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2020年11月24日

人の話を聞けるか

学校の勉強で成績が良いかどうかは、『人の話を聞けるか』どうかにかかっているといって良い。

数学で中位のクラスの授業をしていると、そのことを如実に感じる。
私の性格上、大切なことは何度も繰り返して説明するし、全員が聞く姿勢になってから話をするのだが、このクラスはそうした準備をしても、話が聞けない。
そうした話を聞けない生徒は、私の隙をついて話をしたり、話に集中せずに別のことを考えていたり、先ほどやっていた問題を集中して解いていたりする。

「先生の話を聞けば、必ず数学が説けるようになります。点が取れるようになります。」

たいていどのクラスでもそんな風に生徒たちに訴えかけるが、中位のクラスの生徒は、「自分がきちんと話を聞いていない」、という自覚がないのだ。

切り替えが下手なのか、一つのことをやっているときには、他のことが一切目に入らなくなってしまうのか、それとも、そもそも集中力がつづかないのか…。

一方上位のクラスの生徒たちは、私の話をよく聞いている。
ぼそっとしゃべった何気ない話題についても、彼らは記憶しているのだ。
当然、授業中も「聞いて理解する」ということに全神経を集中しているようで、たいてい一度の説明で、ほぼ全員がクリアする。

もちろんその中でも、「落ちこぼれ」的に、私の話を聞けないせいとも数名いるようではあるが、そうした生徒たちも、説明後に必死で追いつこうとしている。

およそ、前に進んでいこうという態度の勉強方法ならば、向上への道を歩んでいると言ってもよい。

「教えやがれ、このやろう!」的な話の聞き方から、一字一句聞き漏らすまいとする話の聞き方とでは、天と地ほど違うものだ。

考えてみれば、このことは大人の世界でも適用される。
仕事仕方にしても、日常生活にせよ、「聞く」、「知る」、「判断」というルーチンが確立されている人とそうでない人では、『安心感』が違うものだ。

だから、「この人に任せておけば大丈夫」という仕事をぶりの人もいれば、最初から最後までフォローしたり確認したり、チェックしなくては仕事を任せられない人もいる。

もしかして、授業中の姿勢が、そのまま大人になっても効いてしまうのだろうか。
もって生まれた性格のようなもので、そうそう変われるものではないのだろうか。

時折、「先生、どうやったら成績が上がりますか?」、と尋ねられることがある。
そのときに決まって私は、「人の話をよく聞くことだよ」。と答えている。

なるほど、人間には聞き方のレベルがあるようだ。

2020年11月18日

インナーマッスル

野球部では中高合同で、月一回、近隣でジムを開いている元ボクサーに、トレーニング指導に来てもらっている。

今回は、久しぶりに中学生も参加し、高校生とともに一時間強、トレーニングを行った。
中学生高校生とも、毎月のトレーニングに憧れて、今回初参加した人もいる。

この季節でも、トレーニングのあとは、汗だくになるのだから、そうそう簡単なトレーニングではない。

一つのメニューが終わると、息つく暇もなく、次のメニューが与えられ、さっとスタートしてしまうので、生徒たちも、「ぎゃーぎゃー」言う暇すらないのだ。

それでも彼らは必死でついてゆこうとする。

以前も紹介したが、高校生は中学生の目があるので、いいところを見せなくてはいけないと思って頑張るし、中学生も、高校生の目があるので、甘えたり手を抜いたりできない。
お互いが相乗効果となって、いいトレーニングが行われている。

私は、高校の監督とおしゃべりしながら、彼らの頑張りを見ているのである。

このところ、こんな感じで、中高連携しながら野球部を育てている。

中学野球は高校野球の大切な供給源でもあるし、中学生から高校野球あるいはそれ以上を意識して選手を育成することができてば、この先面白いではないか。

私はこんな時でも、「彼らがどれだけ言われたことを忠実にやろうとしているか」を見ている。そして、「何秒間耐えよ」と言われた指示を、どれだけ根性で頑張っているかも見ている。

手を抜いたり、途中で諦めたりしていないかを、何も言わずに観察しているのである。

やはり何事も手を抜かずに一生懸命な選手は、どんどん成長している。
自分に負け、誘惑に負け、苦しさに負け、甘えに屈した選手は、伸び悩む。

自分が一緒にトレーニングしたら、数日後から全く動かない体になってしまいそうだが、見ていて指導方法は参考になるし、自分の勉強にもなる。

一番大切なインナーマッスルを鍛えることで、野球にも生かそうという狙いである。

その中で、いろいろな副産物も生まれている…。

練習後ある選手が「前回よりは大分楽になりました」、と言った。

それなりに進化しているのだろう。

2020年11月16日

柚の収穫

庭木の柚(ゆず)を収穫した。

以前住んでいた方が植えたのか、それとも、それ以前から植えられているのかはわからないが、かなりの大木になっている。
その上、手入れもせずに放置されているので、柚の実はかなり高いところになってしまう。
当然、手に届く範囲ではなく、私は植木梯子に上ったり、二階の屋根から手を伸ばしたりして、ようやく数十個の柚を採った。
ものの数十分ではあったが、それでも傷だらけになった。

柚のとげは鋭い。
それをよけつつ、刺さらないように、気をつけながらの収穫である。

採りたてで香りもいいからと、メルカリに出品したが売れなかった。
余れば、はちみつ柚や、ゆず湯にも使えるだろう…。

「もう少し背の低い柚の木がいいな…。」
大きな実がなれば、結構高値になるし、何よりその香りは幸せな気持ちにしてくれる。

「桃栗三年、柿八年」とはよく聞くことわざだが、その後に、「柚の大馬鹿十八年」などと続くという。

そう簡単に柚の実はつかない、ということだろう。

教育の世界でも、そうそう成果が出るものではない。
生徒たちの一生に影響を与えてしまう、重要な関わりだ。
その後、どういう人生を歩んでいるかすら、知るよしもない。

それでも我々教師は、彼らを指導si続ける…。
保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、専門学校などなど、どの期間の教師たちも、果実を見ることなく、仕事をしているのだ。

柚のとげに相当することも数多い。
傷つきながらも格闘しているのが、我々教師の仕事なのかもしれない。

「柚の大馬鹿十八年、人間の生徒湯にもそのくらいの年月が必要なんだよな…。

2020年11月13日

ALTの先生

私の席の隣に来るALTのT先生は、私よりもかなり年上の方である。
もしかしたら15歳くらいは離れているのではないか、とも思う。

そんなT先生は、週に3日ほど私の学校にやってきて、中学高校の英語の授業の補助に入る。生徒からすれば、外国人の先生の英語を授業中に聞き、話すことができるのである。

コロナ下で、多くのALTの授業が停止になっているとのことだが、うちでは関係なく行われているのだ。

ふと、T先生の生活について考えてみた。
私の学校に来るまで、おそらくは2時間近くかかる。それが週3回。
そして、系列の大学でも教えているでの、週に何回かは、3時間以上かけて大学似通っているはずだ。

私は、「今から十年ないし、十五年後。歳も70近くになって、私はそんな生活ができるのだろうか」、と考えた。

以前『チップス先生さようなら』という映画をDVDで見たことがあったが、私も以前は、生涯現役で教員生活を続けたいと思っていた。

理由は二つある。
一つ目は、「いつまでも生徒と関わっていたい」からであり、もう一つは、「その後にやるべきことが見つからない」からであった。

今は教員後の生活を見据えて準備しているので、二番目の理由には当てはまらない。
ただし、一番目に関しては、寂しさが残る。

そうはいっても、やはり『体力』、そして『気力』、さらには、『理想を追い求める柔軟でかつ力強い思い』だ。

それにしても「歳を重ねた教員が生徒に与える影響とはなんだろう」、と思う。
彼らの年齢からどんどん離れていく寂しさと、大抵のことでは動じなくなった老獪さ、若い頃のように肉体勝負出なくなったこと…。

突き詰めて言えば、やはり自分自身の組織における存在理由なのかもしれない。

彼ら生徒たちは、「常に学び続け、いつまでも変わらないバイタリティあふれる教師の姿」を求めているに違いない。

もう一踏ん張りするか…。

2020年11月11日

ラノベ…なのかなぁ

野球部の助っ人を頼んでいる中2の生徒の誕生日祝いをしてあげたら、「丹澤先生、これ読んでください」、と3冊の文庫本を持ってきてくれたのは、もう一ヶ月近く前になる。

それは彼の父親が書いた小説本だった、
「R君のパパ、小説家だったんだ…。」
私は初めて知った。

なかなか面白く、文体もリズムも私に合っていたので、程なく読み終えることができた。
そして、
「まだパパの本あったら貸してくれる?」
とお願いしたら、「まだまだたくさんありますけど…」、と再び3冊持ってきてくれたのだ。

それを夜の勉強会で読んでいる姿を見て、女子生徒が見逃さなかった。
「丹澤先生、何ののラノベを読んでいるんですか?」
と来た。

「えっ、この本ラノベなの?」
私はハッとした。
確かに純文学でも大衆文学でもない。
内容はきっちりとしているが、いわゆる「あやかし」ものだ。
ただし表紙のイラストは、いかにもラノベっぽい。

「そうか、この本はラノベなのか…」
考えてみれば、ラノベの定義ははっきりしていない。
表紙に素敵なイラストがなければ、若者が手にすることは少ない。
登場人物(主役)が十代から二十代であれば、若者が共感し、感情移入することができる。

ラノベという意識なく、わたしは読みあさっていたが、もしかしたら、やっぱりラノベなのかもしれない。

私は、「小説は単なる暇つぶしであってはいけない」、という持論を持っている。
そこから「何かしら」を得て、「自分の生き方や人生を逆照射」するものであった欲しいのだ。
ラノベにそうした役割を担わせるのは難しいのかも知れないが、私はこれまで読んだR君のパパ本からはいろいろな学びを得ている。

そう考えると、やっぱりラノベではないようにも思えてくる…。

「アニメにしたら、結構、人気が出るんじゃないかな…。」
そうR君に伝えると、
「まだまだそこまでは…。」
と、まるで自分が書いたように謙遜していた。

いっそのころ、パパにファンレターでも送ろうかしらん…。




2020年11月10日

仕事の標準化

私の職場では、数年前から仕事の標準化作業が進められている。
いろいろな職務について、業務な用およびそのためのマインドについて、マニュアル化、標準化し、新しくその仕事に就く際の参考にしようというのである。

今回は、学年主任の仕事について標準化が行われることになった。
先日、校長によって学年主任が集められ、作成の指示が出たのだ。

以前から、「教師の仕事は盗むべき…」などと高をくくっている私は、面倒だと言うこともあり、こうした作業からは逃げていたのだが、今回は逃げられなくなってしまった。

学年主任会議終了後、教頭が私に歩み寄る。
「実は、会議で学年主任経験者にも書いてもらいたい、といいうことになりまして…。」
と、私にもその仕事が回ってきてしまったのだ。

おそらく今学年主任をしている先生のうちの誰かが、私のことを話したのだろう。
私がまだ忘れられていない存在であることに、少しだけ嬉しくなった。

文章を作るのは面倒だが、微力ながらお役に立てるのは少し嬉しい…。

先日、「ねんきん定期便」が届いた。
65歳から受給できる年金の金額が記されていた。

私の場合、私立学校ばかりだが、途中抜けている期間があったので、通常よりは受給額が少ないはずだ。それでも、あればありがたい程度の年金が支給されるようである。

組織に役に立っているという思いがなければ、その仕事は続けられない。
私も、そういう思いに近づきつつあったが、今回すこしだけ挽回した感じがする。

「24時間戦っている」状態の、懸命に仕事をしていた時期もあった。
そんな時は、忙しかったけれど、それなりに幸せだったことを思い出す。

「お手伝いいただけますか?」
珍しく教頭が丁寧に私に尋ねた。
私は、「微力ながら…」と、受けることにしたのだ。

この先の人生でやりたいことはたくさんある。
ただ、その新しい生き方に移行する前に、今ある仕事の中で、何かしらを残さなければならないのだろう。

「まだ、お役に立てることがあるのかな…。」
そんな思いが、私のモチベーションを少し高めてくれた。

2020年11月09日

水星

明け方、金星より低い位置におとめ座のα星スピカが見えたのだが、その東側に見慣れない明るい星があった。

明るさにして0等級。
「水星かな。水星じゃないかな。でも水星だろうな…。」
と調べてみたら、やはり水星であった。

水星は太陽に近いので、なかなか見ることが難しい。
しかも、内惑星ということもあり、明け方か夕方のほんのわずかな時間しか観察できないのだ。
ちょうど今月の11日に西方最大離角となり、明け方の空でもっとも高い位置に来る。
今朝は、その時期と重なったわけだ。
高いと言っても日の出30分前で10数度。
空がきれいで、東南東の空が開けていないと見えないはずだ。

金星は宵の明星、明けの明星と明るく目立つのだが、水星は、一生に一度も見ることなく人生を終えてしまう人も多いのだろう。

今は、夕方に木星と土星、一晩中火星、明け方に金星と水星、と言った具合に夕方と明け方でおもだった惑星がすべて見える。

ちょいうど空気も澄んだ頃なので、その輝きを見るのに適しているのだ。

授業中生徒に、「今朝は水星が見えたよ…」、と言ってもぴんとこない。
カノープスのは話しでもしたあとに、水星の話しをしないと、説得力も生まれまい。

昨今は夜空を見上げる人も減り、星空に関心を持つ人が減ってしまっているように思える。
私も、晴れていれば一年中天の川が見えるこの地に移り住み、いつしか、満天の空が当たり前になってしまっている。

「星々を見ると心が安らぐ」のは何故だが分からないが、大宇宙の雄大さに小さな悩みなど吹き飛んでしまう効果があることは事実だろう。

夕方は飛行機が多いが、夕方や明け方は人工衛星が多く見える。
国際宇宙ステーションだって、ときおり見える。
また、流れ星もよく飛んでいる。

日の出前の朝の静寂に、愛犬の散歩をしながら星を見ている自分に至福の時を感じながら、新たな一日の始まりを迎えるのが、私の日課だ。

そんな中、5時半には校長室の電気がつく。
校長はこの時間から仕事を始めているのだ。

今の時期、そろそろ空が白み始める時間だ。

※ 全天二位の明るさを誇るりゅうこつ座のα星。日本からは高度が低く、なかなか観察できない。中国では南極老人星と言われ、見ると長生きすると言われる。




2020年11月08日

イノシシ

久しぶりに庭の畑を耕した。
小さな耕運機があるので、そこに混合燃料を補給して、エンジンを掛け、「さぁ、スタートだ」、と動かした途端エンジンが切れた。
その後、二度とエンジンはかからなかった。

仕方なく、鍬で畑を耕す。
大して広い畑ではないので、鍬でも問題はない。
だが、慣れない畑仕事で少し疲れてしまった。

長ネギとタマネギとニンニクを植え付けたいと思っていたのだ。
苗は届いたが、畑の土作りが終わっていなかったので、急遽、畑仕事になったわけだ。

いつもは、大して元肥を施すことなく植えてしまったが、今回はきちんと土作りをしている。
もう一週間くらい待って、植え付けようと思う。

それまでに苗が弱ってしまわないように、管理しなくてはいけない…。

ふと、畑仕事に一息ついたころ、隣家でゴソゴソ音がする。
すると、垣根から一匹のイノシシが畑に侵入してきた。

子供のイノシシというより、少し大きくなったイノシシだった。

「おいおい、人がいても入って来るのかよ…。」

と同時に、「俺は鍬をもっているんだぞ!」、とイノシシを追いかけ、追い出した。

そのイノシシは、再び垣根に入っていった。

いよいよイノシシが民家にも侵入してくるようになったということか。

私の愛犬は、気づいていないのか、「ワン」とも言わなかった。

空き家の隣家は、野生動物の巣になっているかもしれない。
垣根からの侵入を避けるために、板や柵をおくしかあるまい…。

昨今は、あちらこちらにイノシシが荒らした後がある。
相当数のイノシシが生息しているものと思われる。

イノシシは勝手に駆除できないが、被害も困る。

この地域は狸やハクビシンもたくさんいる…。

自然と共存する工夫を考えねばなるまい…。

2020年11月07日

サプライズ花火

夕方、近隣で花火が上がった。

今年は軒並み花火大会が中止になったので、打ち上げ花火を見るのは、今年になって初めてかも知れない。

昨今は、学校行事がことごとく中止になったことを励ますため、サプライズで校庭から花火を打ち上げたり、たとえ花火の打ち上げが計画されていたとしても、場所と時間を告知しなかったりする。

今回も、サプライズには違いないが、どこから打ち上げたのかは分からなかった。
音と光の関係から、数キロ以上離れたところでの打ち上げらている。

私は、犬の散歩をしている隠れ家から、山の端に半分だけ開く花火の大輪を見たが、一時間ほど打ち上げられたので、結構希規模の大きなイベントだったようだ。

日本中から花火の打ち上げが止まれば、花火職人も困ってしまうだろう…。

お盆の頃に打ち上げられた花火は、先祖の慰霊の意味もあるようだが、氷の張るようになった昨今、打ち上げられた花火を見るのは、何とも感慨深い。

直近で打ち上げれた花火を見たのは、昨年は地元の盆踊りの時だった。
ほんの三十分くらいだったが、ほんの数百メートル咲きで打ち上げられた花火は迫力満点だった。

もう、大昔になるが、大学生だった頃、学園祭の最終日の夜に学内から花火が打ち上げられた。
自分では何をしたかも忘れてしまったが、必死でサークル活動で学園祭に参加しての最後の晩ということもあり、酒を飲みながら、花火を見ながら涙したことを思い出す。

どうやら花火は日本人の心に深く根付き、さまざまな思いを去来させる不思議な魔力を持っているようだ。

もちろん打ち上げには金がかかる。
昨年地元の花火の前、年金生活者には、「花火の寄付がきつい…」という地元の声を聞いた。
現役世代がどんどん減っている限界集落に近い私の地域でも、そうした問題が起こっているのだ。

地域は支えたい助け合って守られている。
花火の打ち上げも守り抜いてゆかねばなるまい。

「新盆なのに花火も上がらないのか…。」
なんてことにならないように、私も微力ながら支えてゆきたい。

何年か前までは、私の学校のグランドからも三尺球を上げていたのだが、金銭的な事情から辞めてしまった。

やっぱり花火はいい…。

2020年11月06日

作り笑顔

久しぶりに高3のY君と会った。
声を交わしたのは、一ヶ月ぶりくらいだろうか…。

Y君は私を見るなり言う。
「死にそうな顔ですね…。」

ちょうど私が6時間目の中3の授業のために、特別教室に移動している時のことだ。

「大丈夫ですか。疲れているんですね…。」

ああ、私はそういう姿を生徒たちに見せてしまっているのか…。

確かに午後は疲労が蓄積している。
中3の授業は楽しいので、授業に行くことが疲労をさらに倍加させるという訳でもない。
どちらかと言えば、生徒たちからパワーをもらっているのが現実だ。
だが、ふとした私の油断が、表情に出て、その姿を見た生徒を心配させたのだ。

教師(指導者)たるもの、いついかなるときも元気な姿を見せなくてはならない。
たとえその姿がつくり笑顔であったとしても、彼らに不安感や心配を与えてはいけないのだ。

このところ、私自身、仕事中に「ふー」とため息をつくことがある。
「あぁ、疲れたな…」という思いを、頑張って口に出さずにいるものの、ふと、大きくため息が出る。
体力が急激に落ちているのだろうか。

もうすこし身体を鍛えなければ、いい仕事はできないのだろう。

「自分の生きる道は、なかなか見えないかも知れません。でも、今与えられている部署で全力を尽くしてこそ、道が拓けるのだと思います。あれこれ悩んでも、絶対に見えてきません。」

今朝の朝礼で、校長が熱く語っていた。
ここ数年、私はこの職場で全力ではないように思う。
心の中ではカウントダウンを始めているのかも知れない。

もちろん、そんな中でいい仕事ができる訳もなく、基本的に静かに過ごしているのだが、時に「老害」をまき散らしているのだろう。

11月になって、高3の受験生たちも、焦る気持ちを抑えつつ、勉強に勤しんでいる。
そんな折、教師たる者、やはり明るく爽やかな笑顔で接するべきなのだろう。

たとえ作り笑顔でもいい。
いつしか、それが本物の笑顔になる日を目指して、精進し続けなければなるまい…。

「ふー」と大きなため息をつくのは、誰も見ていないトイレの大きな鏡の前だけにしよう。
その醜い姿を見て、「もうため息をつくのはやめよう… 」、と思えるかも知れないから…。




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