2024年12月07日
奈良県高市郡明日香村 奈良へ 日本最古級の仏像が残る飛鳥寺を訪ねる 2024年11月16日来訪
日本最古級の仏像が残る飛鳥寺を訪ね、飛鳥時代に思いをはせる奈良散策の旅です。
日本の古代歴史を探るうえで重要な土地、奈良で車を走らせ、明日香村にある「飛鳥寺(あすかでら)」に到着。
辺りは長閑な田園風景が広がり、かつての都を想像させない寂寥感が漂う。
周囲には建物がない中、お堂がひっそりとたたずんでいた。
この小さな堂宇に潜んでいるのが、日本最古級といわれる「飛鳥大仏」だ。
本堂の中に足を踏み入れると、像高275.2cmの大仏が目の前に現れ、住職が飛鳥寺に残された飛鳥大仏の歴史について語り始めた。
飛鳥大仏は、飛鳥寺の本尊として、609年に完成したとされる。
面長の顔やアーモンドのような形をした目が特徴的な、銅像の釈迦如来坐像である。
本格的な伽藍を備えた日本最初の寺院である飛鳥寺は、蘇我氏の氏寺として、6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもの。
鎌倉時代の1196年(建久7年)年の雷火で、塔と金堂を喪失し、それ以降廃れていった。
飛鳥大仏も火にさらされ、オリジナル部分は目周辺や右手中央の指3本などで、その姿のほとんどは後世によるものだといわれている。
飛鳥大仏が国宝になれないのは、これが理由として大きいようだ。
飛鳥寺の西にある、「入鹿(いるか)の首塚」。
このぽつんと建つ五輪塔こそ、中大兄皇子と中臣鎌足らによる「大化の改新(たいかのかいしん)」で暗殺された蘇我入鹿の墓だ。
飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で暗殺された入鹿の首が、約600m離れたここまで飛んできたと伝わるが、どうだろうか。
入鹿殺害の舞台は、645年6月12日、三韓(高句麗・百済・新羅)の使者が皇極天皇に貢物を捧げる儀式会場。
入鹿が参加するこの儀式での殺害を図った中大兄皇子と中臣鎌足は、刺客2人を連れ、会場に潜みその時を待った。
尻込みする2人の刺客に先んじて、中大兄皇子自らが進み出て入鹿へ斬りつける。
息絶えた入鹿に続き、入鹿の父 蝦夷ものちに追い込まれて孤立し、邸宅に火をつけて自害した。
この語り継がれる有名な計画的暗殺事件「乙巳の変(いっしのへん)」で、4代にわたり50年以上権力を握った蘇我氏本家は滅亡に至り、大化の改新が始まったのだ。
中大兄皇子と中臣鎌足が出会った、「槻樹之下(つきのきのもと)の広場」と推定されているのがここ。
飛鳥寺西にある「飛鳥寺西門跡」の一帯が、有名な2人が出会った場所、蹴鞠会(けまりえ)の舞台だったらしい。
中大兄皇子が勢いよく蹴りすぎて革の靴を飛ばしてしまう。
それを見ていた鎌足が皇子の靴を拾って、ひざまずいて恭しく差し出すと、皇子もひざまずいて恭しく靴を受け取った。
これを機に、二人は親交を深め、心中を明かし合う関係になったとされる。
鎌足は、蘇我入鹿が国を乗っ取ろうとしていると中大兄皇子の耳元でささやきかける。
大化の改新が生み出される、正に劇的な出会いであった。
乙巳の変後、中大兄皇子と中臣鎌足は皇極天皇の跡継ぎにその弟である軽皇子を孝徳天皇として即位させ、入鹿が謀る後継者の争いに打ち勝つ。
そして、新たな時代の始まりとして、日本で初めての元号となる「大化」を定めた。
豪族を中心とした政治は天皇を中心とした政治へと移り変わる。
明日香村に残されているのは、飛鳥京と称される複数あった宮の史跡。
飛鳥京はその後の藤原京や平城京を生み出す国づくりの源流であった。
訪ねて歩けばどこか懐かしい風景が広がり、歴史ロマンをかき立てられる。
詳しくは以下のリンクを参照してください。
奈良県|飛鳥・藤原京を世界遺産に https://www.pref.nara.jp/61730.htm
奈良県|国づくりの源流「飛鳥京」 https://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/column/c01/
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