2024年06月22日
山形県山形市・岩手県磐井郡平泉町・宮城県宮城郡松島町 みちのく四寺廻廊に松尾芭蕉の足跡を追う 2024年6月9日来訪
松尾芭蕉が「奥の細道」で訪れた、みちのく四寺廻廊 巡拝の旅です。
最初に訪れたのが、通称 山寺と呼ばれる「宝珠山 立石寺(ほうじゅさん りっしゃくじ)」。
境内で最も高い「奥の院」まで、山門から1,015段ある石段を上る。
参道を登山口から登り始めて40分、荒くなった息を何とか落ち着かせ、目の前にたたずむ奥の院に向き合う。
左側に大仏殿を構える奥の院は、正式名称を「妙法堂」といい、慈覚大師が中国で修行中持ち歩いていた釈迦如来と多宝如来をご本尊としているらしい。
立石寺は、慈覚大師により開山された天台宗に属する寺。
860年(貞観2年)開山の折に本山延暦寺から分灯された不滅の法灯が、根本中堂堂内にて、今も灯され続けている。
翌日向かった先が「毛越寺(もうつうじ)」。
特別史跡、特別名勝と、国から二重の指定を受けている毛越寺は、仏堂と苑池を配した浄土庭園が類い稀なる美しさを見せる寺院だ。
珍しく、かつ読みにくい寺名の、由来が気になる。
慈覚大師が東北巡業の折にこの地にさしかかった時のこと。
一面に霧が立ち込め、前に進めなくなった。
足元に落ちていた白鹿の毛が気になってたどると、そこには白鹿がうずくまっており、近づくと白鹿に代わり白髪のご老人が現れた。
ご老人の、「ここに堂宇を建立せよ」とのお告げを薬師如来の化身によるお言葉と感じ、嘉祥寺を建てたのが毛越寺の始まりだ。
読み方は、「もうおつじ」と呼んでいたのが、変化して「もうつうじ」になったとか。
今では火災で消失した数ある堂宇の場所を、遺構である礎石が残る中で、白い角柱の標が静かに指し示す。
その中で特筆したいのが、「金堂円隆寺」跡。
毛越寺の中心伽藍で、藤原二代 基衡が万宝を尽くして建立した勅願寺だ。
本尊は雲慶作、丈六の薬師如来。
東廊先端には鐘楼が、西廊先端には経楼が付属していた。
『吾妻鏡』には、「毛越寺本堂の金堂は円隆寺といい、金銀を沢山用いて、紫檀や赤木などを使用し、多くの宝物で彩られていたこと」、「雲慶による丈六薬師如来像と十二神将像が祀られ、玉眼入りの仏像としては最初の例だったこと」が記されている。
比を見ない豪華なお堂を思い、想像が無限にかき立てられる。
毛越寺と同様、850年(嘉祥3年)に、慈覚大師円仁により開山されたと伝わる「中尊寺(ちゅうそんじ)」。
藤原初代 清衡(きよひら)が造営した中尊寺は、毛越寺から1.5qほどの距離にある。
1,000円の拝観券を購入し、「讃衡蔵(さんこうぞう)」で奥州藤原氏の残した3,000点余りの文化財を拝観したあと、東北の名だたる観光スポット「金色堂(こんじきどう)」へ足を向ける。
参道から確認できる金色堂を示す建物は、金色堂を囲い守る覆堂だ。
実物のお堂は覆堂の中にすっぽりと収められている。
まだ見ぬ至宝への期待から高鳴る鼓動を抑え、覆堂の入口に足を踏み入れる。
薄暗い覆堂の中に入ると、眩い黄金の輝きが目に飛び込んできた。
中尊寺創建当初の姿を今に伝える、唯一の建造物である金色堂。
今年は、金色堂が上棟されて900年になる。
奥州藤原氏初代 清衡公の、極楽浄土の有り様を具体的に表現したいという切なる思いが、当時可能な工芸技術の粋を集めた。
仏具を含めた内外全てが金で覆われ、夜光貝を用いた螺鈿細工や、象牙や宝石による装飾が光り輝き、見る者を魅了する。
初代清衡公を始め、二代基衡(もとひら)公、三代秀衡(ひでひら)公、四代泰衡(やすひら)公の亡骸が、棺に納められて今も安置されているという。
金色堂を内包する覆堂内は一切撮影禁止。
讃衡蔵館内に設置されてあった記念写真撮影用の背景ボードに、金色堂が写っていた。
こちらの写真で、金色堂の実像に思いを巡らせていただきたい。
一山寺院 中尊寺の中で中心となる建物「本堂」。
お堂の中へ上がると、ご本尊丈六の釈迦如来が、慈悲深い穏やかなお顔を見せていた。
像の高さは約2.7m、台座や光背を含めた総高は5mに及ぶ。
天台宗の東北大本山である中尊寺本堂には不滅の法灯が護持されており、ご本尊の前、左右にその法灯を確認できる。
祭壇ろうそくの火は、毎朝この不滅の法灯から灯される。
四寺廻廊の巡拝4つ目は「瑞巌寺(ずいがんじ)」だ。
参道の入口「総門」を抜けると、目の前に広がるのは、参道に沿って無造作に点在する杉の木。
空いた場所には、杉の木を伐採した跡である切り株が残り、寂しい景観の印象は否めない。
地元の観光ガイドが、写真を片手に説明する。
時の分岐点は2011年3月11日。
東日本大震災が起きた日だ。
瑞巌寺前に広がる松島海岸も、震動や津波により諸島が崩壊し、海水による塩害で松の木も次第に枯れていった。
津波は瑞巌寺境内にも浸水したとのこと。
境内参道両側に、びっしりと生い茂っていた杉の木が作る過日の光景は、ガイドが手に持つ写真でうかがい知れる。
月日の経過とともに杉の木が枯れていき、伐採を余儀なくされたらしい。
伐採された杉の木、その数、実に700本余り。
ガイドの発言に言葉を失う。
津波による浸水は堂宇には到達せず、建物は奇跡的にひびが入った程度の影響で済んだ。
伊達政宗公の創建で、5年の歳月をかけて1609年(慶長14年)に完成した瑞巌寺。
「本堂」は、10室からなる大規模な建物で、国宝に指定されている。
各部屋は、相応しいテーマに沿った目を見張る絵画や彫刻で装飾されており、部屋ごとに造りが異なっている天井も併せて拝観したい。
「上段の間」には、伊達政宗公等身大の甲冑倚像がレプリカで飾られており、ご本人を目の前にしているようで見応えがある。
明治天皇が東北御巡幸の折に一夜をお過ごしになられたという「上々段の間」では、天井の格子が花菱格子となっているなど、趣向を凝らした室内の造りを拝見できる。
松尾芭蕉の足跡を追う中、中尊寺の金色堂など創建時から大切に残されてきた物がある一方で、戦争による火災や自然災害で失われてしまった国の宝が数多くあることを知った。
万象に変化をもたらす時の流れを越えて、芭蕉が詠む俳句の心情は、未来永劫伝えられていくに違いない。
詳しくは以下のリンクを参照してください。
宝珠山 立石寺 https://rissyakuji.jp/
天台宗 別格本山 毛越寺 https://www.motsuji.or.jp/
関山 中尊寺 https://www.chusonji.or.jp/
国宝 瑞巌寺 https://www.zuiganji.or.jp/
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