アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2021年10月12日

『常識』

「そんなの常識だろ」、というのは誤りである場合が多い。
人間心、社会的風潮で、その『常識』が大きくぶれるからだ。

現在、『常識』とされることは、かつては常識ではなかったのだ。

例えば、LGBT問題にしても、彼等の人権や権利は保証されるべきだが、これが行きすぎてしまうと、今度は社会崩壊を起こす。

クラスに数人はLGBTがいると予想されるので、制服を男女どちらの制服を着られるようにしたり、男女のトイレを配慮したりするというのは、もはや、その人権尊重思想を著しく逸脱している。

某Fコンビニでも、「お母さん食堂」という商品名が変更になるそうである。
聞けば、行きすぎたジェンダー教育を受けた高校生が署名活動を始めたとのことだが、この裏には別の勢力があるようにも思える。

どうやら、「桃太郎」の話でも、お婆さんが川に洗濯に行くという設定はいけないらしい。
そもそも、鬼退治が、他国侵略にもなるのだそうだ。

こんな時も、「もう『常識』だから…」、ということになるのだろうが、やはりその常識は、間違っていると言わざるを得ない。

未成年の性行為にしても、初体験を競ったり、体験した人数を競争するような風潮は、『常識』ではない。スマホでいくらでも性的な動画が検索できるのも、それを未成年が、容易に見ることができるのも、『常識』ではないのだ。

古くは、「あの世がある、神さまがいる」ということも、現代社会は否定することを『常識』とするが、本当に存在しないことを証明できた人はいない。

現代では、どの分野でも、「あると困ること」は、『常識』から外れるらしい。

時の権力者が都合が悪いときも、誤った『常識』が流布される。

今、日本や世界の伝統が破壊されつつある。

地球温暖化にしても、おそらく間違いだろう。

ここ百年以内くらいで新たにできた『常識』は、どれも一度疑ってかかる必要があるのだろう…。

2021年10月11日

養蜂の師匠

夕方暗くなってから、犬の散歩のために、隠れ家に行くと、巣箱が整備されていた。

ご近所のMさんが、日中来てくださって、屋根とスズメバチ対策のネズミ捕りをおいてくださったのだ。

この巣箱は、先日オオスズメバチに巣門を破られ、侵入され、ミツバチたちが逃去してしまったものだ。

だが、日中には、蜂たちがしきりに巣箱に入って行くので、「戻ってきたんだべ…」、とTさんが言っていたものだ。

だが、実際は、巣箱に残った蜜を求めて来ているだけのようだ。
群全体が戻ってきているのではない。

どこかで営巣しているのか、女王を失ったはぐれ蜂が、餌を求めてきているのか。

そこに、時折来るのがオオスズメバチだが、ひところのような猛攻撃はなくなってきた。

新たに設置したネズミ捕りにもあまりかからず、ほとんどトンボだらけになってしまった。

一度かかると逃げられないので、トンボたちには申し訳ない。

先日、捨てた巣のそばにおいてあったネズミ捕りで、不思議な光景を見た。

ネズミ捕りにかかった仲間を、一生懸命引っ張りだそうという一匹の大オオスズメバチがいたのだ。

半分くらい粘着テープ領域からはずれていたようで、仲間が必死で引っ張っている。

しばらくしてから見に行ったらいなくなっていたので、おそらく救出劇は成功したのだろう。

あまり殺生はしたくないが、オオスズメバチに襲撃されると、人間の命さえ危険になるので、仕方あるまい…。

Mさんは、私の養蜂の師匠でもある。

困ったときにはすぐに来てくださる。

今回も、「じゃあ、見に行くべ」、と早速、来てくださって、いろいろアドバイスをしてくださった。

私が仕事で、早朝と夕方しか見ることができないときでも、ちゃんと気にかけて下さる。

愛犬たちも、ほとんど吠えなくなったくらいだから、相当通ってくださっているのだろう。

田舎暮らしの人間関係ならのことだろうが、本当にありがたい…。




2021年10月05日

襲撃

日本ミツバチの巣箱がオオスズメバチに襲撃された。

久しぶりの気温上昇に、巣落ち(みつばちの巣が暑さで一部崩壊し、落下すること)し、蜜が流れ出し、それが巣箱から溢れ、その匂いに誘われたオオスズメバチが、押しかけたのだ。

今は、常時、三、四匹のオオスズメバチが、みつばちを捕まえては殺し…、という作業を繰り返している。

本来、日本ミツバチの群が強ければ、やられ放題という訳でもないのだが、巣落ちしてしまった場合は、状況が変わる。

一匹だけであれば、巣の周りからオオスズメバチの匂いを消し、防御策に出るのだが、巣の周りに蜜が垂れてしまえば、その匂いを消すことは、もはや不可能。

おまけに何匹ものオオスズメバチが襲ってくるので、防御のしようがない。

幸い、巣の内部には侵入されていないが、もし、巣門(みつばちの巣箱の入り口)を破り、内部に侵入した場合は、その群は、ほぼ全滅する。

自然界では、頻繁に行われていることだが、養蜂しているときには、人間がその防御を手助けしてやるのだ。

オオスズメバチは、一匹別の群の巣箱の周りをうろつき、一匹ずつ捕まえ、肉団子にして持ちかえっていたので、そちらに金網を張った。

その金網では、オオスズメバチがすり抜けてしまうのだが、そちらの群にはオオスズメバチは来ていなかった。

キイロスズメバチは以前から来ていたが、こちらは、集団で襲うことはないようなので、放っておいたが、オオスズメバチは状況が違う。

集団でみつばちを攻撃する。

セイヨウミツバチなら、あっという間に全滅してしまうところだが、何とか、しのいで欲しいと思う。

オオスズメバチの攻撃に耐えたとしても、巣落ちした巣箱から逃去しても、この時期からあらたな巣を作り、蜜を集めても冬越しするのが難しいかも知れない。

みつばち用の防護服で、スズメバチと戦うのは危険なのだが、結局何匹も退治してしまった。

うーん、困ったなぁ…。




2021年10月03日

ぎっくり腰

ぎっくり腰になった。

「一度、ぎっくり腰になると癖になるんですよね」、と生徒が慰める。
確かに、症状がない時でも、無理な動きをせず、気をつけていなければ、あっという間に「ぎっくり腰」状態に陥る。

今回は、何か重いものを持ったのではない。
もっとも、重いものを持たなく状態でも、「いけない」腰の角度によっては、症状が出てしまうこともある。
以前、冷蔵庫の野菜室に、ぬか漬けを入れようとしてぎっくり腰になったことがある。

今回は、「重たい」ものではなかった。

考査前で、部活動がない日曜日、天気がよかったので、「もうそろそろ、白菜とキャベツを植えねばなるまい…」と、畑仕事をした。

伸び放題の草を抜き、土を耕し、籾殻と肥料を入れ、畝を作り、マルチを敷く。
そして、苗の定植である。

普段は一時間ほどの農作業が、今回は二時間あまりになり、その間に、体が悲鳴を上げたようである。

デスクワーク中心の私は、畑仕事を一時間もするとへとへとになる。

今回は、無理をした、ということだ。

最後の方では、しゃがむことも、前屈みすることもできず、苗も傷めてしまった。

その後、横になって体を休めたが、いつもの「ぎっくり腰」になっていた。

もはや、寝返りを打つことも、座ってのち、すぐに立ち上がることもできない…。

「やってしまった…。」

こうなると、何もかもやる気が失せる。

やっぱり体が動くこと、健康が何より大切なことなのだと、改めて実感する。


何ヶ月か前、同僚のM先生がぎっくり腰になり、スーツケースを杖代わりに出勤した。

私も、杖か何か欲しいのだが…。




2021年09月26日

みつばちの世話

自宅で日本みつばちを飼って一年半ほどになる。
養蜂家としては、まだまだ初心者だ。

日本みつばちは、自然界に暮らす日本固有のみつばちである。
通常は野山に巣を作って暮らしている。

それを、分蜂時期にキンリョウヘンなどの蘭の花を使って誘導し、巣箱に入ってもらうという捕獲法である。

分蜂したみつばちが巣箱に来てくれるかは、運次第のようなところもあり、何年も捕獲できずに、ついに他の人の捕獲したみつばちの群を譲ってもらう、という方もいらっしゃるようだ。

私の場合は、近所の知人に借りたキンリョウヘンを置いて、半月ほどでみつばちが来た。

その後、そのみつばちを中心とした群を増やす形で、何群も飼っている。

彼等とつき合う中で、だいぶ蜂たちのことが分かってきたと思ったのだが、養蜂は奥が深く、何か起こるたびに、新たは発見がある。

日本みつばちを飼うと言っても、普段は特に世話をすることはない。
この時期は、スズメバチ対策も必要だが、集団で襲うオオスズメバチでなければ、それほど気にすることもない。

スムシと言って、ハチノスツヅリガ巣箱に入り込み、産卵し、幼虫が巣のカスを餌に成長するのだが、本来共生関係にあるようで、みつばちの群が強ければ、あまり神経質に気にする必要はない。もちろん、油断すると、大きくなった幼虫に巣を食い尽くされ、巣箱の板すら削られてしまう。

今日、久しぶりに彼らみつばちの世話をした。
世話と言っても、巣を作るときにでたカスの掃除くらいなのだが、巣箱を動かしたり、中をじっくり観察するときは、たいてい防護服を着る。

一つ目は、底板に金網の敷いておいた群である。
案の定、金網の下と底板の間にはスムシがウヨウヨいた。
幸い、金網から上には上がれないようであった。

二つ目は、底板に巣が落ちていた。
いわゆる巣落ちである。

暑い日に、巣が柔らかくなって、衝撃で巣の一部が落ちてしまうことがある。
確かに先日、暑い日が何日かあり、たくさんの蜂たちが、まるで分蜂をするかのように巣箱の外に出ていた。なるほど、巣落ちだったのか、と納得。
幸い、その大きさも小さく、一部底板にへばりついていたが、それをはがし、底板を掃除した。だが、その匂いに誘われて、底板の裏には、大量の蟻が集まっていて、これも掃除しなくてはならないかった。

併せて、巣が大きくなったので、継箱を追加した。

三つ目は、実験中の巣箱である。
二つ目の巣箱から分か蜂球を作っていたものを、数週間まえに強制捕獲して、巣箱にいれたものだ。

巣は作っているが、ほとんど出入りしていないので、女王がいない無王群なのかも知れない。

このまま蜂が増えなければ、冬を越せず、消滅してしまうのだろう。

こんな感じで小一時間。蜂の世話をした。

時々、生徒にも手伝ってもらうこともある。

自分の飼っているみつばちのハチミツは、何よりも美味だ。

聞くところによると、300gで5000円くらいで売られている。

隣家の長老が、「みつばちを飼っているなんて、高尚な趣味だな…」、と言ったことを思い出す。

彼等の羽音も、聞き慣れれば、かわいいものだ。

海の幸〜山の幸まで、北海道の美味しいものを取り揃えた【櫻井商店】


2021年09月23日

リーダーの佇まい

天皇陛下が、稲刈りをされたというニュースが流れた。
毎年、自ら田植えを行い皇居内で育てている稲である。

この稲を11月23日の新嘗祭にて、神前に捧げるのだと言う。
新嘗祭は、今年収穫された新穀を供え、豊穣を感謝する。

古来より米が取れていれば、日本人は食うに困らないわけで、その意味でも、豊穣を感謝することは、日本国民が健やかに生活できることを祈る場でもある。

天皇は、ずっとこうした儀式を通して、国民の安寧を祈ってきた存在である。
戦後、人間宣言し、皇室がやや俗っぽくなりつつあるが、まだまだ伝統の力は大きい。

人々の知らないところで、純粋な心で、祈りを捧げる様は、単なる「象徴」を遥かに超えた、徳あるリーダーとしての佇まいを感じる。

天皇陛下は、新嘗祭において、初めて新米を食されるのだという。

我々俗の者は、「稲刈りが終わったから、そろそろ新米が食べられるな」、などと思っていたが、陛下はこの先も当分は新米をお召し上がりならないわけだ。

10月16日に、伊勢神宮で神嘗祭が行われる
その際、新穀が天照大神をはじめとする神々に奉納されるのだという。

もちろん、五穀豊穣の感謝と日本国の安泰と祈る場である。

おそらく伊勢神宮が開かれてから、欠かすことなく行われていた祈りの場であろう。

そして、宮中でも、天皇陛下が祈りを捧げ続けてきたのだ。
単なる伝統行事では済まされない、権威と重みがある。

何が起ころうと、祈りは続けられ、その祈りのためには、自らの行動を心を律し、禊ぎをしてのち、そのような神事を続けられているもだろう。

宮中祭祀の数は多い。
その一つひとつを、丁寧に、心を正して行われていることに、私は日本国民として感謝と敬意を捧げたい。

天皇陛下が自ら稲を育てるようになったのは、昭和天皇からだそうだ。

より心を込め、丁寧に祭祀を行いたい、というご意向もあったのだと思う。

政治的な発言は禁じられているようだが、日本国のリーダーとしての佇まいを感じる。

私はこうした話も、積極的に生徒に語る。




2021年09月22日

冬の大三角形

中秋の名月の満月が西の空に傾く頃、南東の空に冬の大三角形が見えた。
薄明が始まっているので、もはや二等星くらいしか見えないが、オリオン座の形はよく分かった。
おおいぬ座のシリウスも輝いている。

このところ、宵の明星の金星、夕方から見える木星、土星が明るいので、全天一明るい恒星であるシリウスの明るさが見劣りしてしまう。

今年の中秋の名月は晴れた。

月を愛でるとは、いかにも日本人らしい。

確かに澄んだ秋の空に輝く満月は美しい。
満月前後の月も美しいが、まん丸の月は、仏教の瞑想に使われているくらい調和に満ちている。

お彼岸を迎えた昨今、日の入りも早く、日の出もめっきり遅くなってきた。

あと僅かで気温も10℃を切りそうで、そろそろ犬の散歩に手袋が必要になるのだろう。
その上、暗闇での散歩になる訳だ。

幸い、そういう中では星が見えるので、飛び交う人工衛星や流れ星と共に、それはそれで面白い。

「昨晩は中秋の名月の満月だったけど、月を見たか?」
授業中に生徒に尋ねてみた。

だいたい半数くらいの生徒が月を見たようだ。

地球の衛星で、別に珍しいことではないが、「月を愛でる」という日本の文化は継承したいと思う。

月明かりの中は、とても明るく感じ、古来、夜でも歩くことができたようだが、今や、田舎でなければ、その明るさは感じることはできない。

以前、あまりに明るい月明かりでどのくらい本が読めるのかを実験してみたが、一センチほどの字がギリギリだった。

理科の知識なら、月の光をプリズムで見せて、太陽のスペクトルと同じだよ、というのも面白そうだ。

西の空に沈む月が、堰堤で止められた川面に映る。

実に美しい…。




2021年09月19日

生き方

先日読んだ本に、次のような箇所があった。

「何もなさずして死ぬこと」が不幸です。
「人を不幸にして死ぬこと」が不幸です。
「人を幸福にせずして死ぬこと」が不幸です。
「人を導かずして死ぬこと」が不幸です。

私もいよいよこれまでの人生を振り返り、この先の人生をおもんばかる歳になったようだ。

私自身、確かに「何かを成し遂げた」ということはない。
どちらかと言えば、「何もなさず」に近いのかも知れない…。

いつも「人に迷惑をかけてばかり」の人生でもあった。
これは、「人を不幸にしている」ことにもなるのだろう。

一体、「どれだけの人を幸福にした」のだろう。
不快な思いは数知れず、「誰かを幸せにした」、なんてことは、思いつかない。

その上、「人を導く」なんてとんでもない。

長く教員生活を送っているので、「生徒たちを導く」とも思えるが、それは恐らく誤解であって、結局は、「自分の思い通りにするために、動かしているに過ぎない」、のだろう。

だから、今、人生が終わったとして、あの世の照魔の鏡に映し出された姿を見たならば、ただただ小さくなるしかあるまい。

「分かりました。地獄に行かねばならない理由もわかります…。」
と、とぼとぼと下りていくのだろう。

せめて、「今日一日、誰か一人でも、幸せな気持ちになるような、何かの行動をおこそう」、と思って過ごしたら、、少しはきが晴れるのかも知れない。

人間は自己中心的な生活をするために生まれて来ているのではない。
それぞれの自己実現はあろうが、それがあまりに他を害し、不幸にしてしまうのならば、間違っているのだろう。

私は、『利自即利他』の生き方に憧れる…。

この世と肉体の欲にまみれ、本当の自分を見失って人生を送れば、それこそが不幸な人生ということになってしまう。

死んでからではなく、生きているうちに、「生き方」を知ることができたことは、幸いであった…。




2021年09月18日

曼珠沙華

「富士には月見草がよく似合う」、というのは太宰治の小説『富岳百景』に出てくる下りである。

だが、「秋空には曼珠沙華がよく似合う」ものだとしみじみ感じた。

秋の青空は高い。
空気が乾燥し、その青さはさらに濃いものになる。
そこに真っ赤な曼珠沙華(通称:彼岸花)が咲いていると、とても映える。

ややどぎついほどの赤色と、深い青色。
そこに、黄金色に染まる稲穂があれば、もはや十分である。

古くからの日本の原風景。
恵みの秋を祝福するかのような、赤と青。

毒があるのでそのままでは食せないが、飢饉の時などの食料難には、球根を毒抜きして食べたらしい。

その意味では、天候不順でほとんど米が取れなかった時のために、田んぼの畔に植えてある理由も頷ける。

昨今は、いろいろな花の色があるようだが、はやり赤がいい…。

私は昨年、自宅の彼岸花を増やそうと、球根を仕入れ、プランターに植えてみた。
葉が出て、春先に掘り返したら、球根は生きていたのだが、今年は花芽すら出てこない。

もとから植えてあった庭の彼岸花も、見当たらない。

どうやら、きちんと手入れをしないとだめらしい…。

近隣には、家の前に、まるで花畑のように、咲きそろっているところも多い。

「いつか、こんな風に育ててみたいな…。」
と思いつつ、一本も生えてこないプランターを見て、「来年こそは…」、と嘆息する。




2021年09月12日

草刈り

緊急事態宣言下のために、地域の草刈り作業ができない状態になっているようで、家の周りは草が大きく伸びてしまった


こんなとき、気づいた者がさっとやるのが、田舎暮らしのしきたりである。
私も、ようやく家の周りの草刈りを始められた。

平日はなかなかできなかったのと、紐になっていた草刈り機が外れず、刃に交換できなくてこまっていたのだが、なんとか今日に間に合った。

涼しくなったとは言え、私にとって草刈りは重労働。
農家の方々は、何時間やってもへっちゃらのようだが、私はせいぜい30分。
すぐに疲れてしまうので、なかなか一気にはできない。

合わせて、草刈りに慣れていない私は、仕上がりが美しくない。
大方の草は刈ることができるが、所々刈り残しがあったり、地面から離れて買っていたり、といかにも素人っぽくて、ちょっと悲しくなる。

おそらくは、怠け者の性格が、早く終わらせることばかりを意識して、雑な仕事になってしまうのだろう。

田舎では、市道脇の草刈りは住民に委ねられる。
多少の補助金が支給されるようだが、コロナ禍の中、中止されているようだ。
だが、そんなことに関わりなく草は伸びる。

今はちょうどニラの花が咲いている。
野生のニラなのだろうが、これを刈ると、強烈なニラの匂いがする。

今日の所は、ニラの花の手前で作業を終了した。
「また、今度やろう」と、私の怠け心が芽生えた…。

また今日は、合わせて裏の林の倒木の処理もした。
25cm ほどの杉の木が倒れてしまったのだ。辛うじて他の木に引っかかっているが、自然に任せると危ないので、電動のこぎりで切ることにした。

本当はチェンソーが良いのだが、刃を研いでおらず、おそらく切れ味が悪そうなので、小さい電ノコで、ちまちま切った。

倒れて道路脇の電線を切ってしまったら大変な事になるので、少しずつ引きながら何度もカットした。

自分の土地ではないが、犬の散歩ルートを作った関係上、気づいたら処理するのが務めだろう。地主は遠い所に住んでいて、ずっと放置されている。

まだまだんなすべき事は山のようにある。
畑も草ボウボウだ。

辛うじて、マルチをしたナスとキュウリの部分いがいは、もはや畑とは呼べない状態にある。

「ここも一気には終わらないだろうな…」と、盛夏の頃、何日にも分けて行ったことを思い出す。あれからすでに一ヶ月あまり経っている。

庭の柿の実が少し色づいてきた。
すだちも青い実をつけている。
柚はまだ青い…。

自然の恵みを感じながらも、なかなかそれを享受できずに、休んでばかりいる…。

前の田んぼでは、稲刈りの作業中だ。

もっと過酷な肉体労働だろう…。




ファン
検索
<< 2023年09月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新記事
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
丹澤三郎さんの画像
丹澤三郎
プロフィール
リンク集
おすすめ
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。