに幼く見えるのだ。
自分たちもその時代を経過していたにもかかわらず、そんなことは忘れてしまって、今の姿を見て、悶々とする。

「今年は中1だよ。」
と答えると、「担任ですか? 学年主任ですか?」と聞いてくる。

今までの私のイメージが、担任であったり、学年主任であったりするのだろう。
私にも、そういう口うるさい時代があったのだなぁ、と改めて感じる。

「授業はどこのクラスですか?」
彼等は、習熟度別クラスの私の担当クラスを聞いてくる。
以前の私は、最上位のクラスしか担当しなかった。
私は、そのクラスで、リーダー学を教えた。

「俺は頭悪いから、もう一番上のクラスは担当しないよ。もっと、頭いい先生方ばっかりだから…。」
恐らく、彼等には自虐的に聞こえるに違いない。
だが、このことは真実でもあるのだ。

結局、この人生、この部分をクリアすることなく終えるような気がする。
努力で挽回できる部分もあるのだろうが、もともとの頭の悪さは、いかんともしがたい…。

私が、他の先生とは違う、「何か」を持っていることは事実だ。
良いことも悪いことも、それが、じわじわっと彼等に染みこんで、彼等は私を慕ってくれる。

私は、そうやって教員人生を生きてきたのだ。





2021年04月12日

やりがい

同年代のM先生に声を掛けられた。
「俺はずっと副担だけど、丹澤先生はさ、ずっと担任やってきたのに、担任がなくなって淋しいって言うか、やりがいがなくなった、ってことないの?」

見ている人は見ているのだ。
ここ数年の私はおとな人しい。
職員会議などでも、激しく発言することもない。
加えて、静かに淡々と生きている。
ここ何年か、静養期間のように過ごしてきた。

「やりがいがなくなったってことはないですね。ここ数年、傷ついた心を癒やす期間にしているんです。最後の担任のとき、結構傷ついたので…。」

「へー、そうなんだ。知らなかった。てっきり、担任外されて、やりがいが無くなってしまったのかと思っていたよ…。」

「まあ、学年所属でも、居候ですから…。」
「なんか、淋しくない?」

M先生は、これまで一度も担任になったことがないので、淋しいのだろう。
だから、私のことを挙げて、そんな風に聞いたに違いない。

「陰で支えられれば、それでいいんです。密かに生徒指導の手を打っていますよ。誰にお言わないことも多いですが…。」

「ありがとう! 勉強になった…。」

そういってM先生は去って行った。

「やりがい、か…。」
私は、小雨に濡れながら考える。

一つ、言えることは、未だに、「担任をやりたい」という気持ちが湧かないことだ。

若くないので、もう子どもたちと一緒に行動するのが難しいということもある。

だが、最大の理由は、「また傷つくのが嫌だ」という、傷心のままに生きている私のわがままなのだろう。





2021年04月11日

言葉の重み

元プロ野球選手で、監督までつとめたMさんが来校した。
先日来校した同じく元プロ野球選手のYさんが、「すごい学校だぞ」と紹介したようだ。

高野連の関係で、いろいろ制約は多かったが、選手たちにはいろいろなヒントが得られただろう。

中学生も一緒に話を聞いたが、少ない人数の野球部員たち、どれほど恵まれているのかが、分かっているのだろうか。

本来ならば、自分たちでお金を払ってもなお、来てもらえるかどうか分からないことなのだ。

恵まれたことが当たり前に感じるようになると、人は天狗になる。
そして、いつしか慢心してしまう。
恐ろしいのは、自分が慢心していることに気づかないうちに、いつの間にか、他の人と距離が離れてしまっている、ということだ。

人は慢心している人とは距離を取る。
孤独になった、その人は、ますます慢心する。

かのプロ野球選手たちも、恐らくはこうした経験を経て、生き残り、現役を引退しのだろう。

あまたの可能性のある選手の中で、プロ野球選手になれるのは、ほんの一握り。
その中で、プロとして活躍できるのも、ごくわずか。

どんな世界でも同じことだろうが、そうした経験を経た人の話を聞くことは、それこそ人生訓としても、とても参考になるはずなのだ。

恐らくは、若さゆえの慢心だろうが、貪欲なくらいに学ぼうという気持ちがないと、大切な話もすり抜けていく。

Mさんが、投手にアドバイスしているとき、
「どうせ忘れてしまうだろう…。いいんだ、忘れたって、また思い出せばいい…。」
そんな言葉を何度も耳にした。

何となく、彼自身の人生を伺うようで、感慨深い。

人は経験に裏付けられた言葉に感銘を受けるのだ。




2021年04月10日

愛のかたち

子のために 作った夜食を 朝に食べ

こんな詩がラジオで紹介された。

「子どものために作った夜食の残りを、自分は朝になって食べた」
などという解釈をしていたが、私は違うと思う。

「子どものために夜食を作って置いておいたが、そのまま手がつけられることなく、朝までそのままになっていた。だから、もったいないので、私自身で食べた。」
ということだと思う。

温め直したのか、あるいは味が変わってしまっているのか、そこまでは分からないが、何とも言えない苦みのような味わいで、それを朝になってから食べたのであろう。

子どものために、と作った食事。
「何よ、食べないの?」
と、そのまま残飯として捨ててしまう親もいる。
「作ったんだから、何とかしなさい!」
と、声を荒げる親もいる。

だが、何も語らず、じっと耐え、残された食事を食べる、この詩のような親もいる。

食べるか食べないか分からない夫の夕食を作る妻の思いとは、少し違う。
手がつかずに、朝まで食卓に残っていた夕食を見る妻の気持ちには違いが、どこか違う。

相手は子どもなのだ。

与えきりの愛。
子どもには徹底的につくす。
見返りを求めず。ただただ与え続ける行為。

そんな思いが親の愛にはある。

それを知りつつ、教員として子どもたちと関わらなくてはなるまい…。

悔しい思いを、直接伝えることなくとも、心の中で悶々としているならば、それは伝えてさっぱりした方が良いだろう。

だが、世の中には、そうした感情を抱かない人もいる。
ただただ与えきりの人だ…。

2021年04月09日

苦手な先生

どうしてもW先生が苦手なのです。
嫌いなのです。
好きになるなんて、とんでもないです。

あの先生の、一言ひとことが、胸に刺さるのです。
心が揺さぶられるのです。

私は、あの先生の言葉が、どうしても納得できないのです。
反発心しか湧かないのです
どうしてあの先生そんなことを言うのだろう、という疑問と、意味不明ないやらしさと、嫌悪感しか湧かないのです。

だから私は素直になれません。
あの先生の言葉を受け入れられません。

言葉を聞くだけで、心がワサワサします。
心がドキドキします。
何だか分からない、怒りのような感情が湧き上がってきます。

丹澤先生、どうしたらいいんでしょうか。
W先生を好きになることなんて、私にはできません。



こんな訴えがあった。
「人の嫌な部分を見つけたら、その三倍、十倍、いいところを見つけたらいいんだよ。」
などという黄金律は、彼女には通用しなそうだ。

「どうして反発してしまうのか、冷静になって分析してごらん。」
なんてことも、思春期まっさりの今は無理だろう。

「今は、できるだけ距離をとって、あまり関わらないようにしてみたら…。」
友達ならまだしも、授業を担当している先生ともなれば、なかなかそうもいくまい。

人の嫌な部分が目につくときは、その嫌な部分を、自分自身が持っているからであるとも言う。

そうした分析は、大人になってからのことだ。

さて、どうしたものか…。

2021年04月08日

若手の先生たち

若手の先生たちが熱い。
今年度新たに担任になった先生方、その誰もが意欲的で情熱的だ。

「校長は、これを見越して担任につけたのか…」、と思う。
私たち老人たちは、時にハラハラしながら見守っているが、大方はうまくいっているようである。

何かトラブルが起こりそうだったり、いざ、というときには、もちろん全面的にで助けをする。

このあふれんばかりの情熱には、思い出がある。

私が初めて教員になるべく教育実習に行ったとき、今は亡き恩師のH先生は、「若いときは情熱しかないんだ。それでやっていくしかないんだ…」、と仰った。

若さを当たり前としていた当時には、その真意は100%分からなかったが、今なら分かる。

経験少ない教員が、生徒と全力でぶつかっていくには、やはり『情熱』しかないのだろうな、と思う。

情熱さえあれば、多少失敗だって、挽回できる。
うまく指示できなくても、上手に教えられなくても、時に間違ってしまっても、情熱はそれを打ち消すに十分すぎるパワーを持つ。

そう考え、自らを振り返ってみると、「あの頃の情熱は薄らいでいるな…」、と改めて思う。

だからこそ、担任をやっていはいけないのだろうし、重要なポジションについてはいけないのだろう。

「サラリーマン教員は嫌だ」、と、あれほど思っていたのに、やっていることはサラリーマンになっているかも知れない…。

若手の先生には、要所要所でコツをアドバイスする。
彼らの経験値が上がってゆけば、いつかは大きな戦力になる。

こうして、時代は流れてゆくのだろう…。

情熱的な若手の先生方、がんばれ!




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