2021年12月14日

卒業生

出掛ける用事があり、久しぶりに卒業生と出会った。
私もバタバタしており、ほんのひと言ふた言、言葉を交わすだけだったが、私が担任をして卒業させた生徒である。

懐かしかった。
時の流れを感じた。

すれ違い際のほんのひと事。

もっと、喜んで、笑顔を振りまいて、彼等を祝福してあげればよかった。

そう振り返ると、自分は何とつまらない男なのだろうと思った。

マスクをしていて一瞬誰だか分からない人もいた。
相手から、〇〇ですとも声を掛けられた。

私自身の印象は極めて悪く、暗く疲れたジジイに見えただろう。

何とも申し訳ない、という気持ちがよぎる。

その中でもA君とは、少し話しができた。
「俺、まだ大学生なんです。三年間プータローだったので…。」

その三年間で何をつかんだかどうかは分からないが、彼の人生にとって、必要なことなのだろう。

自分は何とつまらない男なのだろうと思った。
本来ならば、この春から就職している歳だが、まだ三年ほど学生をするのだろうか。

泣き虫だったので、私は彼をピーピーと読んでいたが、心の優しい生徒だった。

私がインフルエンザで倒れていたときに尽くしてくれたことは、今でも忘れない。

これまでたくさんの生徒を卒業させてきたが、結局、私はもらってばかり。

こちらが教育しているつもりで、私が愛を与えられていたのだと思う。

この先、彼等と会えるのは、おそらくはずっと先だ。

その時こそ、満面の笑顔で話ができたらいい…。

2021年12月12日

エアベッド

エアベットに穴が空いた。
購入履歴を調べてみたら、購入してから二年ほど経っていた。

ちょっと乱暴に使ってしまったのが原因だ。
だが、この穴を塞ぐことは、今のところ成功していない。

穴がちょうど、凸凹の部分で、テープなどを貼ってもすぐに空気が漏れてしまうのだ。
気の利いた接着剤で穴を塞ぎ、さらに自転車パンク修理用要領で穴をふさげば、何とかなりそうだが、その間にもベッドは使わなくてはゆかず、そうのんびりもしていられない。

結局隠れ家から敷き布団を持ってきて寝ることにした。

以前はウォーターベットを使っていた。今でもそのフレームは使っている。

ウォーターベットは、就職仕立ての頃、先輩の先生から進められ20万くらいの金額で買ったものだ。

「一生使えるんだから、割ってみれば安い物だろ。」
と、数学の先生らしく説得された。
確かに、寝心地は良かったし、冬もヒーターで暖かい。

だが、そのウォーターベットもいよいよ駄目になり「消耗品の買い換えか」と思ったら、メーカが生産を中止してしまった。

三十年は使っただろうか。ざっと年間6000円くらいであろうか。

その後は、引っ越し時に自分で運べないのは面倒なので、エアベットにした。
さすがに寝心地は悪いが、これを二年使って、穴が空いた。

修繕して使えるものなら、捨てずに持っていようと思う。
エアベッドは一万弱。

「一生のうちに三分の一は寝ているんだ。せめてベッドくらいいいものを使うべきだろ。」
かつてそう説得されたことを思い出す。

果たしてその先生はまだご存命だろうか。

2021年12月09日

無駄遣い

「ICT推進のための補助金が出るので、何か取り組みをして欲しい」、という要請が来てから何ヶ月か経った。

審査が通り、国からの補助金が下りることになったのだが、これは備品購入はダメであるらしく、人件費だけだそうだ。

結局、総合的学習の時間、パソコンを利用する際のチューターの派遣費になった。

正直なところ、チューターの存在はあまり重要ではない。
以前から先生方で指導できていたし、取り立ててチューターがいないと困るという訳でもなかっただが、「予算を使え」ということらしく、実施した。

何日間かの出来事だったが、卒業生がチューターとして来校し、授業補助をしてくれた。
その費用が補助金なのである。

なんだか無駄遣いではないだろうか。

「予算があるから使え」と言われているようで、何とも気持ち悪い。
文科省らは、「学校現場として、こういうニーズがあるから、こうした予算が必要なのだ」、ということを本気で考えているのだろうか。

学校現場に補助金をばらまいても、天下り先にはなりにくいが、教育委員会や私学協会系ならば、その可能性はある。

「予算配分は、彼等の就職活動か」、とも疑いたくなるような、お粗末さ施策である。

究極のエコカーと言われる水素自動車にも国は補助金を出している。
だいたい700万くらいの自動車に200万円の補助が出る。

水素自動車など、本当はエコカーでも何でもない。
脱炭素のためのカムフラージュなのだ。
本来、水素を取り出すために膨大なエネルギーが必要になるので、その分を計算すると全然エコではないのだ。水素精製過程で、膨大な炭素を出す。

18歳以下の子どもがいる世帯への10万円給付も含めて、日本政府は一体どうなっているのだろうかと思う。

弱者対策は必要だろうが、国民が補助金を頼る国は、絶対に発展しないと、私は思う。





2021年12月07日

漬けものじじい

この歳になって初めて「柚子大根」を作ってみた。
一週間弱ほどの仕込みで、今日、二人の先生方に毒味してもらった。

「おいしいかった」とは言ってもらえたが、自分では納得できない。
だから私が何かを作ってお渡しするときは、たいてい、「不味いよ」と言う。

「ちょっと味、変だったよ…」、と言わせないための防衛策だ。

先日、白菜の本漬けも行ったが、数日経って、大分「いい匂い」がしてきた。
「こっちは自信作になるかな?」、と思いつつも、お渡しするときは、きっと「不味いよ」と言うのだろう。

人に物を渡すときに、「不味いよ」というのは失礼なことだろうが、それはそれで、私の卑屈な性格をご理解してのことなので、私は甘えている…。

漬けものを作ることが楽しくなったというのは、「私も歳をとった」、ということだろう。
「地元の野菜で、いろいろ作ってみたい」、という思いもあるが、「いろいろ実験してみたい」という気持ちもある。冬場のささやかな楽しみだ。

夏に漬けたキュウリの塩漬けも食べられるようになった。
塩の中にキュウリを入れただけのものだが、漬物石で押しつぶされ、ペラペラになったキュウリを一昼夜塩抜きして食べる。

田舎ならではの保存食だ。
地元の人に教えてもらった通り、私はマヨネーズをつけて食べる。
合わせて入れたミョウガも美味だ。

いずれも大きな樽で漬けているので、人に差し上げなければ食べきれない。

どうやら「食卓から漬けものを欠かさない」生活が訪れつつあるようだ。

いずれ「頼まれて作る」時代が来るのだろうか。

「おいしさのためには手間を掛けよ。」
そんな声が聞こえてくるようだ。


「稼ぐためには手間を掛けよ」と置き換えてみる。
商売でも同じなのだろう。

2021年12月05日

強風のため…

「年内にもう一度穏やかな山に登り、少し雪景色になったところでリフレッシュしたいな」、と朝から山に出掛けて見た。

「やや下り坂傾向の天気なので、風は大丈夫かな」、とも思ったが、やはり強風だった。
とても登れるような状況ではなかった。

この時期、こういう日が多い。
そもそも12月になってなお、山に行こうというのが間違いなのだろうが、美しい山並みを見てしまうと、やはり心がうずく。

それほど温度は低くなかったが、それでも氷点下。
晴れてはいるが、吹き飛ばされそうなくらいの強風だった。

だから、少し走ってすぐに山を下りた。

雪道で汚れた車を洗いながら見る山並みは、とても穏やかそうで、何となく恨めしい。

さて、年内にもう一度出掛けられるだろうか。

これからの時期、冬型が強まると山は吹雪になる。
下界からは雪雲がかかり、その姿をみることはできない。

冬型が弱まると、山並みが見え出すが、未だ風が強いことが多く、遠くから見てもなかなかわからないのだ。

ライブカメラで見ても、風の様子は分からない。
たまに、ロープウェイ会社が、運行状況を知らせてくれることもあるが、いつでも、と言うわけはなく、結局行って見ないと分からないのである。

これから厳寒期になると、山には近づけなくなる。
道路も一部閉鎖される。

雪遊びに出掛けることはできても、登ることは難しい。
山は美しいが、反面、その厳しさは人の力で対抗しうるものではないのだ。

ちょっとがっかりな、山行きだった…。

追記)
「午後、その山に登って美しかった」、というSNSを見た。昼前から強風が収まり、穏やかな晴天になったのだろう。ちょっとうらやましくその写真を見た。

2021年11月28日

怠け者

日中かなり寒く、あまり外回りの仕事をしようという気持ちになれなかったのだが、柿の木の剪定だけはした。
下手な剪定だと、来年実を付けるかどうか分からないが、あまりに高くなりすぎても、手入れに困る。

外は寒く、畑の手入れも憚られたし、メルカリへの出品作業もやる気が起こらない。

考査前の日曜日で、めずらしく一日フリーだったのに、何だか怠惰な一日を過ごしてしまった。

「こんな生活をしてしまったら、退職後は大変なことになるぞ…」、と自覚しつつも、体は動かない。

仕事もそうだが、やはりToDoリストは作っておく必要があるのだろう。

怠け者の私は、時々、こんな風に無為な休日を過ごしてしまう。

目の前にあるあまりに多くの「やるべきこと」を見ると、やはり挫けてしまう。
雪かきのように、少ない量ながらもこつこつと、繰り返しの作業をしなくてはならないのだろう。

久しぶりに隠れ家に来た高3のYが、「荷物、増えましたね…」、と言う。

確かに、整理もせず、広い家で物ばかりが増えていく。
不要品は売ってしまおうと、前の家の持ち主に「要らない物は置いておいてくださって結構です」と言ったが、自分の物に加え、さらに荷物が増えてしまったのだ。

「なんとかせねばいなんな…」、と思いつつ、休日になると何もせずに終わる。
そして、何ヶ月、何年と経つわけだ。

年寄りの家が不要品だらけなのは、その理由が分かるような気がする。

「いつか使うだろう…」、は、「いつになっても使わない」のだ。

まとめ売りできるように整理をすることだって、手間なのだ。
だが、それを仕事と思えば、多少はモチベーションが高まるか…。

私は、まだまだ無為な時間が多すぎるようだ。

2021年11月23日

防災放送

珍しく地元の集まりがあった。
「防災放送が聞こえないので、各家庭に防災無線を置いて欲しい」という陳情の結果報告だ。

結論から言うと、議会では陳情不採択について賛成多数とのことで、地元からの要望は却下されたという。

防災放送は、豪雨などの自然災害時に、非難を促すものだが、スピーカーで放送するタイプのものは、各地で「聞こえない」という声が多いようだ。

確かに、激しい風雨の中での放送は、各家庭に伝わるのは難しいだろう。

一方で、「昨今はスマホによる災害情報も流れるので、取り立てて困ることはないだろう」というのが、議員さんたちの考えらしい。

だが、問題は、スマホを持たなかったり、持っていても近くに置いていない一人暮らしの高齢者に、どのように情報を伝達するか、ということになる。

山間部には孤立世帯も多く、基本的に情報は届かないと見て良い。

その中で、地元の青年による消防団が、悪天の中、一軒一軒周り、避難を促すということをしているようだ。

まだ余裕のあるうちは良いが、一気に増水して浸水してしまったり、あっという間に崖崩れが起こってしまうような地域では、二次災害の恐れも否めないのだ。

過疎化、高齢化により、田舎の自治体はどこも苦しい対応を迫られているのだろう。

こんな時に、地元の声をよく聞いてくるのが共産党の議員だったりする。

なんともおかしな話だ。

「俺らが文句を言ったら、〇〇議員は俺らを見ても挨拶もしなくなったんだ…。」
そんな声も聞こえてくる。

すべては人間関係。
真摯に住民の声を聞き、それを政策として行っていくのが地方議員の仕事だろう。

相反する意見も起こる。
予算も少ないので、できることも限られている。

難しい舵取りなのだろう。

さて、どうしたものだろう…。




2021年11月19日

部分月食

ほぼ皆既の部分月食があった。
中秋の名月から3回目の満月である。

月が昇ってくる時には、すでに半分くらい掛けていた。
左半分が掛けているこのような姿は、月食時にしか起こらない。

月の満ち欠けでは、太陽の方向が光っているからだ。

程なく月は薄雲の中に隠れたが、そんな頃、南の空にISS(国際宇宙ステーション)が飛ぶ。

その後、食の最大まで雲が多くなってしまったが、ちょうどその頃から雲が切れ始め、まさに「皆既月食」のような月が見えた。

手持ちの撮影ではなかなか限界があるが、まずまずの月食写真は撮れた。

部分月食はあまり面白くない(見栄え的に一般の人の興味をそそらない)が、98%近くまで欠ける部分月食ならば、ほぼ皆既月食なので、エンターテイメント性があるだろう。

『満月の夜。月がだんだんと欠けて、皆既になると、見えなかった暗い星々が空一面に洗われる』様は感動的だ。

満月がいかに明るいかを実感できることだろう。

今回は、欠けたままの月の出なので、長い月食期間を観察するのも少し節約できたはずだ。

月食を見た生徒たちは、何を感じたのだろうか。

暗闇の中で、多くの人が、東の空を見上げているのは、若干滑稽でもあった。
マスコミが140年ぶりだなどと扇動したこともその理由だろう。

皆既月食くらいならば、概ね数年おきには見ることができる。

秋空の空気の澄んだ空に、ぽっかり浮かぶ赤銅色の月は、日本国中の人たちが、何かを感じながら眺めたことだろう。

自然現象は美しい。

ある生徒が言った。
「この美しい自然を守らなきゃ…。」

かの国に工作された昨今の左翼環境論者の思いとは違う。
純粋に自然を見て、美しいと思う心だ。

かつて日本国中が、光化学スモッグで覆われ、空気が汚れていた時代とは異なり、今は、空が綺麗になった。

人間は自然とともに生きている…。





2021年11月13日

父の思い出 その3

母方の祖母の葬儀の時、火葬を待つ間、親戚が一堂に会した。
その時私は、父の隣に座っていた。

父の手は、すでに皺だらけの老人の手になっていた。

今、私の手も、当時の父の手に近づきつつある。

人生の苦労が手に現れている気がした。
この頃には、父とは普通に会話ができるようになってはいたが、お互い遠慮していることには変わりなかったと思う。

生前、元気だった頃の父は、早朝から犬の散歩をしていた。
一時間以上もの間、毎日何キロも歩いていたようだ。

今、私は毎朝、暗闇の中で犬の散歩をしている。

「なんだ、結局同じじゃないか…。」
と、時々思う。

父のように酒を飲んで暴れることはないが、すぐにキレてしまう性格は、なかなか直すのに時間がかかった。
好きなことに没頭するのは、父親譲りなのだろう。

私は、この父のもとで育ち、たくさんの学びを得たように思う。

言葉の調律、心のコントロール…。
家族のために全力で働く姿勢。
家族関係のあり方。

もしかしたら、私にとっては反面教師になる部分が多かったかも知れないが、そのお陰で今の私があるのだ。

父の逝去後、私は何度か父と話をした。

「もう、還らなきゃいけないのか?」
精進落としで父はそう呟いた。

その後、父は迎えが来てあの世に旅立っていったようだ。

父さん、ありがとう…。

2021年11月12日

父の思い出 その2

祖母は父の実の母親ではなかった。
父とその兄が幼い頃に、実の母親は亡くなったため、妹であった祖母が、実の子のように育てたのだ。

だが、父はその事実を知らされていなかった。
父がその事実を知ることになるのは、大学を中退し、多くの入社試験を受けるも、すべて不採用になった事実を突きつけられたときだ。

戸籍を調べたら、自分には母親がいなかったことが分かったのだ。
父の父親は、戦時中に亡くなっているので、両親がいなかったという事実を、就職時に突きつけられたのだ。

その恨みを長らく抱えてしまった父は、ことあるたびに祖母と対立するようになる。
何故か、実の息子ではなく、育ての息子、しかも次男の家に同居することになった祖母と父の対立は、自然の流れのようにも思える。

父と祖母はほとんど口を利かなくなった。
祖母が一言何かをいうと、父は「うるさい」と制した。
それでも気の強い祖母は何かを言い返す。
当然、その後は大げんかになる。

私はその修羅場が耐えられなかった。
いち早く、逃げ出したいと思った。

だから、大学生になると、ほとんど家には帰らなくなった。
ちょうどプログラミングのアルバイトもあり、家に帰るのは週に一度くらいになった。
また、大学のサークルで天体観測もしていたので、それにかこつけて、家にはますます寄りつかなくなったのだ。

父とはほとんど会話をすることなく過ごした。
たまに会ったとき、少し声を掛けられ、その返事をするくらいになった。

幼い時に受けた心のダメージが、私自身の中で、全然昇華しきれなかったのだ。

だから、父とは一緒に酒を飲むことこともなかった。
父親なら、成人した息子と酒を飲むことは、楽しみでもあったろうに、私は、かたくなに拒否し続けた。
酒を飲んでくだを巻き、暴れる様は、私には反面教師でしかなかったのだ。

だが、私はたくさんの酒が飲めた。

大学生の私は、毎日のように飲み歩き、下宿している友人のもとに転がり込んでいた。

今から思い返すと、父は淋しかったに違いない。
私には弟もいるが、彼は上手に振る舞っていた。
だが私は、彼のようにはできなかった。

ずっと父をうっとうしく思っていたのだ。

父の人生を思えば、別に特別なことではなく、一般的な人間として普通の行動だったようにも思う。

苦しみや悲しみ、淋しさを酒で紛らわせていたのだろう。
幸いギャンブルはしなかったようで、多額の借金を作り、家族に迷惑をかけることはなかったようだ。

そんな父とは、最期まで和解することなかった。




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