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2021年01月20日

寒波に思う

少し前に4月中旬並みの暖かさになり、1月というのに雨が降った。
このところ暖冬続きだったので、あまり珍しくはないが、この冬は寒かったこともあり、暖かい雨には少しびっくりした。

そして、今朝は雪になった。
深夜から気温が徐々に上がり0℃近くなったのだが、あっという間にあたりは白くなった。
幸い風が弱かったので、犬の散歩には困らなかったが、前が見えないほど激しく降った。

まさに厳寒期。

そしてまた一日中氷点下の日がやってくる。

そんな中、庭の梅が一輪咲いた。

植物たちは季節を忘れない…。

「先生、寒いです…。」
そりゃそうだ。最低気温が−10℃にもなる日もあり、その上、晴れていたって氷点下、山から雪を降らせた寒風が吹き荒れる日だってある。
そんな生徒たちの訴えに、私は決まってこう答える。
「だって冬だもの。」

冬は冬らしく、夏は夏らしく…。

昨今は、そんな季節の変化が狂ってきた。
そうなると、季節を頼りにしている植物たちには厳しくなる。
昨年の夏も7月いっぱい雨続きで、特産の梨がほとんど駄目になったのだ。

これで停電になったら大変だな…。

私の学校は、東日本大震災後停電になった。
その後も、計画停電で、一日に何時間か、電気が切れた。
あのときは、ちょうど春休みにかかったが、これが平常時だと大変苦しくなる。
私の学校では、電気が止まると、すべてのライフラインがストップするのだ。

この冬は、全国的に寒さが厳しく、電力需要が高まり電気供給が逼迫しているという。
電化製品も増えたことも原因だろう。
最近のエアコンは、あっという間に部屋を暖めてくれるらしい
もちろん、以前よりはずっと省エネなのだろうが、そうしたものが普及すれば、全体として電気をたくさん使うことになるのだろう。

脱炭素社会などと言っているが、このことを勧めると、日本は電力統制社会になりかねない。

原子力を止め、化石燃料の発電を止めて、本当に電力供給ができると思っているのだろうか。

世界一燃費の良いガソリン車を廃止しようと、日本は自滅への道を歩み続けるのだろうか。

先日、NHKで地球温暖化を警告する特集番組が放送されていた。
その裏で、大寒波による豪雪で雪に苦しむ人たちのニュースが流れている…。

自然は、人類の浅知恵でコントロールできるようなものではない。




2021年01月13日

どうして解けないの

「これ、おかしいよね。とっても簡単な問題だよね。これが解けないということは、全然分かっていないということだよね。こんな状態で、勉強したって言えるの。私にはまったく分からないよ。どうして解けないのか全然分からないよ。どうなっているの。教科書の例題に出てくるような基本的な問題じゃない。こんなんで、対策したって言えるの。本当不思議でしょうがないよ。」

私は反駁しそうになったが、それをとどまった。
何を言っても言い訳にしか聞こえず、しかも、その対策すら思いつかなかったからだ。

「途中で間違えてしまうなら、解くとき、一行一行確認しながらやればいいんだ。時間がかかるようで、実はトータルとしては時間がかからない。あとから見直すのは大変だからね。君もそうすればいいんだ。少なくとも私はそうしている。そうすることでミスをふせいでいるんだ。それにしても、この点数はひどい。」

「僕には無理かも知れません…。」

完全に自信を失っている私は、半ば諦めかけている。
自分は他の人より極端に頭が悪く、要領も悪く、集中力も欠けているのだろう。

「いやぁ、できるよ思うよ。○○だって、△△だって、勉強したら点が取れるようになったんだから…。結局は、勉強していない、ってことじゃない? いやあ不思議だな。なんでできないんだろう。とうして解けないんだろう。もっと頑張ろうよ。もっと点数を取ろうよ。上を目指そうよ。やればできるようになるんじゃない?」

「緊張しちゃうの? プレッシャーで解けなくなっちゃうの? そうなら何とか克服しなきゃ。頑張らなきゃ。いやいやしかし、何でこんな点なんだろうね。こんな問題、暗算で解けるよ。一瞬で答え出るよ。君は、そんな問題を間違えているんだよ。おかしいおかしいね…。それに、君の答案。難しめの問題には手をつけていないよね。なんか、やる気ないように見えない? うーん、どうしたものかな…。」

夢を見た。

先生に責め立てられているのが私である。

これまでどれほどの生徒を傷つけてきたか、よく分かるようでもある。
と同時に、自分自身の実力のなさを、徹底的に指摘され、「おまえなんて、ここには必要ない存在だよ」と言わんばかりの勢いだ。

後味が悪い…。

2020年10月07日

祈りの調べ

この春大学を卒業したばかりの、その女性の祈りは美しかった。
久しぶりに美しい祈りの調べを聞いた。

人間にとって一番美しいのは、祈っている時の姿であるという。
無私無我の気持ちで、神に祈りを捧げる敬虔なしせいは、その思いが純粋であれば純粋であるほど、美しく、神々しさすら感じるものだ。

以前、私が美しい祈りを聞いたのは、高野山に詣でたときである。
もう、十数年前になる。
僧侶による高野山真言宗の唄の調べは、心地よさと美しさを感じたものだ。
以来、多くの祈りの場に立ち会っているが、美しい調べとであることは、滅多にない。
圧倒的多数の僧侶の読経は、その波動が美しくないように思える。

宗派は違えども、その美しさは共通している。

この美しさは、祈りそのものが、大いなる存在である神と対峙している姿であるからだ。
そして、その対峙するに値する心の状態を維持していなくてはならないからであり、さらには、底に自我の思いが存在しないからである。

その姿勢と態度に、神に近づこうとする思いがある。
その思いは、何人からも尊崇されるにふさわしい心根であり、人間本来の正しい生き方そのものを表しているのだろう。

美しい祈りの調べのMさん。
「まだまだ若いのに素晴らしいな」、と思う。

泥と埃にまみれた穢れた私から見れば、まさに高貴な存在のように見えた。

昨今、宗教学校でも祈りの時間が減っていると言う。
形式化し、生徒たちが真面目に取り組めない、という理由もあるのだろう。

しかし、それは、本来あるべき人間としての姿勢を放棄しているようにも見える。

美しい調べのMさんの祈りを聞いた生徒たち。
一瞬だが、幸福感が増大したのではないだろうか。

決して刹那的な動画では体験できないバイブレーションが、そこにはある。

学校教育でも、宗教的な涵養を重視するようになって久しいが、世の中それほど変わっていないように思える。

まずは、大人たちの宗教に対する意識が変わらないといけないのだろう。
今のままの学校教育で、子供たちにそうした純粋さを伝えるのは、やはり難しい…。





2020年08月31日

それでも逃げ続ける…

若いときは、概して自己中心的になる。
それを、大人たちにたしなめられ、「それではだめだ」と叱られる。

都合が悪ければ人や環境のせいにし、できない理由を他のものにする。
そうすると、自分が正当化され、気持ちが楽になるのだろう。
ただ、そうした習慣を確立してしまうと、「進歩」のできない、『逃げ』の人生になってしまう。

昔から、「上手くいったの人様のおかげ、上手くいかないのは自分の努力不足」、と言われるが、まさにその通りで、自ら努力を放棄した者の未来は拓けないものだ。

中学生や高校生はしばしば「自己中心的」になる。
思春期特有の心の乱れにより、自分ではどうすることもできなくなって、その原因を他に求めるのである。そして、それがエスカレートすると、「○○さえなければ、上手くいくのに…」、とマイナスのスパイラルに突入する。

等の本人たちは、それに築かず、どんどん墜ちていく。
昨今は、そうした悩める子供たちの姿を見て、親たちもが、苦しみの原因を他のに求めようする。

「親なのだから、子供が苦しんでいたら、なんとかしてあげたい」、と思うのは当然のことだが、親であっても、思春期の子供を育てるのは初めての経験であることもあり、事情はなかなか複雑だ。

言い訳だと、分かっていても、自分を抑えられず、泣いたり、暴れたり、自暴自棄になったりするのが、子供である

よくできたと覆われる中高生であっても、あるとき、突然、キャパオーバーになって、爆発することだってある。

我慢してしまうタイプの人は、我慢の限界を超えると爆発する。

「やってもやってもできない」、と思うのは思春期の常。
その悩みを大きく膨らましすぎるのも思春期の常。

思い通りにならないことは、大人になっても変わらない…。

『愛されたい。認められたい。自分のことは自分でししたい。」
というのが、若者の特注である。

ふと、私自身が大学生時代に書いた小説を思い出した。
あの頃の私は、逃げてばかりいた。
自己防衛反応で、つねに安全地帯を作ろうとしていた。
逃げても逃げてもだめだと分かっていながらも、逃げ続けた。

そのときの小説のタイトルが、「それでも逃げ続ける…」であった。

誰もが通る道、ということか…。

2020年05月15日

学校教育を再開させよ

緊急事態宣言が解除されたが、県内の学校再開は6月からとのこと。
一体いつまで、学校を閉校にし続けるのだろうか。

この機に9月入学に移行すべき、などという意見もあるが、要は休校にしたことによる責任回避である。

休校により教育を過程に丸投げし、子供たちの教育を受ける機会を奪ってしまった。

もちろん、他の業種も企業活動を停止させ、国家を混乱に陥らせた。
全国的な緊急事態宣言など、果たして本当に必要だったのだろうか。

コロナウイルスの収束には、おそらくは何年もかかる。
それまで活動を停止すれば、「人類は原始生活に戻る」ことを意味する。

学校が始まったとしても、心配は保護者は登校させないかも知れない。
そうした判断もよかろう。
学校としては、出席扱いにするなどして、個別対応すればいい。
いろいろ考えるべき課題も多いが、ゼロリスクで生活するのは、もはや不可能なのだ。

今、学校を再開しても、たとえそれが一ヶ月後、三ヶ月後、一年後であったとしても、おそらくは状況は余り変わらない。

感染は、油断や隙のあるところには起こるだろうし、知らないうちに感染し、無症状のうちに抗体ができている人も増えていくだろう。

国民に対して、感染症予防の一定の知識を身をもって体験させたことは間違いないが、その功罪はマイナス面の方が遙かに大きいはずだ。

人類は、感染のリスクと戦いながら、この先生活を続けることになる。
生活スタイルは、少しずつ変わっていくのだろう。

マスコミは、これ以上人々に恐怖を煽らないで欲しい。

私の学校では、運動会に向けて、生徒たちが全力で練習している。
教室で学び、そして外で身体を動かす。
その中で数多くの学びを得る。

これが本来の教育活動だ。

「生徒のことを考えると…」
という大人たちの決まり文句は、私は責任回避にしか聞こえない。

中国の責任はあるが、ここまでくると、感染云々は誰のせいでもない。

自然の摂理であり、科学万能主義になって傲慢になった人類への警告である。
医学もなすすべがなく、助かる人は助かり、助からない人もいる。

何がそれを分けているのかを、考えなければいけなくなってくるだろう。

今日も生徒たちの元気な声が響く…。

それが、全国津々浦々に広がっていくことを望む。

2020年01月03日

お年玉

お年玉を貰わなくなり、また、あげなくなって何十年も経つ。
もともとは『餅』を配り、それをお雑煮として食べた、という習慣だったらしいが、いまや中学生であっても万単位のお年玉をもらうらしい。

ただ、親戚一同が集まる機会が少なくなれば、お年玉をいただける方の人数が減ってしまうわけで、たとえ中学生のお年玉の平均金額が5000円だったとしても、総額はかなりのものになるのだろう。

一方でそれを自分自身で管理して、自由に使える、という子供も少ないのが現状だ。
大抵は親に預け、よくて教育費、時には生活費として消えていく。

だが、欧米諸国のように、
「このお金は、君の自由に使って良い。ただし、すぐに欲しいものを買う、というのではなく、お出に増やしてから、その増えた分で欲しいものを買いなさい。」
などという教育どうだろう。

実際、学校教育では、明治の義務教育が始まって以来、「お金の教育」はなされていないので、親も含めて、「どのようにしたら増やせるのか」、ということが分からないだろうと思う。」

『消費・浪費・投資』、を的確に説明できる日本人は、残念ながら少ないようだ。
ましてや、生徒に説明できる教員もほとんどいないのが現状かも知れない。

一説によると、義務教育開始時の国策である『富国強兵』のためには、従順な労働者が必要とされ、経営者的視点や、独自の発想は排除されたのだ、と言う。

現在の教育内容に、消費者教育はあっても、投資者教育がないのも頷ける。

『改訂版 金持ち父さん 貧乏父さん:アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』(ロバート キヨサキ著)を読んでも、いかに日本のお金に対するマインドや教育が欧米の常識とかけ離れているかが分かる。

倹約を美徳とし、ただただ貯蓄をしている中では、なかなか経済は発展してゆかないという。
日本では、今や銀行は単なる金庫となり、これ以上倹約できないくらい、税が重くなってしまった、

そんな中で、お年玉が単なる『浪費』にならないように、世の大人たちは、子供たちに『投資』についても教えるべきだろう。

私も、自信を持って教えられるよう、鋭意奮闘中でもある。








2019年12月30日

正月飾り

「あらめずらしい門松…。」
母が私の住む田舎に来たとき、ある店の前に置いてあった門松を見てそう言った。

以前はマーケットにせよ、すこし大きめの店舗には必ず門松が置いてあったが、昨今はそうしたことは行われないらしい。
長く続く不景気による経費削減なのか、日本人として信仰心が薄れたのか、はたまた伝統文化の衰退
か…。

確かに昨今、正月飾りがすくなくなった。
以前、アパートやマンションに一人で暮らしているときですら、私自身、正月飾りを玄関につけた記憶がある。それより前は、自家用車にも正月飾りをつけていたこともある。

ところが、このところ、飾りをする家の方が少ないように思える。
ここ田舎でもそうなのだから、都市部ではなおさらだろう。

「一夜飾りはだめよ。」
と、執拗に母に言われたことを思い出す。

今日、回覧板で『どんど焼き』の案内が来たが、正月飾りのない家は、『どんと焼き』の時に、何をお炊き上げするのだろうか。

政治の失策により、経済成長が二十五年以上止まっていることを考えれば、経費削減もやむを得まい。

一方で、日本人として信仰心が薄くなっているのは、核家族化と教育によるものが大きいだろう。
令和の時代になり、あらたに天皇陛下即位した。

一連の儀式は、日本神道の伝統的な儀式であり、すべては『日本の神々に感謝を捧げ、国民の平安と繁栄を願う』ものである。

儀式だけが取り上げられ、世界中にアピールされたが、果たしてその心は伝えられたのだろうか。

伝統文化の衰退も急速に進んでいる。
時代とともに変わりゆくものもあるが、変わってはいけないもの、守るべきものもあるのだ。

伝統を子どもたちに教えるのは、家庭や地域の役割だったが、今や、学校でも関わりを持たないと、ますます廃れてしまうに違いない。

人知を超えた存在である神さまによって生かされているのが人間なのだ。

堂々とそう教育できる日は、いつになったらやってくるのだろうか…。








2019年12月19日

地球温暖化は真実か

スウェーデンの環境活動家のグレタさんのスピーチがセンセーショナルに大々的に報道されて以来、またしても、地球温暖化を危惧する意見が増え、先日のCOP25(気候変動枠組み条約第25回締約国会議)でも、議論が交わされた。

だが、グレタさんを象徴する地球温暖化は、本当の真実なのかどうかは、資料を調べれば調べるほど疑問を呈さざるを得ない。

温暖化対策は、実は環境問題なのではなく、政治運動なのだと豪語する人もいる。
つまり、温暖化対策は、環境保護ではなく、世界の富を再配分するための施策であり、先進国から途上国への富の環流であると言うのだ。

このままで2050年までに地球の平均気温は2℃上昇するとか、台風が増え巨大化して、ますます自然災害が増えるなどと、ほとんど根拠のない説をあたかも真実かのように垂れ流している。

実際、一万年のスパンで気温を調べると、地球は現在「寒冷化」に向かっている。
このデーターは、南極の氷を調べた二酸化炭素濃度との相関関係がない。

日本は2030年まで、100兆円を温暖化対策に投じる見込みだが、それによって制御できる気温は0.001℃であるという。これは、温暖化対策に全く効果がないことを意味している。

富の再分配は共産主義的な考え方であり、これを国連主導で行うとするならば、国連そのものが共産主義化していることにもなり、トランプ大統領がパリ協定から離脱したのも頷ける。

GDP第2位の中国は、発展途上国扱いなので、削減義務というより、先進国の援助を受ける側、その一方で一帯一路で、火力発電を輸出しまくっている様は、矛盾そのものだ。

先日ラジオを聞いていたら、視聴者からの声として、
「地球がここまで危ない状態とは知りませんでした。私もできる環境対策をしたいと思います。」
と流れていた。

間違った情報をマスコミが流し続け、あたかも二酸化炭素が悪のような風潮を誘導しているようにしか見えない。

データーが語ると言うが、そのデーターが地球温暖化に都合の良い、最近のデーターだけをピック委アップしているという真実を知らなくてはならないだろう。

今や、単に報道に流されてはいけない時代なのだ。

二酸化炭素は食物を繁茂させ、生育を促進し、作物の収穫を増やす。

「先生、地球温暖化は二酸化炭素が原因でしょ。」
という生徒からの問いかけに、
「それは違うよ。」
と、堂々と答えられる日は、じきにやってくるのだろう。








2019年12月02日

200倍

「持っている財布の値段の200倍が、その人の年収になる」ということを聞いた。

数千円の財布しか持っていない私の場合、この理論は当てはまらないのだが、この話はとても意味深い。

例えば、2万円の財布を持っている人は、年収400万円。10万円の財布を持っている人は、年収2000万円ということになる。

調査により、統計的にこのようになっていたいうわけだが、この結果にはもう一つの側面がある。
それは財布の持ち主の意識の問題だ。

たとえば、「今、5万の財布を持っているのだから、その計算上の年収である1000万に近づけられるよう、努力し、行動していこう」、という具合に、目標とする収入に近づいていくべき、なんらかのアクションを起こすことを意識づけできるということだ。

と同時に、「財布の200倍が現在の年収よりも大きい人は、これからもっと稼ぎ、財布の200倍が現在の年収よりも小さい人は、これから落ちていく」、という傾向があるというのだ。

大切なのはマインドらしい。
財布にふさわしいお金が.入ってくることを確信している人には、そうした状況がやってくるというのだ。確かにお金の入り方にはそうした傾向がある。

当然、「お金=悪」、という図式を感じている人にはお金は巡っては来ないだろうし、「お金持ち=悪いことをしている人」という図式が染みついている人にも、お金がやってくることはないと思われる。

「お金を使って、世の中を幸福し、多くの人に生きがいと喜びを与えることが、生きがいである」、と考え、努力を重ねて仕事をするのが良いということだ。。

だが、こうした考え方は、なかなか学校では教えてもらえない。
日本の教育システムそのものが、『お金に関する教育』が排除されているのだ。
意図的かどうか分からないが、諸外国のように、『投資』や、『お金の使い方、ため方』についての知識を教えることはない。

私の知る限り、高校の数学で、指数関数のところに、「複利計算」が紹介されているのみである。

たまに、詳しい先生が、雑談程度に話すことはあっても、教科書で学習することはないし、体系的に学ぶこともない。
だから、今の日本人は積極的にお金に関する知識を学ばない限り、その知識はきわめて薄いということにもなる。

大げさに言うならば、これでは日本の発展繁栄は望めない。

おそらくは、根本に社会主義的、共産主義的思想が染みついているからであろう。

「金持ちからお金を取って、お金のない人に再配分する」、という思想は、資本主義的な考えではない。
騎士道精神的な援助は大事だが、それが常態化してはいけないのだ。

「億り人になりたいんです。」
という生徒の声に応えられる教員は、きわめて少ない。

2019年07月09日

真の教育

今朝のSNSに、「小学校のトイレで、男子も全部個室にして欲しい」、というものがあった。

個室に入ると言うことは、ウンチをするわけで、それが他の人に知られることで、精神的な抵抗を感じる、というものだ。
もしかしたら、その背後には、「冷やかされる」、という構図もあるのかも知れない。

私は「万事、生徒や児童の思いを満たすような施策をしてはらない」、と思う。
よかれと、思って手を差し伸べたことで、結果的にその人をダメにすることは多い。
「地獄への道は善意で舗装されてる」、という言葉もある。
一般的には、もっとたくましく育って欲しい。

トイレに関しても、別のアプローチがある。
人間に限らずすべての動物は、その排泄行動に安全性を求める。
それを脅かすような、社会性は、指導者が断固として排除しなくてはいけないのだ。
例えば、「冷やかす」ような雰囲気を野放しにしてしまうのは、教師としての失策であろう。
どうしても、小便ができない生徒は、個室を使えばいいが、そのように育ててしまったという教育面でのマイナスもあるはずだ。

物理的な環境を変えるよりまず先に、精神的な部分、集団での社会的な部分への対処を考えるべきだろう。

当然、個別対応しなければならない子供もいるはずだが、すべてが個別対応ならば、学校で集団生活する意味はなくなってしまうのではないだろうか。

時代の流れとともに、子供の数が減少し、より手をかけて育てるようになった。
そのためか、子供の要求をすべて大人が満たすような風潮も出てきた。

愛する子供に背を向けられるのが、何よりも辛く苦しいと感じる親が多いのだろう。

それ故、学校にもそうした対応を求め、「うちに子には…」、と始まる。

我が儘な子供が増え、学校での指導が成り立たない場面も増えている。
だが、もっと大局的な観点から教育を考える時期が来ているのではないだろうか。

一人一台のタブレットなんて、噴飯ものだ。
モノでは代えられない、『心』を教えてこそ、『教育』と言える。

今朝、ちょうど通学時間に自動車を運転していたら、前の車が通学中の小学生を横断歩道前で徐行し、道路を横切らせた。
すると、その小学生三人組は、全員立ち止まり、車に向かって深々と頭を下げたのだ。
朝から良いものを見た。
そういうことが、自然とできるようにするのが、真の教育だと思う。














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